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  2Kの君 作者:miz
第三章 彼女の日常、彼の憂鬱
3−16
 瞬きひとつした後そこに在ったのは、凛子にとっては見慣れた光景だった。
 玄関に脱ぎ散らかされた靴類。奥へと続いている廊下は、資源ゴミの日に出そうと思っていた空き瓶や空き缶が雑然と壁側に寄せられ、コンビニのビニール袋が床に転がっている。オンライン書店から届けられた特徴あるロゴが印刷された段ボールは、開封され横倒しの状態でリビングとの境界を塞いでいる。やや遅れて呆れたような溜め息を落とした男の背をぽんぽんと軽く叩き、片方だけが裏返しの状態で落ちている室内履きを拾い上げると、凛子はくすくすと笑った。

「まあ、遠慮せずにあがってよ。一応土足禁止だから靴脱いでね」
「…………脱ぐ必要があるのかこれで!?」
「日本の家屋はアゼリアスと違って土禁文化なのです」
「――掃除しろ」
「週末にしようかなと思っていたんだけどねー……って今日はいつなんだろ!? やばくない?」

 あっさりと帰還を受け入れた凛子が騒々しく奥の間へ駆け込んで行く様子を横に、シェイルは苦笑する。
 彼女は、何も変わらない。何もかもが記憶のままだ。


 チェストの上に置かれてある置き時計の秒針は、5の数字の箇所で繰り返し震えている。長針は8短針は6を示していた。朝の八時半なのか夜の八時半なのか判断がつかなかったが、あらかた室内を検分しても、あの日――界を跨いでしまった日――の朝と然程様子が変わっていないように思える。つまり、凛子の失踪が知れて誰かがこの部屋に入ったという様には見られなかった。一ヶ月近くこの世界にいなかったというのに。

 いまこうやって帰還出来た事も運が良いが、誰にも知られなかったというのは更なる幸い。然しながら、結果的に打ち合わせをすっ飛ばしてしまったのだから、仕事的にはかなりの問題だ。この閉鎖空間から解放されたら一番最初にフォローしよう。今日が何曜日なのかも検討つかないが、固定電話の留守電にも進退を窮するような伝言は登録されていないところをみると、どうにかなりそうな気がする。そう自分を納得させたのち、改めてキッチンへ向かい電源が切れたばかりであろう冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、所在無さげに立っていた男に手渡した。

「とりあえず無事の帰宅にかんぱーい。ありがとシャール」
 シェイルは自制心を総動員しつつも、なかば自棄糞になりながら金属の筒をあおる。
「はあ。これこれやっぱりこのぷしゅーしゅわーってのが無いとね。疲れた身体に最高のご褒美」
「お前は……なんというか……」
 邪気のなさそうな笑顔に、返す言葉が見つからない。
「なに? って言葉通じるっていいねえ。言いたい事沢山あったんだけど、時間的制約があると、なんだか思った事言えないもんなのね」
 ぼすっとソファにだらしなく身体を投げ出す凛子の横に、シェイルは遠慮がちに座る。
「言いたい事、とは」
「例えば……」

 クッションに背中を沈み込ませ、ぼんやりと室内を見る。暗い液晶テレビの画面が目に入る。視線を転じるとベッドが映り込んでくる。その横に空気清浄機。壁面の収納。一人で暮らすには十分機能的な配置だ。
「私の住んでる部屋みたいな単身向けの集合住宅とかは無いのかなーとか。ロサさんとこは戸建てだったし。リラさんの所は食堂兼宿泊施設だろうし。シャール達が居た所ってパブリックスペース――公的な場所」
 言葉を捏ねくり回して、凛子は内心で眉を下げる。
 本当は知りたいのだ。
 今、隣に在る男が何であるのか。なぜ、あの日彼の寝室と自分の部屋がつながってしまったのか。どういう事情があって、界を分けていた扉がつながり、閉鎖空間を造り上げたのか。

 胸の内でぐるぐるうずまく疑問をなんとか押さえ込みながら、青灰の瞳を見れば興味深げにこちらを見返していた。
 男の頭はやや傾げられている。

「このような部屋が、いくつもあるのか――?」
「ん――?」
「狭小な空間に、生活に必要な最低限の物を無理矢理詰め込んだ部屋がいくつも連なっているのか?」
「えっと……うん」
 凛子はシェイルの興味の方向を掴みきれずに、結局頷いた。
「お前の様な独身女性勤労者向けの集合住宅なのか」
 純粋な好奇心から連ねられた音節なのだろうが、なんとなく貶されているような気分になり、むっと口を尖らせる。
「独身独身ってうっさいな。それに女性専用マンションじゃないから普通に男性も入居してるよ。うちの隣は男の人だし」
 昨今、隣人との付き合いが少なくなったとはいえ、隣人の存在くらいは認識している。
 一ヶ月に一回顔を合わすか合わさないか程度だが、顔を合わせば互いに会釈ぐらいはする。
 自分と同じくらいの年頃の隣人の姿を思い出す様に、凛子が隣の部屋と隔てる壁を凝視していると、横から慌てた様な声が発せられる。

「その薄そうな壁の向こうに男が!? どういう者なのだ其奴は!」
 捲し立てるシェイルに今度は凛子が首を傾げる番だった。
「其奴は! って言われても、良く知らないよ。普通のサラリーマン――勤め人なんじゃない?」
「得体の知れぬ者が近くに在るというのに危機感が無さ過ぎる」
「なんなのいきなり。そんな事言われたって知らないもんは知らないんだから仕方ないでしょ」
「何かが起こってからでは遅すぎる」
 どん、とシェイルが勢い良く缶ビールをローテーブルに叩き付ける。
「何かって何!」
 負けじと凛子は空になった缶を握りつぶす。
「そんな事言えるか!」
「逆ギレ? 意味判んない!」
「そもそも言葉も不自由していたお前が五体満足で居られたのは、運が良かったからだと理解しているのか?」
 もちろん、凛子も想像はした事がある。雪原に飛ばされた時も、生まれて初めて投獄された時も、ディエルに保護された時も、最悪の事態を想像はした。
 しかしそれは、現代日本でも起こりうる犯罪事情のように――そうテレビのニュースで流れるような――自分の身には起こらないだろうと思ったのも事実だ。
 生まれた背景や価値観が違う。そうぶった切ってしまえば、話は終わる。
 理解ではなく拒絶。なんとなく後ろめたさを感じながらも、勢いで返してしまう。
「そうだねー。すっごく運が良かったんだね私。でもね、ここは帯剣するのも法律で禁止されている国でアゼリアスとは違うの。シャールの常識を押し付けないで」
 次第に冷えていくシェイルの視線に、いたたまれなさを感じ顔を逸らす。べこべこになったアルミ缶の表面を指でなぞっていると、吐き出す様に「そうだな」と男が呟いた。
 
 最悪だ。
 希有な体験をし、これからの人生がより深みのある物になるであろう予感さえ感じていたのに。
 どうしてこの場面で、可愛げの無い物言いしかできないのだろうか。
 もう、二度と会わない相手に対して何故。
 ぎゅっと胃を鷲掴みにされているような痛みに、顔を顰める。
 

 胸の辺りを右手で掴んだまま、険しい顔をしている凛子の横顔を飽くまで眺め、シェイルは艶やかな黒髪に手を伸ばす。
 はじかれた様に見上げる漆黒の瞳は、後悔に揺れているようだった。
 少しでもこの別れに寂しさを感じてくれているのか。自惚れた思いかもしれないが、そこには目を瞑り、温もりを抱き寄せる。
 
「ごめん……思ってない事言ったとは言わないけど、酷い事言った気がする」
「迂遠だな」
「うん……でも普通に生活している分にはたぶん安全だと思うから。一応、そういう所ちゃんとしているつもり、だから」
「もう言いから黙れ」

 華奢な顎を掬う。眉を顰めたままぐっと唇を引き結んでいる表情は甘やかなものではない。
 顔を寄せると、腕の中の身体が緊張した様に強ばる。
 口付けてしまおうと思ったのだが、そのまま女の肩口に頭を埋め込み、その存在を確かめる様に両腕を背中に回した。
 鼓動が近かった。
 生きているモノの証だ。
 夢でも幻でもなく、まだ、この腕の中に在る。

『いずれにしろ憎まれるなら、僕なら手放さないなあ』

 異母弟の言葉に、自嘲するようひそかな笑いを落とす。
 手放すも手放さないも、最初からそのような選択肢は用意されていない。
 念の入れた制約に、半分は呆れる思いもするのだが、彼女を忘却せずに済む未来を考えると穏やかな気持ちになる。
 
 此度の隔離結界が解除されるのは半刻程度。

 腕の力を緩める。

「そろそろ時間だ」
 きょとんとした顔でこちらを見返す女にそう告げる。
「え、もう? 二昼夜とかいってなかったっけ」
「さすがに三月も不在できない」
「あ……そ、だよね」

 ぽんぽんと頭を叩かれ、途端に鼻の奥がツンとしてくる。
 立ち上がるシェイルを凛子は目で追う事しか出来なかった。

「万が一の事態を考えるとお前はここに居た方がいいな」
「え、ちょっと」
「会えて良かった」

 遠ざかる背中を呆然と見送る。
 部屋を繋ぐ扉は未だ開かれたままで、彼の部屋と自分の部屋がひとつの閉鎖空間を作り上げているのは確かなのだが、自分が座っている場所からシェイルの姿が完全に見えなくなると、凛子はかなり慌てた様子で玄関へと向かった。

「私はまだ、さよなら、とか言ってないんだけど!」
 怒鳴りながら石造りの部屋へ足を踏み入れると、指を組んで長椅子に座していたシェイルがぎょっとした表情で立ち上がる。
「何やっているんだ! いいから戻れ!」
 もの凄い勢いで両肩を掴まれ、ぐいぐいと押される。
「痛いって!」
「戻れ!」
「だから、さよならって」
「わかった! いま聞いた!」
「そういうアレじゃないでしょ! なんかもっとちゃんと言わないとすっきりしないっていうか」
「お前の言いたい事は判る気もするが、戻れ!」
 えらい剣幕に、凛子も負けじと勢いづく。
「今生の別れだってのに、なにそれ!」

 互いの部屋を繋ぐ境界付近で押し合い、なんとか凛子を彼女の部屋へと押し戻したシェイルは、額を手で押さえる。
 息を乱しこちらを睨み上げる女に対して、説明が足りないとは思ったものの、懐から出した物を突きつける。
 昔懐かし水銀体温計のようなものを翳され、凛子は胡乱な目になる。
 黒色のラインと白色のラインが同じくらいの長さで伸びている。
「刻計だ。半刻程度と定義されているから、今にも切り離される可能性が高い」
 主語もろもろがすっとばされた言葉からは、シェイルの焦燥が伝わってくる。
 いつぞやの時のように、いつ互いの空間が切り離されるかは判らないらしい。
 じわりと黒のラインが僅かに長さを伸ばすのを認め、凛子はこくんと頷いた。
「せめて最後のときまで、見える所に居てよ。シャールはそっち座って。いい逃げって良くないと思う」
 一瞬だけバツが悪そうな顔をしたシェイルが、床に腰を下ろす。
 あの日の再現の様に扉を境に二人は向き合った。

「ありがとう。って言葉だけじゃ伝えきれないくらい感謝しています。もう二度と会えなくなっちゃうのが、ぶっちゃけ今でも信じられないんだけど、シャールの事は一生忘れないと思う。いつまでも健康でいて、幸せな日々を送ってください」

 正座し三つ指をついて頭を下げた凛子には、シェイルの表情は伺えない。
 だがしかし頭をあげようとした凛子の視界に、とんでもない物が飛び込んでくる。
 仕事道具の詰まった鞄やらが石床に放置されている。

「シャールやばい! あれとってきて」

 騒々しく少し離れた所を指差す凛子に、シェイルは我に返ったように視線を巡らせる。
 彼女の荷物が一カ所に纏めておかれてある。
 鞄やら細長い棒やらを引っ掴み、凛子に放り投げる。
 その際、鞄に刺す様にして突っ込んでいたミアリエルからの書簡が転がり落ちる。

「なんで最初から運んでいないんだ」
「だってこんなすぐとは思わなかったんだもん! シャールあれも! 書簡!」
 騒ぎながら可笑しくなってくる。
 しみじみと別れを告げ、その時を待つよりか、ずっとマシかもしれない。
「この衣装箱はどうする?」
「そんなのいらないよ! 書簡だけでいいって」
 ディエルが記念に、と用意してくれた衣装箱には、あちらで生活していた際に身につけていた衣服などがぎっしり詰まっているのだが、そんなものを持ち帰っても使用用途が無い。というか、使用してはいけないモノだ。未知なる素材がうっかりとこの世に出てしまうかもしれない事を想像するとぞっとする。いつか処分しなければいけないのなら、最初から持ち帰るべきではない。
 シェイルの手が書簡を掴む。
「ついでに朗読して! 読め無かったんだそれ」
「何、言っている――」






 その刹那、凛子はもしかしたら境界を少し越えていたのかもしれない。
 眩い光が弾け、叩きつけられる衝撃。
 床石に鼻を打ち付け、あまりの痛みに、気が遠くなる。
 ごろりと逆向きに転がされ、肩に圧力がかかる。
 混乱に揺らぐ視界の中、扉が形状を崩し、雲散してゆくのが見えた。
 そしておりてくる鈍色の切っ先。
 錆びた鉄の臭いが広がる。

「このような場所まで入り込んだ侵入者は、久しいぞ」
 暗い声、暗い瞳。
「さて……」
 額づくように凛子に顔を寄せた男の亜麻色の髪が落ちる。酷薄そうな笑みを浮かべていた唇が開かれる。

「どうしてくれようか、女」


 
 

妙な所で区切ってしまいました・・
第四章は鋭意執筆中です!


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