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♯06[や さ し さ]
 暗闇に包まれた、静寂の横たわる知識の館。
 私はその世界でただ一人の女――
 彼はその世界でただ一人の男――


 CROSS!〜物語は交差する〜♯06[や さ し さ]


 やっぱり春とは陽気なものなのだ。
 いや、そろそろ葉桜もなくなってきたから春も終わりか――
 そ、そんなことはともかく、やはりこの時期は新学期初めなこともあり、浮かれてしまうものなのだ。
「――で?」
「……なんでもないです」
 俺は目の前のノートに視線を落とした。
 だからといって、このどこの文字なのかもわからないアルファベットと加減乗除符号の羅列を理解できるとは、正直無理な話だ。
「こんな問題、応用の初歩でもないよ? ――祐夜さん、本当の本当にやってないんだね」
「ふはは、恐れ入ったか」
「――そんなこと言わずにさっさとやる」
「はい」
 セミロングの髪が揺れる。
 真紀恵――そういう名前のクラス委員長だ。
 その目が俺をジロリと威圧する。
 ――解けないものは解けないんだ。
 俺は適当に書くこともできずに、シャーペンの先を泳がせた。
 真紀恵はため息を吐く。
「あと一週間もしたらテストだよ? こんなんじゃ赤点で夏休み補習だよ……」
「わ、わかってる! だからこうやって教室での勉強を――」
「この実力で一週間前は遅いよっ!」
 教室にいる生徒全員が、俺たちの勉強会をおもしろ気に見ている。
 真紀恵はそんなこと知るよしもなく、ノートをペラペラとめくっている。
「祐夜さん。この量を徹夜するのは無理なんだよ、それに公民とかは理解ものだし」
「……そのあたりは真紀恵が教えてくれるんじゃないのか?」
「私が教えるにも限度があるよ……というか祐夜さん、もう私が教えることは決定なの!?」
 俺は真紀恵の両肩を掴んだ。
 そして、爽やかな笑みを浮かべる。
「乗りかかった船だ。最後まで旅は道連れでいこうぜっ!」
「うぅ……わかったよ」
 とりあえず勉強手段は確保した。
 最悪の場合、強力な最終手段があるにはあるのだが……強力すぎるからな、俺が煩悩を抑えられるかどうか。
 しかも……今回は二人だ。
 同居美少女二名に手取り足取り――してくるだろうから――されたらさすがに俺でも欲望の獣とあるかもしれない。
 俺は無造作に、今の今まで一文字も理解できなかった問題ノートを閉じ――
「放課後、図書館で勉強――とりあえずそれまでにこれ終わらせてきてね」
「……はい」
 俺は宿題にされた問題ノートの分厚さを指でなぞり、確かめた。




 キーン、コーン、カーン、コーン……



 なぜだろうか。
 時の進みが――異常なまでに速い。
 昼休みを過ごした気も、授業を受けた気もしない。
 時間がありえない速さで過ぎた。
 そして――宿題なるものに手をつけていない。
 俺は派手にため息を吐く。
 HRが淡々と進められるが、俺は視界に収めたはいいが結局進んでいない。
 シャーペンの芯の押し戻しを何度か繰り返し、俺は覚悟を決めてノートに芯を向け――
「……」
 ノートを閉じた。
 はじめるまでもなくあきらめたのだ。
 HRの、二ノ宮先生の言葉に耳を傾ける。
「――ということで、そろそろテストも近くなってきた。部活をやってるやつはテスト当日までは帰宅勉強だ。全員、あまり無理をするんじゃないぞ。だが、楽もするんじゃないぞ」
 そしてHRの終わりを告げる二ノ宮先生。
 真紀恵の視線を横から感じた。
 ――進んだか、ということだろう。
 俺は視線にあわせると、あきらめの意をしめした。
 真紀恵は呆れたように視線を下ろし、HRへもどる。
 ――思った以上に放課後勉強は時間がかかりそうだ。
 俺は通学鞄にノートをしまいながら、そう考えてため息を吐いた。




 図書館。
 館、という規模でもなく、室、と呼ぶほど小さくもない。
 三年校舎にある、生徒会室やコンピューター室の隣に、広くとられた図書館だ。
 図書館だけに、普通のクラス三つ分は使っているそうで、結構な広さがある。
「やっぱり、基礎からおぼえてもらおうかな」
「――まあ、応用やってもわからんからな」
 人がまばらにいる中、真紀恵は部屋の奥へと向かっていく。
 真紀恵は適当に席を選んでいるわけでもなさそうで、ひとつの場所に向かっているようだ。
 俺は言われることなく従って、真紀恵のあとに続いた。
「それじゃ、ここでしよっか」
 真紀恵は一番奥にある、本棚が真横にある席を指差した。
 真紀恵がさきに本棚の傍側にすわり、俺は真紀恵に対面してすわる。
 真紀恵越しに本棚へ目を移すと、まるで俺たちのためにあるかのように数々の問題集が納められていた。
「資料があるのはわかったが――狭くないか?」
「少しくらい我慢しなよ、祐夜さん」
 手を伸ばせば抱きしめることができてしまう。そんな距離に真紀恵がいる。
 可愛い部類の娘がこの距離にいるのは――さすがにドギマギとしてしまう。
「渡してたノート、やってないんでしょ?」
 俺は速やかにノートを提出した。
 真紀恵はペラペラとめくると、呆れることもなく立ち上がり、本棚に指を這わせた。
 そして、一枚の薄い問題集を引き抜くと、俺に差し出した。
「解いてみてくれる?」
「あ――わかった。でも、俺本当にできないぞ?」
 俺は自分で落胆しながら真紀恵に宣言する。
 真紀恵はすぐに本棚へ目をもどした。
 仕方なく、俺は問題へと目をおとす。
 ――あれ?
 なぜだか、異様にわかってしまう。
 ――まさか、俺には瞬間暗記力が!?
 そんなはずはない。
 俺はとりあえずシャーペンを問題へ滑らせた。
 すこしして、真紀恵が覗き込んでくる。
 まつげの数がわかる距離、俺は思わず唸りそうになる。
「このあたりの問題は解けるんだね、祐夜さん」
 真紀恵はそういって、隣に別の問題集を置いた。
 ――次にやれ、ということか。
 俺は最終問題を軽く暗算して解き、僅か五頁の問題集を閉じた。
 そして、指示された問題集を手に取った。




 真紀恵はすごいと思う。
 教え方のことだ。
 俺はただ問題を解いていただけだが、いつの間にか宿題にされていたものまでも解くことができるようになっていた。
 急激な実力の習得だが、やはり時間は限りがある。
 そのことに気づかなかったのは、俺の失態だ。
 真紀恵が丸付けをしながら要点を指摘しているときに、俺は気づいた。
 ――誰も、いないということを。




「……おい、真紀恵」
「ん、どうしたの、祐夜さん?」
 やはり、真紀恵は気づいていないようだ。
 自分の勉強ならともかく、人に教えるのはやはり集中力が大分いるのだろう。
 真紀恵は俺に教えながらも、自分の勉強もしていたのだ。
 ――やっぱり、俺の失態か。
「周り――だれもいないと思わないか?」
「え?」
 真紀恵はようやく気づいたのか、辺りを見回す。
 ――無人。
 真紀恵は現状を察し、ゆっくりとその頭を冷やしていった。
 それとともに不安が広がってきたようだ。
「時間は――」
 俺はそういって止まる。
 図書館のドア上に付けられた時計を見る。
 その時間は、テスト前には完全に人がいなくなる時間だった。
「ヤヴェ――」
 俺は席から立ち上がる。
 派手な音が静寂に響くが、それがこの現状の突破口になるはずがない。
 俺は数歩でドア前へたどり着くと、ドアノブに手をかけた。
 そして、青ざめる。
「開かない――」
 俺は無意識にドアを叩いていた。
 乾いた音が響く――やはり、誰も来ない。
 ドアは丈夫なものでできており、教室にある程度のものではない。
 つまり、はずすこともできないということだ。
 俺は真紀恵を振り返った。
 真紀恵はこのような状況に慣れていないのか、呆然としている。
 だが、すぐに俺のところまで駆けてくると、ドアを両手で思い切り叩き始める。
「誰か――だれかいないの!?」
 ――返ってくるのは無音の空白。
 真紀恵はさらに叩く力を強め、声量を上げて呼びかけ始める。
 その行動は、ただ不安に駆られただけのもの。精神がすぐに飲み込まれ、押しつぶされてしまう。
「真紀恵。止めろ――」
 俺は真紀恵の腕を掴む。
 真紀恵は弾かれるように俺を向き、不安で潤んだ目をみせてきた。
「落ち着け。テスト前だから部活もない――ここには誰もいない」
 そう、二ノ宮先生も言っていた。
 俺が知っている、真紀恵が知らないはずがない。
 だが、それでも不安で仕方ないのだろう。
 俺はすでに思考回路を回転させ始めている。
 俺としては、勉強よりもこういうことを考えるほうが性にあっている。
 俺は真紀恵を視界からはずし、思考を始める。
 逃走経路を詮索――窓とこのドア。
 俺は窓から外を覗いてみる。
 ――少し、高いか。
 下にクッションがあればいいのだが、あいにく硬く乾いた土だった。
 ならあとは――
 俺はドアからすぐ近くにある貸出カウンターに向かった。
 人二人分の机に、コンピューターがひとつ乗せられていた。
 俺はコンピューターに目もくれずに、引き出しを手探りでみつけ開け放していった。
 中身がないものもあれば、日誌がはいてったりする。
 だが――鍵はない。
 係のものが予備をおいていたりはしないか、と予想したが、そこまで現状は甘くなかった。
「……」
 真紀恵は落ち着き始めたのか、何かを考えるように俯いている。
 俺はそれにかまわず、ほかの手段を考え始めた。
 ――見回りの先生が来るまで待つか。
 テスト前のこの期間。来るのかどうか怪しい。
 俺は詮索し終えた引き出しのすべてを押し戻し、カウンターを出た。
 そして真紀恵がドアの前にいないことに気づく。
「……なにしてんだ?」
 妙にしんみりとした真紀恵は、何もせずただ虚空を見つめていた。
 ――不安に潰されたのか?
 事実ではないが、ありえなくはない。
 真紀恵も委員長という肩書きで順応性があるとは思ったが、やはりこのような閉じ込められることには慣れていないようだ。
「えっとさ……まあそんな落ち込むなよ。ずっとってことはないんだしさ」
「……」
 返ってくるのは無言だった。
 俺は頭を悩ませる。
 ――話題がない。
 重く沈んだ空気を破る方法が思いつかない。
 すると、突然真紀恵が口を開いた。
「……祐夜さんは、自分が万能だとか思ったことある?」
「え? ――ないけど」
 真紀恵の思惑がよめない。
 俺は冗談をいうこともできずにただ普通の答えを返した。
 真紀恵は言葉を続ける。
「私はね。自分が万能でありたいと思ってる。
だれにも頼ってもらえるような――そんな人になりたいの」
「真紀恵はみんなに頼られてるじゃないか」
 俺は軽く笑いを浮かべてそういった。
 だが、真紀恵は僅かな微笑みを返すだけ。
「そう思う? こんな事態で何もできないのに?」
「――あ。えっと、まあ非常時だしさ、臨機応変にできなくても仕方ないって」
 俺はそう言い募った。
 真紀恵はそのことについて深く沈んでいるようだ。
 ――完璧主義者のお堅い委員長だと思っていたが、いつもの感じでは微塵も思わせていなかった。
 それすらも、完璧主義者としての顔だったのかと思う。
 ――お堅い人間もただお堅いだけじゃなくなったってことか。
 いや、お堅いだけじゃないのが真紀恵なの……か。
「こんな事態で動けないなんて……そんなのダメだと思わない……?」
「え、え〜と」
 俺は頭をひねる。
 肯定したら真紀恵をさらに落ち込ませるだけだろうし、否定しても否定要素がない……
「ま、まあさ。人間は失敗して学ぶものだし――お前もこれで今まで以上にがんばろうって思えるだろ?」
「……うん、そうだね」
 そういって真紀恵はクスクスと微笑んだ。
 それは、先ほどまでとは打って変わったように違う雰囲気の真紀恵に――俺は騙されたと気づいた。
「お〜〜ま〜〜え〜〜」
「アハハ! 祐夜さん真剣な顔で言ってるのがおもしろくて、途中でやめられなくなっちゃった♪」
 てへへと、真紀恵が可愛らしく頭を下げた。
 どうみても平謝りだ。
 俺は軽くなった空気に甘え、冗談らしく腕を振り上げながら近づくと――

 ガタンッ!

「ぬわっ!?」
「えっ!?」
 歩行上にあったイスが、俺の足を絡めとる。
 そのことを認識すると、体が前へと倒れていった。
 そして落下地点には――驚いたように目を丸める真紀恵。
 俺は急激に近くなる真紀恵を感じながら――気合を振り絞った。
 真紀恵にぶつかり、真紀恵が俺の体重を支えられなくなり俺とともに床に落ちる瞬間、上下を反転させる――はずだったのだが。
「ぐはっ!?」
 俺は精神的ダメージを受けた。
 甘かった――真紀恵って貧乳だけど、スタイルがいいほうだったんだなぁ、体の細いくせに柔らかすぎる。
 こういうのを着痩せするタイプというのだろうか。などと見当違いのことを考えながら俺と真紀恵は床に叩きつけられた。
 俺の体が真紀恵をクッションにして深く沈みこむ。
「おおっ!?」
 俺はそんな声をおもわずあげてしまった。
 それとともに、健全的男子の心が腰をあげようとする。
 ――だめだだめだだめだダメダ! 九九を数えろ素数を数えろ素数は0と1を含まない!
 そんなことを考えつつ、煩悩を払う。
「うう……」
 打ち付けられた痛さに、軽くうめく声がする。
 真紀恵だ。
 だが、なぜかそれすらも煩悩を高ぶらせる誘惑になる。
 ――性的欲求は視覚と聴覚と嗅覚から増幅されるらしいと聞いたが、本当なんだなぁ。
 などと、あきらめるように現実逃避的考えをしてしまう。
 だが不思議だ。真紀恵に対してここまでの感情をおぼえたことはなかった。
 春花は誘惑的だが……まあ、冗談だとわかってるせいか防げる。
 触れるということで、新しい一面を知ってしまったのが原因だろうか。
「祐夜さん……どいて……」
「っと、ごめ――」
 俺はそういって反射的に立ち上がる――ことができなかった。
 腕は床についている。
 力んでもいる。
 だが――顔が上がらない。
 詳細的にいえば、真紀恵と触れているところが上がらない。
 俺は上げようとしている。だが、上がらない。つまり俺が上げることを拒絶しているということだ。だが俺は上げようと脳へと信号を送り、腕に力を与えた。なのに上がらない。むしろ押し付けている。つまり俺は真紀恵がら離れたくないという信号を脳へ送ったということだ。だが俺の意識は離れるように指示をした――
 もう一度力んでみる。
 腕が力を得て、震える。
 俺の頬に感じる柔肌が僅かに遠のく。
 ――それだけだった。
 どれだけ顔を上げようとしても、それ以上の力が込められない。
「祐夜さん……?」
 真紀恵も俺の異変に気づいたのか、気遣うような優しい声を俺の耳に聞かせてくれる。
 だが、今の俺にとっては『煩悩に耐える男と誘惑する女』なのだ。まあ真紀恵は無実だが。
 現状の変化はこれ以上無理なのだろうか。これならいっそ行くところまで行こうじゃないか――マテマテマテ。
 思考がやばくなってきた。じょじょに煩悩が侵攻してきている。
 ああ、この世に九九があってくれてありがとう。心底そう思うよ。
「大丈夫。大丈夫だから――動かないでくれ、動いたら俺が死ぬかも」
 比喩ではなく、本気でそう思える。
 この誘惑の柔肌が現状以外の刺激を俺に伝えてきたら――多分爆発する。
 俺は右腕に力の大半を移し、そのまま真紀恵の横へ寝転がり移ろうと試みる。
 ――結果、不可能のようだ。
 それだけで、この柔肌との密着域が増え、リミッターを超える。
 ちなみに、一瞬顔を横へ動かしたら甘美な刺激を与えてくれた。
 煩悩の支配は着実に進み、俺の理性を追いやっていく。
 いつの間にか、俺の腕から力が抜けていた。
 完全に真紀恵へもたれかかっている。
 やめろ――何かの声が聞こえる。だが、あまりにも遠くあまりにも小さすぎる声は、俺を止めることができない。

 ジッ……ジジッ……

 なにかの機械音がするが、それも俺の妨げではない。
 俺は極上の肌を持つ真紀恵に魅惑の鳴き声をあげさせようと手に力を――
 ――機械音?
 コンピューターは起動していなかった。この図書館にはそれ以外の電子機器は存在しないはず。

 ジッ……ジジジジ……カシャッ!

 音源は結構近くにあることを気づいた。
 そして――頭が急激に冷める。
 俺は腕に力を込めることを無意識階層で行い、真紀恵から離れた。
 そして、音源へ殺気の込めた視線を向ける。
「あ〜ここでやめちゃうの? もうちょっとなのに〜」
「ふむ。人間は元々本能に生きる生物。その話の例えとしてアダムとイブが使われているが、アダムが知識の果実を食し、羞恥の感情及び理性を得たが故に今の文明があるのだと思うのだがどう思う?」
「あれ? 確かあの話はイブが蛇に誘惑されて果実を食べそのあとにアダムが食べたんじゃなかったっけ?」
「……おまえたち。なんでいる?」
 俺は怒りを通り越して呆れの感情をあふれ出させ、そう聞いた。
 俺の前には、いるはずのない二人がいた。
 御劉と輝弥だ。
 その二人は携帯を俺に向けている。
 二人越しにみると、ドアはいつのまにか開け放されている。
「「三井祐夜の肉欲的行動を静止画として保存しよう大計画実行中♪ 」」
 御劉と輝弥が声をそろえて言う。
 ニヤニヤ顔が絶えることがない。
 補足のように、輝弥が口を開いた。
「祐夜は知らないかもしれないからちょっというとね。
このドア、引くタイプなんだ(・・・・・・・・)」
「……」
「まあ、『押してだめなら引いてみろ』ということだ」
 御劉はそういって俺の肩を叩いた。
 呆れにいっていた感情が、ドス黒く燃え盛る怒りへと逆戻りする。
「二人とも……覚悟はいいか?」
 俺は殺戮機と化した。




「あいつら……結局なにしにきたんだ?」
「ふふふ……でもあれのおかげで帰れるんだし、いいんじゃない?」
 俺の横を真紀恵が歩く。
 真紀恵は俺の話を聞きながら、絶えず笑みを浮かべている。
 俺のテンションはそれだけで上がっていった。
「でもさ。やっぱ盗撮はひどいよな」
「それは、私のことを襲うつもりだった祐夜さんが悪いと思うよ〜?」
「ぐっ……」
 俺は大げさに胸を押さえてみせる。
 真紀恵は口元を押さえて楽しそうに笑った。
 その笑顔は、口に出すことはできないが――かわいい。
 接触したからか、俺の心が変わったのか、なぜか今日は色ボケぎみだ。
 恋――ではないと思う。
 第一、真紀恵にとって俺は友達なのだ。
 俺はこうやって気軽に話せることが幸せだと思う。
 ただ――男の本能というものがいうことを聞かないだけで。
「あのあと勉強できなかったけど、一人で大丈夫?」
「要領はわかったから、なんとかするさ」
 真紀恵は安心したように、柔らかい笑みを浮かべた。
 まあ自己流でできるのも限度があるのだが――やはり最終手段をするしかないか。
 だが、女性との接触でここまでうろたえてしまうとは思わなかった。
 真紀恵より下とはいえない二人の少女と同じようなことにあったら――今度こそ無理かも。
 俺はため息を吐いた。
「ふふふ……祐夜さん、がんばってね」
「あ、ああ」
 真紀恵はいつもと違ってしきりに笑っている。
 俺から目を離した後も、スキップしだしそうな感じだ。
「真紀恵――なんかあったのか?」
「ん?」
 真紀恵は首をひねる。
 俺は真紀恵が口を開くのを待っていると、真紀恵は片目に指を当て下におろし、下をだした。
 ――つまり、あっかんべだ。
「言わないよっ!」
 真紀恵はそういってにこにこと笑ってくる。
 ――まあ楽しそうだし、よしとするか。
 俺はニヤニヤと笑って真紀恵に拳を上げた。
「隠し事とは〜なにか変なことだな〜? 吐けっ!」
「や〜〜だっ!」
 真紀恵は俺の拳を避けまたあっかんべをしてくる。
 そして笑い声を漏らすと、小走りをはじめた。
 少しして振り返ってくる。
 ――追いかけろ、ってことか。
「クックック。神速の三井といわれた俺に速さでケンカを売るとは大した度胸だ……」
「そんなこと言われたことないでしょ〜が!」
「こういうのは言ったもん勝ちなんだよっ!」
 俺はそういって真紀恵に追いつくために駆けた。
 真紀恵はクスクスと笑いながら小走りを再開する。
 あたりを夕暮れが包む中、俺たちは楽しかった。
 どうしようもなく、楽しかった。
 なぜなのかはわからない。前にもあったのかもしれない。
 でも真紀恵とはただのクラスメイトで、小さい頃に会ったことは――
 ――多分、ない。
 俺は余計な考えを捨て、真紀恵の美しさと楽しさを全身全霊で感じることにした。




   ◆◆

 彼は、あのころをおぼえているでしょうか?
 私は、彼をおぼえています。
 彼との出会いを――
 彼は私のすべてでした。
 彼は私のすべてとなりました。
 すべてはあの時――彼は私のすべてとなったのです。




 泣いていた。とはいわない。
 でも、心は泣いていた。
 輝く噴水の前で、私は座り込んでいました。
 独りだった。私は独り心細かった。
 私は弱すぎて、でも頼ることを知らなくて――それは今にも弾け割れそうなガラス細工。
 そんなときでした。彼が私に声をかけてくれたのは。
「どうしたの?」
 彼はそう声をかけてきてくれました。
 私は彼を見上げました。
 ――恐かった。彼が、とはいわない。『自分以外』が恐かった。
 彼は、何も言わない私の傍に来ました。
 触れそうで、触れない距離、彼は姿勢を低くして私を覗き込んできてくれた。
「迷子? お母さんとお父さんは?」
 彼は、私に手を差し伸べているように思えました。
 でも、そんなことはない。だから、手を差し伸べていると思うのは私の勝手。
 暖かかった。私にとってはそれすらも暖かかった。
 その暖かさはお父さんやお母さんにも感じるもので、それが優しさだとわかっているから私の心はさらに締め付けられて――
「……」
 私は無言の拒絶をしてしまいました。
 本当はこんなことしたくはないのに、それでも優しくされてもどうすればいいのかわからないから――
 この優しい彼も、私を見ずに去っていくでしょう。
 それがつらいけど、自分がしたことのせいだからしかたなくて、私は誰にも心を開かず、心を見せずを突き通す。
 だって――そうするしか私は知らないから。
「……そっか」
 彼は私の無言をどう解釈したのか、私の傍に腰を下ろしてくる。
 私はその行動の意味がわからなくて、呆然と彼を見てしまった。
「いっしょにいるよ。俺も迷子なんだ」
 彼は照れたように言った。
 私は彼の、何気ない優しさを感じることができた。
 だから――つらい。
 私がみんなに迷惑をかけていることがわかるから、全部を拒絶することしかできなくて――
「……いい」
 私はそっぽを向いてそういってしまう。
 今度こそ、彼は私の前から去ってしまう。こんなに優しい彼なのに、こんなに優しい彼だからこそ――迷惑をかけたくない。
「まぁ、いいじゃん。迷子になったときは動くなっていわれてるし。
でも俺、大分動いちゃったな、あ〜あ。
お前は偉いな」
 彼はそういってにっこりと微笑んでくる。
 そんな彼は勇ましくて、怯えがなくて――私とは違う。
 羨ましかった。私も、あんな風になりたいと思った。
「……もどったら?」
 私は素っ気なく言い返す。
 彼はそんなこと気にした風もなく、目を泳がせた。
「もどろうとおもってもな〜やっぱ記憶ってのは曖昧なもんで、思い出そうとしても思い出せないこともあるんだよ」
 ――つまり、忘れたということ。
 そんな彼がおかしくて、おもしろくて、私は自然にクスリと笑ってしまう。
「あ、やっと笑ってくれた」
 彼はそう喜んで、笑い返してくれた。
 私はそっと呟いた。
「……迷惑かけてない?」
「なんで?」
 彼は心底わからない、という風に首をかしげる。
 私は次の言葉を紡ぐことができなくて、ただ視線をしたにおろしてしまった。
「迷惑なんて、そんなこと全然ないだろ? 俺のほうが迷惑かけてるぐらいだし」
 ――そんなことない。私はそう言いたかった。
 でも、かわりにこう聞いた。
「あなたはどうしてそんなに強いの?」
「あなたって言われるのはなんか恥ずかしいな。『祐夜』でいいよ」
 彼の名前。私は心の中で何度も繰り返した。
 彼は私の問いに答えようと、う〜んと唸った。
「強くなんかないよ。ただ強くなりたいと思ってるだけ。
迷惑かけてる人がいるから。俺はその人に恩返しがしたいんだ」
 ――彼はやっぱり強かった。
 そして、私とは違った。
 迷子、ということではなく、迷惑の対処に関することで、彼と私には大きな差があった。
 彼は、迷惑かけることを仕方がないと思っている。
 彼が強くなりたいと思ってるいるのは、その迷惑かけた分の恩返しがしたいということなのだろう。
 私は、ただ迷惑かけないようにと優しさを拒絶して、余計に迷惑をかけている。
「……祐夜さん。やっぱりすごいよ」
「そう言われると照れる」
 彼はそういってにっこりと笑った。
 自覚していないのだろうか、彼は彼自身のすごさを。
 私にはそれをマネすることしかできないのだろうか。
 でも――変われる。
 今の私から、変わることができるかもしれない。
 彼に憧れ、彼になりたいと願って、彼になるよう努力すれば――変われるかもしれない。
 今の私よりかはずっといい。
 それに――笑うことができるだろうから。
「祐夜さん――ありがとう」
「こちらこそ。話し相手になってくれてありがとう――あと少しくらい話しててもいいか?」
 私は頷いた。
 自然に出せる、自分が輝ける微笑とともに――




 彼は忘れてしまっただろうか。
 私は、今でも鮮明に思い出すことができます。
 彼には及ばないけど、私も微笑むことができるようになったでしょうか?
 彼は私の憧れで、目標。
 今になっても、それは変わらない。
 でも――それだけなのかはわからない。
 もしかしたら私は、彼のことを……

   ◆◆


 私はいつの間にか立ち止まっていました。
 彼は私に追いついて、私を覗き込んできました。
「どうかしたか?」
 あのころと変わらない優しさに、私は応じることができる。
 静かに微笑み、心を輝かせた。
「なんでもないよ、祐夜さん」
 私は変われた、あなたのおかげで。
 それだけで、とても幸せだと思う。
 でも――私はあなたのことが――
「はやくしろよ。っていうかもう暮れてきたし」
「……うん。そうだね」
 彼は私のことを考えてくれている。
 でもそれは特別じゃない。
 特別になりたい、そう思う。でも、このままでも幸せ。
 もうすこし――考えてみよう。
 私が、彼の隣を歩いてもいいかどうか、よく考えよう。
 そして、そのあとは――
 私は歩みだしました。
 私を呼ぶ彼に向かって。
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