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CASE2 病人:11
「じゃあ、そろそろ帰るわ」
「うん。また明日」

 すっかり辺りは暗くなり、車のライトの光が彩香の病室をよぎる。
 総志朗は去り際、彩香の方に顔だけを向けて、にっこりと笑った。その瞬間、彩香は胸をぎゅっとつかまれたように苦しくなった。

 あの笑顔をいつまで見ていることが出来るのだろう……

 考えたくもないことが何度も脳裏をかすめる。もう時間はあまり残されていない気がした。
 戸棚から手鏡を取り出すと、おそるおそる自分の顔を見る。頬がこけ、目元はクマでまっくろ。憔悴しきった顔が映っていた。
 
 もう、あと少ししか無い気がする。

 生きる時間は残りわずか。彩香はそれをはっきりと自覚していた。やらなければならないことがある。ほんの少ししか無い自分の時間を無駄にせずに、最後まで生き抜くために。
 抜けない死への恐怖感。それさえも乗り越えようとする、彩香の強い意志。
 彩香は血管が紫色に透けてしまっている白い腕を伸ばし、紙とペンを取り出した。





 白い陽光が射す、病室。花瓶に活けられたコスモスの花から、ひらりひらりと花弁が落ちる。

「こんにちは」

 オフホワイトのワンピースに身を包んだ梨恵が、りんごが2つ入ったかごを抱えて、彩香の病室に訪れた。

「ごめん……なさい。よ……びだして」
「ううん。どうしたの?」

 今日は体調が悪い。そのためか、彩香はうまく言葉が紡げずに、イライラを募らせる。そんな彩香に柔らかな笑顔を向ける梨恵。りんごを果物ナイフで剥きながら、彩香の言葉を待つ。

「総、君に、そ……れ、渡して……」

 ベッド脇の棚に、銀行の封筒と茶色のシンプルな便箋が置いてあった。りんごの汁が手についたのをティッシュで拭って、梨恵はそれを手に取る。
 銀行の封筒はほんの少し厚みがあった。

「これ、なに?」
「お金……です。い……依頼料。昨日、お……父さんに、た、頼んで、私の、口座から……引き落とし、て……もらった、の」
「彩香ちゃん……」
「……立つ鳥、あとを濁さず、だから」

 どんな言葉をかけていいかわからず、梨恵はそっと彩香の手を握った。骨ばった手は女の子らしい柔らかさはなく、ひんやりと冷たかった。

「そっちは、手紙。私から…の……ラブレター」

 茶色の便箋を指差して、彩香はウフフと笑った。どんなにやつれていても、それは恋する女の子の、かわいい笑顔だった。
 
「私が、死んだら……総君に、渡して……」






 ズン、ズンと腹の底に響き渡るクラブの音楽。DJがヘッドフォンを片耳に当て、音を作り出す。
 ハウスの軽快な音楽。リズムが刻まれ、時折女の歌声が入る。

「総、ビールでいいのか?」

 カウンターでぼんやりと佇んでいた総志朗に、学登が問いかけるが、反応は無い。
 少しだけずれたサングラスを人差し指で直して、総志朗は顔を上げた。

「いらない」
「総、お前」

 学登が何かを言いかけているのに、総志朗はスタスタとクラブを出て行った。
 吸い込まれそうになる暗闇の空。都会とは思えないほど、その日はなぜか、空はどす黒かった。それなのに、月だけが異様に白く、浮いている。

「……なあ、総志朗。お前も、そろそろ、終わり。ユキオが、目覚める」

 月を見上げ、総志朗はそうつぶやいた。
 サングラス越しの左目が月の光に反射して、エメラルドグリーンに光る。人の目とは思えない、その左目。

「哀れだな。同情してるんだろ。死ぬ女に。自分の運命を照らし合わせてる。馬鹿だね」

 くっくっと笑う彼――光喜は、夜の闇の中へと歩き出した。








 けたたましく鳴り響いた、ケータイの音楽。疾走感のある爽やかな曲は、梨恵のケータイの着信音だ。
 2階から聞こえてくるその騒音に、「うるせぇ」と文句を言いながら、総志朗はベッドで寝転がっていた。
 少しの間のあと、ドタドタとこれまた騒音を出しながら、梨恵が2階から降りてくる。

「うるさいんですけどお」
「総志朗」

 いつものように「うるさいじゃないわよ! 私からすればあれくらい静かな音よ!」と怒鳴るかと思っていたのに、梨恵は息を切らせ、そのまま何も言わない。
 不思議に思って顔をあげた総志朗の目に映ったもの、それは蒼白になった、梨恵の顔だった。
 梨恵のケータイを握る手が、わずかに震えている。総志朗は梨恵の姿を上から下まで見たあと、ごくりと息を飲んだ。脂汗が、じわりとにじみでてくるのがわかった。

「彩香ちゃん、危篤だって……」










 怖い。
 怖かった。
 溺れていっていたのは、わかっていたから。
 それが、何を意味するかも、わかっていたの。
 ただ、気付かないふりをしていただけ。
 目を背け、見なかったふりをしていただけ。
 総志朗。
 あなたも、怖かったでしょう?
 失うことを、何よりも恐れていたもの。

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