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作者:沢上澪羽
性的な表現も少々含まれています。
苦手な方はご注意ください。
それ(・・)は、使わなくなっていた鞄のポケットの中にあった。
それは、香乃かのの掌の上で、冷たく硬い質感を持って存在感を示し、鈍く光っている。


「これ・・・」


人差し指と親指でつまむようにして、香乃はその小さな鍵を目の高さまで上げて、しげしげと見つめた。
その鍵には、見覚えがある。
「・・・雅行まさゆき・・・」
苦々しく呟いて、香乃はその鍵を部屋の片隅に投げつけた。鍵は『カチリ』と硬い音を立てて、壁にぶつかって落ちた。
「何だって今更こんなものが」
香乃の脳裏に、雅行との日々が浮かび上がっては消えていく。
望まれて付き合って、2年ほど付き合ってから香乃の方から別れを切り出した。
あの鍵は、付き合っていたころに雅行から渡された、彼の部屋のものに他ならなかった。
本当ならば、別れた時に返すべきものだったのだろうけれど、あの鍵は未だに香乃のバックの奥底のほうに、隠れるようにしてひっそりと香乃のそばにいたのだった。
なんだかずっと雅行が自分の近くにいたようなそんな錯覚をして、香乃は思わず身震いをした。
部屋の片づけをしようと思って、色々なものを引っ張り出していたら、とんでもないものを見つけてしまった。
もう片付けの気分でもなくて、香乃は広げてあったほかのバックや小物類を、強引にクローゼットに押し込むと、ペットボトルのお茶を一口飲んだ。
いつもよりもお茶が苦いような気がして、思わず顔をしかめる。
勢いよくソファーに座ると、その視線はさっき投げつけた鍵に向かってしまう。
鍵は静かに床に落ちていた。
ただ、そこに存在しているだけ。
なのになぜか、香乃の視線はそこに吸い寄せられてしまう。
そして、雅行とのことが思い出されるのだった。


彼は医者だった。
馴れ初めは、雅行の一目惚れだ。
医療事務をしていた香乃は、顔は好みではないけれど、『医者』と言う職業を持った雅行にアプローチされるのは悪い気はしなかった。
それに、自分の彼氏が医者だなんて、まるで自分のステータスさえ上がるような気がして、すぐに付き合いだしたのだった。
最初のうちはそれなりに楽しかった。
けれど、雅行は香乃を縛りつけようとしたのだ。
香乃の時間は全て自分の時間でなければ気がすまないように、香乃を縛り付けた雅行。
若い香乃にはそんな束縛が耐えられなかった。
もともと好きという感情よりも、医者と付き合っている自分に酔っていた香乃にとって、雅行の束縛は甘くて愚かな思いから目を覚まさせるのに十分すぎるものだった。
何度も別れようと思いながら、別れてしまってからの一人になる寂しさを考えると、なかなか別れられないまま、香乃は2年と言う時間を雅行と過ごした。
雅行が結婚をほのめかすようになってきて、香乃はやっと決心して彼に別れを告げたのだ。



それで終わっていれば、こんなにも悪い思い出にならないで済んだのに・・・と、香乃はため息をついた。
部屋の片隅に投げ捨てた鍵を拾い上げて、テーブルの上に置く。
いつまでも部屋の片隅に放っておくわけにもいかない。
「どうしよう・・・」
と、途方に暮れたように香乃は呟く。
もう雅行と別れてから2年近く経っていた。
雅行からの連絡が途絶えて1年。やっと忘れることができたと言うのに、今更出てくるなんて、なんて皮肉だろう。
いっそのこと、ほかのゴミと一緒に捨ててしまおうか?
そう思ってみたものの、もともとは自分のものではない鍵。もしかしたらまだ雅行はあの部屋に住んでいるのかもしれない。それならば、やはりゴミとして出してしまうのはまずいような気がした。
それでは誰にも拾われないように、川にでも捨ててしまおうか?
・・・ズキリ。
そう思ったときに激しい頭痛に襲われて、香乃は首を振る。
何かが頭の中で引っかかったような気がしたが、その考えは形を成さずに消えていった。


『ぴんぽーん』


チャイムが鳴り、香乃が玄関に向かう前に、ガチャリと鍵が外側から開かれ、長身の男が入ってきた。
健一けんいち
香乃は嬉しそうな声を上げて、部屋に入ってきた男に抱きつく。
さっきまで雅行とのことを思い出して、もやもやとした胸の中が一瞬にして楽になっていく。
「どうしたんだ?香乃。そんなふうに飛びついてくるなんて、珍しいな」
健一が香乃の頭を優しくなでる。
「ううん。なんでもないの。健一に会いたかったんだ」
「香乃・・・」
いつもと違う香乃の様子に触発されたかのように、健一がその体を抱きしめながら、長いキスをする。
「んん・・・健一」
香乃は雅行のことを自分の中から追い出したくて、いつもよりも健一が欲しいと思う。
その思いに答えるかのように、健一はソファーに香乃を押し倒した。
健一の足が、テーブルにぶつかり、その拍子にテーブルの上から鍵が転がり落ち、床の上で硬い、警告音のような音を立てる。
香乃はびくりと体を硬くして、視線を床にと落とす。鍵はソファーのすぐそばに転がっていた。
「香乃・・・?」
体を硬くした香乃に気が付いて、健一が声をかける。香乃は視線を床に落として、青い顔をしていた。
「どうした?」
「ごめん。何でもないの」
香乃は体を起こすと、曖昧に笑った。
背中に一筋汗が流れる。まるで鍵に見張られているような気がして、これ以上健一を求めることもできない。
「ねえ、健一。ずっと一緒にいてね?」
潤んだ瞳で見上げてくる香乃を健一が抱きしめる。
「本当にどうしたんだよ、今日は。大丈夫だよ・・・」
「約束よ?」
「ああ、約束」
香乃は力いっぱい、不安を振り払うように健一にしがみついた。
・・・早くどうにかしなくっちゃ・・・。
香乃は床に転がっている鍵を横目に、強く思った。




この鍵は雅行の部屋の鍵であり、私を縛り付ける鎖の鍵のようなものでもあった。
香乃は重い足を引きずるように歩きながら、そう思った。


その鍵をもらったとき、初めて男の人の部屋の鍵をもらったことに、香乃は単純に嬉しいと思っていた。
けれど、その鍵をもらってから、雅行の束縛は更にエスカレートしたのだ。
香乃が休みのときは、その鍵を使って雅行の部屋で彼の帰りを待たなければならなかったし、友達と出かけても、その帰りにその鍵を使って彼の部屋に行かなければならなかった。
逆らうこともできたのだろうが、香乃が逆らうと、彼は殴ったりしないものの、何度も何度も香乃に言い聞かせるように自分の主張の正当性を語った。
「でも」とか「だけど」とか香乃が言っても、雅行は絶対に主張を変えず、香乃が理解するまで彼女を解放しなかった。
そして、一切香乃の主張は認めない。まるで呪文のように自分の主張を繰り返すのだ。
それは香乃から反論する気力を奪うくらいに・・・そうして香乃は心理的にも雅行に縛られていたのだった。


嫌なことを思い出して、香乃は眉を寄せショルダーバッグをぎゅっとつかんだ。
そのバッグの小さなポケットの中に、あの鍵が入っている。
重い足取りで向かった先には、もう二度と来ることはないと思っていた雅行のマンションがあった。
マンションを見上げ、決心したように雅行の部屋を目指す。
鍵は、持ち主である雅行に返すべきだと思った。
平日の日中ならば、仕事に行っているはずだから、ばったり顔を合わせることもないだろう。
『鍵は持ち主に返すべき』
確かにそう思っているのも事実ではあったものの、香乃は捨ててしまうのでは自分の良心が痛むような気がして、本人に返そうと思ったに過ぎない。
自分の罪悪感から逃れるために、今更鍵を返される雅行のことなど思う余裕さえもなかった。
それに、今更雅行のことなど思いやる必要などないとさえ思うのだった。
あれだけ私を苦しめたのだから、別に思いやる必要もない。と。



携帯電話を見ると、数十件の着信。そのどれもが雅行からのものだった。
別れて数日後から、それは始まった。
雅行と別れるのと時を同じくして仕事を辞めていた香乃は、それまで感じたことがないような自由な気持ちで日々、友達と出かけたり、ドライブを楽しんだりしていた。
しかし、それを許さないかのように、雅行から頻繁に着信が入るようになったのだ。
別れたとはいっても、つい最近まで彼氏だった人間を無視することもできず、電話に出ると、
「香乃、やり直そう」
「もう一度でいいから会って欲しい」
「帰ってきてくれ」
そんな言葉がいつも並べられた。
時には、そのころ実家暮らしをしていた香乃の実家のそばまで来て、「迎えに来たから、これから会おう」と電話をしてきたりした。
着信を無視すると、香乃が電話に出るまで着信はやまない。
身の危険を感じた香乃は、家から出られなくなってしまった。
何度「やり直す気はない」「もう会えない」と言っても、雅行は理解しない。
時には香乃の言葉に逆上して、雅行から電話を切ってしまうこともあったが、数分後には何事もなかったかのように猫なで声で電話をよこす。
たとえ香乃の言い分を理解したかのように「分かった。もう電話しない」と言っても、忘れたかのように、数日後には電話が鳴った。
友達が送り迎えをしてくれるというので久しぶりに夜出かけたときなど、「男と一緒にいるなんて許さない」と電話があり、怖くなって帰ったこともある。
着信拒否などしたら、本当に実家まで来てしまうのではないかと思うと、着信拒否をすることもできない。
しかも、時々カーテンの隙間から外を見ると、香乃の部屋の様子を伺うような影が見られるようになった。
散々、メールでいやらしい言葉や暴言をぶつけられる。
警察に相談しようか・・・、本気でそう思っていた。そんなときに出会ったのが健一だった。
健一は事情を知ってそばにいてくれ、何度となくかかってくる雅行からの電話にその都度出ると、「香乃は俺と付き合っているから、もういい加減にしてくれ」と雅行に何度も言ってくれた。
そうしているうちに、雅行からの連絡は途絶えていったのだった。
それから健一と付き合うようになった香乃は、一人暮らしを始めることもできのだ。



あのころのことを考えると、吐き気さえ覚える。
別れてもなお、香乃を縛ろうと必死だった雅行。
そうされればそうされるほどに、香乃の気持ちは間逆の方に行ってしまうことも分からずに。


間違うことなく、香乃はその部屋までたどり着いた。
そんなに大きな建物ではない。すぐに雅行の部屋は見つけられる。
表札にはまだ雅行の苗字がかけられていて、まだそこに彼が住んでいるのだということを香乃に知らせている。
そっとドアに近づいて、香乃は部屋の中をうかがう。
部屋の中には人の気配はなく、留守であろうということが分かった。
バックに手を突っ込み、鍵を取り出す。
素早く郵便受けの中にその手を入れ、鍵を落とせば全てが終わり・・・のはずだった。
それは小さな好奇心。
手の中には鍵。目の前には手の中の鍵で開くドア。
香乃は郵便受けに入れかけた手をゆっくりと引き抜くと、手を開いて掌の上の鍵と鍵穴を交互に見る。
本当にほんの小さな好奇心。
香乃は鍵を鍵穴に刺すと、ゆっくりと回す。鍵は『かちゃん』と何の抵抗もなく開いた音がした。
自分でそうしたにも拘らず、香乃は酷く驚いた様子で、もう鍵のかかっていないドアを見つめた。
それからゆっくりとドアノブを回す。ドアノブは『どうぞ』とでも言うように、すんなりと回ってそのドアを開けた。
開けてからも、香乃は戸惑う。
帰ったほうがいいと警告する自らの声と、入ってしまえという自らの声、その二つがせめぎ合い、好奇心という名のスパイスを加えられた分、後者の方が勝ってしまった。
一時は付き合い、別れた後はまるでストーカーのように自分に執着した男が、今どんな生活をしているのかほんの少しだけ覗いてみたい・・・そんな思いが警告を続ける自分の声を掻き消してしまうのに、時間はかからなかった。
「ちょっと覗いてみるだけなら・・・」
わざと声に出して香乃は、鍵を握り締めてドアの中に体を滑り込ませる。
音も立てずに香乃の後ろでドアが閉まった。
後ろめたさと、好奇心の入り混じった気持ちで急いで靴を脱ぎ、居間へと続くドアを開ける。
ドアを開けた途端、湿気に混じった埃とカビのような匂い、それから確かにこの部屋で嗅いだことのある、懐かしい匂いが香乃に纏わりついてきた。
部屋の中をぐるりと見渡し、香乃は思わず顔をしかめる。
部屋の中は、それは酷い有様だった。
テーブルの上には、ビールの缶やコンビニ弁当の空き容器が積み上げられ、崩れてしまったものが床に転がっている。
食べ残しの弁当さえも床にこぼれたままになっており、いつからそうされているのか、それが元々は何だったのかも分からなくなってしまっていた。
なんだか酸素が薄いような気がして、香乃は思わず咳き込んだ。

やはり、好奇心なんて起こすべきじゃなかった。

そう思ったとき、鍵が手の中からこぼれ落ち、居間と寝室を隔てるアコーディオンカーテンの隙間へと転がっていった。
香乃は慌てて、鍵を拾うためにアコーディオンカーテンに手をかけ、そっと開く。
そして、見たのだ。異様な部屋を。
「・・・なに・・・これ・・・」
香乃は力が抜けたようにその場にへたりと座り込んだ。
その寝室には、写真がびっしりと貼られてあった。
「どうして・・・!」
友達とレストランにいる香乃。
自宅のベランダに洗濯物を干している香乃。
健一と歩いている香乃。
買い物をしている香乃。
全て香乃。
香乃の写真が壁一面に貼られていた。
それは引き伸ばされたものはポスターほどの大きさもある。
大小の香乃の写真が、何の秩序もなく、ただ闇雲にとでも言った風に貼られているのだった。
いつ撮られたのかも分からない写真。雅行は別れてからもずっと香乃の側に間違いなくいたのだ。
その他にも、香乃が忘れていったハンカチやCD、飲みかけのコーヒー、いつか使った割り箸、この部屋で使っていた歯ブラシ、なくしたと思っていた櫛・・・様々な物が、日付を書いたと思われるラベルが貼られ、ひとつひとつジッパーの付いた袋に入れられて棚の中に納まっている。
香乃は体の芯からぶるぶると震えるのを感じながらも、それら全てのものから目が離せない。
写真に何かこびりついた痕を見つけ、それが何を意味するのか思い当たった時、香乃は余りのおぞましさに吐き気を覚え、握り拳を強く口元に押しつけた。
香乃の脳裏に、香乃の写真に向かって、白濁液を何度も吐き出し射精する雅行の姿が浮かぶ。
それは確かに香乃の想像でしかなかったが、香乃は自分の想像が間違ってはいないと確信していた。

「狂ってる」

香乃は震える声で呟く。
けたたましくサイレンを鳴らすように、本能が早くこの部屋から出るように警告する。
香乃自身、もう一時もこの部屋には留まりたくなどなかった。
一瞬でも早く出ていきたいのに、手や足からはすっかり血の気が引いてしまってうまく動かない。
今更後悔しても遅いことを知りながらも、香乃は自分勝手な好奇心でこの部屋に入ったことを激しく後悔した。
震える指をやっと動かし、さっき落としてしまった鍵を、なんとか探り当てた。
手の中に冷たい鍵の感触を確かめながら、香乃はこの鍵はどこか人目に付かない場所に捨てるべきだと思った。
そう、やはり川かどこかに・・・。
ズキリ。
また頭が痛む。
ふっと、なにかの光景が頭の中をよぎった。
自分が橋の上から何かを川に向かって投げている。
きらきら光りながら落ちていくそれは・・・。
・・・そう・・・私は、鍵を捨てた・・・別れてすぐに・・・。
じゃあ、この手の中の鍵はいったい何・・・?


「おかえり」



その声に、香乃は全身から血の気が引いて、体が冷たくなるのを感じた。
恐ろしくて振り向くこともできない。
背後から再び声が聞こえる。


「おかえり、香乃。ずっと待っていたんだよ」


「雅・・・行・・・」
やっと声を搾り出し、首だけ動かして後ろを見る。
少しの気配も感じさせず、雅行は香乃のすぐ後ろに立っていた。
「帰りが遅いから、心配したじゃないか」
後ろから抱きすくめられ、香乃は全身に鳥肌が立つ。体を無理やりに動かして、雅行の腕から逃れた。
「やめて!!」
雅行は、無表情に香乃を見ている。その瞳には、何の光もない。
「帰ってきたんだろ?香乃」
「ち、違う・・・!鍵を・・・この鍵を返そうと思って・・・」
香乃は震えながら、鍵を握り締めた拳を雅行の方に突き出す。
「ああ」香乃の言葉に、雅行は片方の頬を痙攣させるようにして笑った。「招待状を持ってきてくれたんだね」
「招待状?」
引き攣るように笑う雅行の顔から目を背けながら、香乃は訊ねた。手の中にあるのは鍵。招待状など受け取った覚えはない。
「そうだよ。香乃、なかなか帰ってきてくれないから、招待状を出したんだ。ずっと一緒だよって約束したじゃないか。その約束を思い出してくれたんだろ?」
香乃の手の中の鍵が、急に冷たくて硬い質感を失う。
その感触は徐々に柔らかく、そして濡れたような感覚を伝えてきた。
「指切りした小指、受け取ってくれたんだね」

ぽたり。
鍵を握っていたはずの拳から何かが垂れる。
ぽたり、ぽたり・・・。
香乃はこわばる指を一本一本引き剥がすように、手のひらを開いた。
「い・・・・・・やああああああああ!!!!!!!!!」
掌の上には、噛み千切られたかのようにぐちゃぐちゃに切断され、血塗れになった人間の小指があった。
香乃が悲鳴を上げながら、掌にべっとりとついた血を振り落とそうと掌をめちゃくちゃに振ると、さっきまで硬い鍵だったそれは、鈍い音を立ててべちゃりと壁にぶつかる。
雅行は引き攣った顔のままで、けたたましいほどの笑い声を上げて香乃を見ている。
「思い出してくれたんだろう?香乃!!」
「いや!いや!いや・・・!!」
近寄ってくる雅行に向かって、手元にあるものを手当たり次第に投げつける。
クッション、空のペットボトル、何かの薬の容器、空き缶・・・とにかく手当たり次第に。
雅行は避けることもせずに、にたにたと笑ったまま、ひるむことなく、香乃に近づいてくる。
ふと、香乃の手は何か重たいものに触れる。
それが何かも認識しないままで、すぐ側まで近づいてきている雅行に向かってそれを振り降ろした。
ごきり。
鈍く重たい音がして、雅行はぐらりと揺れた。
香乃は改めて自分の持っていたものを見て「ひっ」と、声にならない声を上げ、血と肉片と髪の毛の付着した灰皿を投げ捨てた。
着ていた服にも、血が点々と赤黒い染みを作っている。
「・・・痛いなあ・・・」
雅行の頭部は、明らかに陥没し、そこからだらだらと血が流れてきている。
香乃は首を振りながら後退し、どうにかその場を立ち去ろうとした。
「逃がさないよ・・・香乃。お前は俺のものなんだ・・・」
逃げようとする香乃の足を雅行が掴む。その手は氷のように冷たい。
この部屋から逃げ出そうと思っていたものの、雅行に足を掴まれて、玄関の方に行くことができない。とにかく足を掴んでいる手を振りほどくようにして足をばたつかせ、一瞬雅行の力が緩んだ隙にシャワールームの扉に滑り込んだ。

「かぁーーのぉーーー。お前は、俺のものだぁぁーーー」

神経に障るような、甲高い声で雅行はげらげらと笑っている。
「嫌よ。冗談じゃないわ・・・!」
香乃は最初のドアに鍵をかけ、更にシャワールームに入り、そこの鍵もかける。
震える手で携帯電話と取り出すと、警察に連絡しようと番号を押すが、指が震えていてうまくいかない。
とにかく警察に連絡して、助けてもらうしかないと思った。
自分も不法侵入とか、傷害とかの罪に問われるかもしれないが、雅行から逃げられるのであればたいしたことではないような気さえした。
もう部屋の中からは、何の音も聞こえない。
まるで、雅行も全て消えてしまったかのように・・・。
はあはあと荒い息を整えながら、何度か目にやっと110を押すことに成功する。
コール音をこれほどもどかしいと思うことはないくらいに、香乃は誰かにつながるのを祈るように待った。


ぱちゃり・・・


水音にはっとする。
視線の端に、浴槽。
浴槽の中に・・・なにか。


がちゃりと携帯が香乃の手の中から滑り落ちる。
その音は、密閉された浴室に響いた。
「もしもし、もしもし?」
携帯電話から、香乃が祈るように待っていた誰かの声が聞こえたけれど、香乃にはその声に応えることができない。
ただ、あまりの光景に体からすっかり力が抜けてしまっている。
震えるばかりで声も出なかった。


ぱちゃり・・・ぱちゃん


それは浴槽の中から立ち上がる。
半分溶けかけ、所々骨が見えるモノ。


多分、かつて雅行だったモノ・・・。


「カ・・・ノ・・・」


真っ黒な空洞のような口腔から、そんな声が聞こえた気がした。
けれど、ただ空気が漏れただけで、声と呼べるものではない。
「う・・・あ・・・」
香乃は目を見開いた。
見たくもないのに、ソレから目が離せない。
体の細胞全てが目の前の存在を拒絶しているのに、目だけはソレを見ることを義務付けられたかのように釘付けにされている。
かつて雅行だったモノは、ゆっくりと浴槽から立ち上がった。
にたりと笑ったような気がしたが、表情など読み取れるわけもない。頬の肉は溶け、頬骨が覗き、目のあった場所はただの黒い穴ぼこになっているのだから。
ずるり。
浴槽から出てきたソレは、上半身だけで、腰から下は浴槽の中に転がっている。
千切れた腹部から、紐のような内臓がぶら下がっていた。
ばちゃり。
ソレが動くたびに、肉片が飛び散り、異様な音と臭いとを撒き散らす。
内臓を引き摺りながら、びちゃ、びちゃ、と香乃に近寄ってくる。
もうすでに、正気を保つこともできない。
「あ・・・はは・・あは・・・」
香乃は涙を流しながら笑った。
だらしなく緩んだ口元からは、涎が流れている。


「カ・・・ノ・・・」



再びそんなふうに空気が揺れ、目の前にソレが迫る。
一瞬、ソレは現実の出来事を認知することをやめた香乃の目に、かつての雅行の姿で映った。
「雅行・・・」
香乃はソレに向かって、かつて付き合っていた頃のようにその名を優しく呼んだ。
それから、顔を歪ませ、顔中の筋肉を痙攣させる。
「・・・イヤヨ・・・嫌よ!!嫌よおおおおおおお!!!!!!」
次の瞬間にべちゃりという感覚とともに、香乃の口腔に何かが入り込んでくる。
「ああああああああ!!!!!!!!」
声を出したつもりだったが、実際それは声になってはいなかった。
かつて雅行だったモノの舌が、香乃の喉を塞いでしまっている。
苦しさのあまり、香乃は胸を掻き毟る。
血がにじみ、自分の爪で柔らかな胸の肉を削ぎ落とす。
暗くなっていく視界の中で、香乃が最後に見たのはにたりと笑ったような、かつては雅行だったモノ・・・。
どこかで『かちゃり』と鍵の閉まる音が聞こえた。
そして、香乃のすべては闇に閉ざされていった。









「そう。健一君の彼女さんって亡くなったんだ・・・」
聞いてしまったことをすまなそうに、女は曖昧に笑った。
「いいんだ。変な死に方だったんだ」
「変な?」
聞かれて、健一は遠い目をする。

香乃はかつての恋人だった雅行の部屋で、変死体となって発見された。
最後の電話を不審に思った警察官が、見つけたのだった。
ただ、香乃の死因には不可解なことばかりで、警察も首を傾げるしかなかった。
雅行の部屋から見つかった死体は二体。香乃と、雅行。
けれど、雅行はすでに死後半年は経過していた。多分自然死だろうということだったが、損傷が激しく原因の特定にはいたらなかった。
通帳から家賃は引き落とされていたし、仕事ももう一年も前にクビになっていたので、誰も不審には思わなかったのだ。
その死後半年近く経過した死体の下に、香乃の死体があった。
死因は窒息死。
喉には雅行の肉片が詰まっていたという。
その死に顔は・・・安らかとは言い難いものだった。

何があったのかはもう、誰にも分からない。
暫くの間塞ぎこんでいた健一も、そろそろ忘れろという周りの声に促されるように、今日飲み会に参加したのだった。
目の前で健一を見つめる女を見る。
そう、もう香乃のことは忘れるべきなんだろう。
健一は女に向かって笑顔を見せた。










・・・。


・・・ケンイチ・・・。


・・・ズット、イッショニイマショウネ・・・・。






ポケットの中に違和感を感じて、健一はそっと手を入れた。
「どうしたの?」
「ん?いや・・・」
手の中には小さな鍵。



香乃の部屋の鍵。






・・・ケンイチ・・・。



風が呼んだような気がした。








最後まで読んでいただきまして、本当にありがとうございました。
初ホラーということで、かなり難しかったです。
読んでくださった方に、ほんの少しでも『ゾクリ』という感覚を持っていただけたなら、この上ない幸せです。

ずっと参加したいと思っていた企画に、やっと参加することができ、できはどうあれ、ホラーとは全く似つかわしくない、爽やかな達成感を感じております。
これから他の方々の作品も拝見して、勉強させていただきたいなあ、と思っています。

最後になりますが、何か一言でもいただけると本当に励みになりますので、どんなことでもいいので一言残して頂ければ幸いです。

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