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グラーヴェというのは重々しくゆるやかに。
フーガというのは遁走曲を。
エスプレッシーヴォというのは表情豊かに。
ディヴェルティメントというのは嬉遊曲を。
それぞれ意味しています。
♯12[グラーヴェなフーガと、エスプレッシーヴォなディヴェルティメント]

 ざわざわとざわついた教室内。
 ちらちらと僕を見る目もある。
 噂を聞いて未だもやもやしている心のせいか、意味もなくうつむいていた。
 嫌な予感が消えない。
 小夜歌さんの面影が、噂を知る前よりも遠くなった気がする。
 たかが噂で――何をうろたえているのか。
 頭を振って立ち上がろうとした。
「ヤッホ、我が同士♪」
「へ?」
 女の子の声がした……気がする。
 でも、口調はそれ相応じゃなかった。
 疑問に思いながら、振り返る。
「ん、何目ぇ丸くしてんだ?」
「あ……いや……その……」
 やっぱり、女の子だった。
 男ではないだろうと見た目だけで直感できる。
 普通の女の子よりも女の子っぽいところが、良い意味で高校一年生とは思えない突き出し方をしているから男と思うはずが無い。
 でもなんとなく違和感のようなものがある。
「えっと、何ですか?」
「何って……何か用がないと話しかけちゃだめなのか?」
 その女の子は驚き返してそう訊ねてきた。
 あまりにも砕けた態度に僕は口を動かす余裕がなくなってしまい、首を横に振ることで意思表明をした。
「ならいいじゃん。学劇に選ばれたよしみってことで仲良くしようぜ」
 男友達のような近さ。
 豪快でいて、女の子相応の可愛らしい微笑みとともに突き出された手。
 僕は呆気にとられながらもその手を取ったのだった。
「オレは美月。美月梓だ。梓でいいぞ。敬語はナシな」
「ああ……は、じゃなくて、うん」
「そうそう、それでよし」
 笑い方とかが少し男臭いのは幻覚か。
 ……。
 ……。
 ……。
 ……仲良くできそうだ。


      ○  ○  ○


 愁くんと別クラスなのが、今は恨めしすぎる。
 シャーペンをカチカチと響かせて、時間の流れを刻む時計を睨んでいた。
 シャーペンの芯が折れて、やっと息を吐き出した気がする。
 教師の授業はまだまだ続きそうだ。
 窓側の席だからか、自然と視界の隅にはグラウンドへの道が映る。
 予想外なことに、ちょうど意識の範囲を広めたときに体操服を着た愁くんが目に入った。
 たくさんの人の群にまぎれて、グラウンドへと消えていく。
「愁くんのクラスは確か、男女合同授業の日だったかなぁ……」
 少し余裕がでてきたのだろうか、無駄なことを考えられる。
 だから考えようと思った。
 考えるべきことを――この時限が終わった後の瞬間のために。


 CROSS! 2nd〜そして、物語は交差する〜♯12[グラーヴェなフーガと、エスプレッシーヴォなディヴェルティメントのデュオオーパス]


 投手の目を見る。
 頷き一度で、投球フォームに入った。
 即座に外野の空きを確認。
 女子は少し固まりをもっているから抜け目がある、そこが狙えるかもしれない。
 ボールが空を駆ける。
 タイミングを完全に見切っているそのボールを打つのは造作も無い。
 ぎりぎりまで振る瞬間を遅らせ、方向を思惑通りへと誘った。
 長打――走る速度を高める。
 一塁を踏み、ボールが未だ掴まれていないのを確認して二塁へと続いた。
 チラリと目を移す。取りに行った人がもたついているようだ。
 僕は二塁を踏んでさらに駆けた。
 そして気づく。フリ・・だったのだと。
 僕が走り出した少し後に、化けの皮が剥がれていた。
 二塁に戻る余裕――振り返るモーション中にボールは二塁へと投げられ、辿り着くよりはやくボールが二塁へ着くだろう。
 速度を緩めることなく走り続ける。
 ボールに速度で勝つことは叶わない。直線距離で、半分ほど短い僕が逃げ切れるか逃げ切れないかの勝負だ。
 スライディング――視界の上に、ボールを持った守備選手が見えた。
 砂煙が舞う。
 足に押し当てられたグラブ。さらに下には白いダイヤがある。
 声が、響いた。
「セェェェェェェェェェフ!!」
 大喝采。
 立ち上がった僕は背中の砂を払い落とし、辺りを見回した。
 九人以上で行っている野球。女子は二人一組ということになっているから仕方がないといえば仕方がない。
 クラス人数を半分に割ったら、ちょうどそれで野球ができるくらいだったというご都合仕様。
 女の子の打順が回ってきたとき、二人のどちらかがバッターとなる。
 僕の次である四番は――梓のようだ。
 豊満な胸を揺らして金属バットを構える梓は、頼りになるというかなんと言うか。
 構えは良い。度胸があるのは第一印象からわかっていたことだ。
 オレンジか茶色かで迷う土を踏みしめる音が三塁に聞こえてくる。
 梓はじっと僕を見ていた。
 投手は男。デッドボールを避けるためか、女の子がバッターのときだけ外側しか投げない。
 捕手は動揺に弱いらしく、予想外の行動があればボールを取り落としてくれるだろう。
 そして、度胸があって男らしい梓。
 つまり、そういうことだ。
 第一球が放たれる。
 同時に、僕は走り出した。
 外野からの喚声を聴覚取得情報から削除する。
 投手が投げる瞬間に大きく外側へとスイングした梓。身が完全に乗り出しているが、足はバッターボックスに。
 デッドボールという恐怖もあってか、投手の投げたボールはバット先の遥か向こうへと放たれた。
 キャッチャーは半瞬ほど遅れて腕を伸ばす。
 そう、腕を伸ばしただけだった。
 思いっきり横へ跳べば届いていたかもしれないボールが、フェンスに直撃する。
 僕はさらに速度を上げた。
 動揺が生み出した捕手のミス。ボールへと向かうまでが長い。
 スライディングを使うまでもない距離――僕は全速力で走った。
 にっこりと微笑む梓が近くなる。
 示し合わせたわけでもなく、自然と上げた片手は。
 同じく示し合わせたわけでもなく、上げられた梓の片手を。
 ――ベースを踏むと同時に、パンッと叩いた。
「……」
 言葉を交わさずに、意地悪な方向へと強くなった梓の笑みを盗み見る。
 僕の心は晴れ晴れとしていた。
 梓とは凄いくらいに馬が合う。バカ騒ぎする友達としてこれ以上ないくらいに最高の相手だ。
 外野へと落ち着き、梓へと目をもど――
 強烈なヒット音。歓声の大きさ。思わず目でボールを追っていた。
 グランドの外へ消えたボール。その残像を見つめ、呆然とする。
「よっと」
 一周を終えたのか、僕へと歩み寄ってきた梓。
 ヘルメットを着けたままで、グッと親指を突き立ててくる。
 呆気にとられて浮かんだ笑みは自分が驚くほどに自然で。
 自分らしかった気がした。

      ○  ○  ○

 昼休みになった。
 駆けている足は、何かに急かされていて。
 ドアを押し開けたとき、あの席を見た私はものすごく脱力してしまっていた。
 すでに誰も座っていない。愁くんの席。
 耳障りなほどに息が荒いことに、今になって気づいた。
「ええっと……どうしたんですか?」
 近寄ってくるのは二人。
 かっこいいかかっこよくないかで例えれば、普通というのが妥当な青年。
 ちょっと気を逸らせば認識できなくなるんじゃないかというほど無に近い、静かな少女。
 私は焦る気持ちを押さえ込み、息を整えて、聞いた。
「愁くん、どこ行ったかな?」
「あ、愁? あいつなら――」
 すぐに聞き出せたと思ったら、青年の言葉をかき消すように一歩前へと出た少女。
 威圧が、青年を黙らせた。
 じっと見つめられる。まるで刃のような瞳。私の目はきっと困惑しきっているだろう。
 何かを訴えかけられている気がした。
 その内容に感づきながらも、気づかないフリをしている私がいる。
 数秒して、少女は一歩退いた。
 青年は沈黙を破るにしてはお茶を濁すようなか細い声で、切り出す。
「梓っちと体育授業の片づけを……二人で、してるはずですよ。倉庫のほうだと思います」
 ……。
 ……。
 ……。
 ……梓っちという言葉に、何かの予感を得る私がいた。

      ○  ○  ○

 なんでこうなってるんだろう。
 ヘルメットの束とかを倉庫に運び込んで、盛大に息を吐く。
 バットが数本入った筒を胸に抱きかかえた梓があははと苦笑いした。
「目立つのも場を考えないとな……こうも利用されるなんて思わなかった」
 ホームランのせいか、さんざんはやし立てられた梓は調子に乗って片付けは任せろなどといってしまったのだ。
 僕は思わずそれに連れ立ってしまったわけだけど。
「手伝わなくても良かったんだぞ。オレの勝手なんだしさぁ」
「そういうところは女らしいだね」
 僕がそういって茶化すと、梓は目を丸くした。
 そして、僕の髪をポンッと叩く。
 親友って仲はこんな感じかなぁなどと思った。
 梓の持っていた筒を受け取り、倉庫の隙間へと差し込む。
 スッポリ入りきったところで、僕は梓へと目をもどした。
「終わったなぁ……疲れた。もう二度としたくない」
「そう思うんなら調子に乗り過ぎないよう気をつけなよ」
「んー」
 梓はそう唸って首をかしげ、僕へとにっこり微笑む。
「でも、愁とこうやって何かをするってのは楽しいな」
「……片付けとか以外をお願いしたい」
 梓は僕の疲れた表情をおもしろがってか、声をたてて笑い出した。
 自然と、僕の頬も緩む。
 二段になっている倉庫の上、マットが折りたたんで乗せられているほうへと梓は飛び乗った。
 僕の目の位置にちょうど梓の足がぶらぶらする高さから僕を見下ろして、ニコニコとしている。
「……どうしたの?」
「ん〜……例えるのは難しいんだけどさ。なんか楽しいなって」
 僕と同じ感覚か。
 梓は自らの胸の谷間に両手を埋めて、天井に顔を上げた。
「これは恋? 私にも春がやってきたのね♪」
「……女の子らしいけど、梓がやるとなんかすっごい違和感」
「オレもそう思う。なんか、むず痒い」
 ひとしきり笑いあった後、静寂が訪れる。
 梓をチラリと見た。
 見た目では引込思案な女の子みたいな。でも、性格はすっごく男らしくて、豪快。
 男女の壁がないっていうのだろうか。よくはわからないけど。
「そういえば梓ってなんでオレ・・なの?」
「ん〜……四兄弟でただ一人の女だからかな。女らしくないってのは結構自覚してる」
 そういってたわわな胸という果実を下から持ち上げた。
「そのくせ、身体はこうも女らしくなっちまってさ……動きにくい動きにくい」
 男になりたい、のだろうか。
 聞きたくなった。でも、聞けない気がした。
 梓は僕の様子を見て、首を傾げる。
「でも女でよかったな。兄弟にはちやほやされてるし、やっぱ綺麗だといろいろ待遇が変わってくるだろ?」
「……梓って、なんというか」
 良い意味でいえば前向き。悪い意味でいえばずる賢い。
 梓は口元を押さえて笑い声をかみ殺していた。
 ヒーヒー言いながら肩で息をしつつ、目の端に涙を浮かせて口を開く。
「愁はどうなんだよ? 恋とかしたことあるのか?」
 音がなくなった気がした。
 少し前までの心が一気に静まり返って、笑顔を貼り付けることさえ叶わなくて。
 梓は僕の変化に瞳を揺らしていた。
 やっぱりこういうところは女の子らしい。
「……少し長い話なんだけど、聞く?」
 微笑みかけた僕。
 梓には話してもいいかもしれない。ちょっとした笑い話だ。
 そう、自らの意思を貫き通せなかった僕と彼女の、どこにでもあるような話なんだよ。
 頷いた梓。静寂の空間――僕はゆっくりと、永遠を信じていたあの頃を、声にし始めた。

      ○  ○  ○

 体育倉庫までの道のりはあまり遠いものじゃない。
 教室を飛び出してすぐに辿り着いた私は、大きな声の交差を聴いた。 
 自然と足音は小さくなって、倉庫のドアへと寄りかかるようにして中の物音に耳をたてる。
 いや、すでに物音じゃないか。
 耳をドアへ押し付けなくても聞こえる笑い声。梓っち、っていう人と愁くんがいるのは間違いないみたいだ。
 梓っちという人が愁くんの――なのだろうか。
 正樹くんのあの言葉・・・・からすると、私のほうが後のようだし。
 そうなると飛び込まなくて良かったような気が――
『……この話はね。僕の初恋の、話なんだ』
 思考がまっさらへと新規された。
 私の知りたかったことが、私の思い描いていたものとは違う形で、彼の口から発せられる。
 そんな未来を刻み込むための白紙。
 聴覚以外の感覚すべてを捨てたかのよう。
 手の感覚がない。
 今私がどのような格好をして話を盗み聞きしているのかがわからない。
『他の人にとってはつまんない恋かもしれないけどね』
 意識のすべてをドアの先に集中させる。
 その理由はひとつだけど。
 あまりにも大きくて、言葉で表すほど汚れてしまうもの。
『僕にとっては――とっても大切な、僕だけの恋。僕だけが感じた恋の、話なんだ』
 それに、良いも悪いも存在しない。
 だから受け止めなくちゃいけないんだ。
 愁くんを好きでいるために――愁くんのすべてを受け止めなくちゃ、いけないんだ。
 受け止められてばかりじゃ、だめなんだ。

 それでも・・・・私はまだ何も見れちゃ・・・・・・・・・・いなかった・・・・・

      ○  ○  ○

「……遅い」
 サボりたいがために愁と梓っちに任せたのだが、天城様が来たのは予想外だった。
 何か一悶着あったのだろうか。心配だ。
「お前も心配だろ?」
 クルリと首を回して千明希ちゃんへと向く。
 本に目をずぅぅぅぅぅぅぅぅ……っと落としている千明希ちゃんは欠伸がでるほどゆっくりと顔をあげ、本へと目をもどした。
 ……。
 ……。
 ……。
 愁じゃないと千明希ちゃんの意思はわかりませんっと。
「でもよ。恋人が他の女と会って・・・・・・・・・・るのとか・・・・気に食わないのか・・・・・・・・?」
 ピクリと千明希ちゃんが反応した。
 自分で言ってなんだが、懐かしい話題だなコレ。
 次言う台詞はお決まりみたいなものだ。
「……恋人じゃ・・・・ないから・・・・
 あの時は愁と千明希ちゃんは別クラスだったし、だから愁は千明希ちゃんの声聞いたことなかったんだろうな。
 俺は何度も聞いてる。
 つまり、何度もこの話題で茶化そうと試みたわけだが……反応薄なのは今も変わらないけり。
 机に本を直した千明希ちゃんは、ごそごそとしてから弾かれるように立ち上がった。
 手に何かを握り締めて、俺の横を通り過ぎる。
 ……幽霊のようだと思ったのは秘密だ。
「なんなんだよ……」
 今気づいたが、ざわついてる奴等のテンションがいつも以上に高い感じだ。
 噂……のせいだろうか。まあ、男子ナンバーワンの正樹と女子ナンバーワンの天城様だからな。浮つくのも仕方がない。
 勝手な解釈で納得し、机に座った。
 そういえば千明希ちゃん、机漁ってたなぁと、自分の机の中を覗き込んでみる。
「ん?」
 顔をあげる。
 授業なんてクソくらえな俺が残すはずが無い。
 もう一度じっくり覗き込んだ。
 やっぱり、紙切れが無造作に置かれていた。
 最近学校を休んだ憶えはないし、悲しいが告白されるはずもない。
 第一、折りたたんでる紙じゃなさそうだから手紙とかの類じゃなさそうだ。
 ……。
 ……。
 ……。
 そうか、見ればいいんだ。
 俺は紙切れの端を掴み、机から引き出した。
 裏面だからなのか、何も見えない。
 上半分が黒い影だから……写真でも貼られてるんだろうか。
 机の上に置き、ゆっくりと表替す。
 そして、俺は――噂で広がった虚構が、虚構でなくなったという事実を知った。

      ○  ○  ○

 暗い世界。
 暗い。ただただ暗い。そして僕の心も、同じくらいドス黒い。
 片手に持った何か。
 それを目の位置まで掲げる。
 距離が近すぎたけど、得たものは変わりない。
「良いアングルで撮れてる……本当のようだ・・・・・・
 記事のほうは少し荒いが、速達という名目を打ったから大丈夫だろう。
 タイミングが重要なんだ。何度も何度も思考して、導き出した時間きっかり。
 じわじわという序盤を思い出させないくらいに、広まりは早い。
 昔、こんな名言を聞いた。
 『人は環境によって人となる』
 今ならその言葉のありがたさがわかる。
 僕なりの解釈でいえば、『人は周囲によってどんな風にも変わってしまう』ということなのだ。
 環境適応能力に優れている――良い意味でも、悪い意味でも。
 友達や親、先生や持ち物。いろんなものよって人は、善人にも悪人なれるという解釈。
 不協和音に身を転じさせれば――人は簡単に絶望する。
「それの証明が今、なされるんだよ……」
 環境によって壊される。
 僕の仕組んだ計画ストーリーの役は、その結果に向かってきちんと直進してくれている。
 何が壊れるのだろうか。
 恋人との関係性が望まぬ方向に進んで、永遠と繋がれるはずだった手が愛があるにも関わらず離れる。
 それによって壊れるものは何なのだろうか。
 死にはしない。だが、ある意味死に近いものが見れるはず。
 失うルーズという絶望は、死ぬダイという終焉よりも深いだろうから。
 あの名言がなければ僕はきっと、この計画を思いつかなかっただろう。
 誰かが悪役なわけではなく、されど悲しみに満ちた終焉バッドエンド
 夢のようだ。
「僕の感じた絶望という空虚……君にも味わわせてあげるよ、愁」
 純粋無垢な彼に罪はない。
 ただ僕が、それを汚したいと思っただけ。
 気分は――悪くはなかった。

      ○  ○  ○

「……」
 無言の梓。
 さすがにしんみりしちゃったかとか思い、空気の重々しさに打ち勝ってなんとか声をかける。
「……変な話してごめん。でも、梓にはただの友達じゃなくて……親友に、なってほしかったから。
偽ったりじゃなくて、本当の僕で、梓と友達でいたいから。
言ったことは、後悔してない」
「……」
 こういう真剣な関係は望んでなかったのかもしれない。
 梓はバカ騒ぎする友達に僕を選んだだけで、めんどくさい話をする僕のことは――
「……バカ。今無駄なこと考えただろ」
 ポカリと叩かれた。
 予想とは違う態度に、開けた口を塞げない。
 梓は妙に優しい笑みを浮かべて、僕の頭をポンッポンッと叩き続ける。
「オレのこと誤解すんな。愁の不安とか、つらさを完全にはわからない他人でしかない――けど、受け止めきれなくても、愁を笑ってられなくするもの、半分にしてあげるから」
 ギュッと抱きしめられた。
 むぐぅと僕の胸板――より上――を押す柔らかいもの。
 普段ならきっと慌てていただろう。
 でも、心に呼びかける温かさが、そうさせなかった。
「だからさ…………ちょっとだけなら、泣いても良いぞ」
 僕を突き動かしたのは衝動だったけど。
 本当に、後悔はなかった。

 手に入れるものに目を・・・・・・・・・・暮れて・・・失うものを見ていなか・・・・・・・・・・った・・

      ○  ○  ○

 ――私の手は届かない。
 彼女の手は届いていて。
 ――私の心は届かない。
 彼女の心は届いていて。
 もどかしい。もどかしい距離。
 私の聞く彼の声は、泣いていて。
 ドアの先にいるというのに。
 私はその姿を見ることすら叶わず。
 弾かれるように、私はドアの取っ手へと手をかけて――
「駄目」
「ッ!?」
 その手を押さえられた。
 きつく締め上げられる。でも、痛みは感じない。
 それほどの恐怖が、目の前にあったから。
 無という静けさをもった瞳。その奥にある感情を、私は感じ取っていた。
 目の前へと向けられた刃に、気づかない人がいるだろうか。
「あなたに資格はない」
「……あなたにも、資格はないと、私は思うんだけどな?」
 できるだけ感情を押し殺してそう対応する。
 視線という刃を持ったその少女は、コクリと頷いた。
 そして、もう片手にもった二つ折りにされた紙を、私に見えやすい位置と距離まで掲げる。
 何の意図があるのか、私にはわからなかった。
「私には資格がない」
 ゆっくりと、二つ折りを保たせている人差し指が取り除かれる。
「それ以上に」
 押さえるという行為を捨てた人差し指。
「あなたには」
 紙が重力によって開かれたのは一瞬。
「もっと――資格がない」
 そこにいるに、すべてを裏切られた気がした。
 なぜ――答えはない。
 どうして――答えはない。
 答えのない問い。されど、問わずにはいられない。
 どうして・・・・正樹くんと私が抱き合・・・・・・・・・・っているのか・・・・・・
 なぜ・・私と正樹くんが付き合・・・・・・・・・・っていることになって・・・・・・・・・・いるのか・・・・
 嘘だと断言できた。だけど、開いた口が塞がらなかった。
「多分、あなたは裏切っていないとは思う」
 今日の彼女は、いつになくしゃべる。
 私はそれをただただ聞き続けた。
「それでも――私はあなたを許さない」
 言いたいことがあった。
 あなたが許さなくても大丈夫。きっと、私自身が私のことを許せないだろうから――と。
 もどかしい。もどかしい距離。
 私の聞く彼の声は、泣いていて。
 ドアの先にいるというのに。
 私はその姿を見ることすら叶わず。
 ――私の手は届かない。
 彼女の手は届いていて。
 ――私の心は届かない。
 彼女の心は届いていて。
 遁走したがる心は止められず。
 身を翻して駆け出した足は止められず。
 いろんな意味で、彼という存在が遠くなったことを――噛み締めてしまった。
 ひとつの誤解は解けた。彼の口がすべてを語った。
 誤解ではない事実。彼のすべてを疑ったという事実――私と彼の距離を、茨で埋める。
 彼を抱きとめた彼女のような、救いの言葉を私は言えただろうか。
 きっといえなかっただろう。私は私でしかないのだから。
 私は受け止められてばかりで――前を向く勇気も、ただの強がりでしかなかったのだと気づかされる。
 自然と溢れる涙を、私は止めることができなかった。

      ○  ○  ○

 結局、放課後になったときには梓と親友になれたわけで。
 進展はええ……自分で自分の凄さに驚いてみた。
 いや、梓の性格が良いだけかもしれないけどさ。
 チャイムの余韻が未だ消えぬ中、梓に声をかけた。
「梓、いっしょに帰ろうよ♪」
「ん?」
 梓は大欠伸をしながら僕へと向く。
 伸びをするのはいいのですが、一動作ごとに揺れる豊満象徴体が視覚を刺激するんです、どうしましょう。
「あ〜……私、バスなんだ」
「へぇ」
 学校に来る方法は二種類。
 僕みたいなのは歩いてきてるけど、ちょっと距離があって時間がかかる人はバス通学、通称バス通をする。
「めんごめんご♪」
 梓は合掌し、言った。
 この距離が、僕にとって嬉しすぎる近さだ。
 僕はにっこり微笑んでさらに一言二言会話を交わし、『トライアングル』の残り二人へと声をかける。
 即オッケーだったからか、教室を出たのは案外早かった。
「そういえば、今日もらえるんじゃなかったっけ?」
 祐がそう話を切り出す。
 劇の台本だろう。
「ん〜……先生からは集合かけられなかったし、今日に間に合わなかったんじゃないかな?」
「ま、そう思うのが妥当ね」
 どれほどの内容かはしらないが、急かしたりする理由もないわけだし。
 校門が見えたときにはそれを忘れるほど、はしゃいでしまった。
 行き交う人の波に抗って、俯きながら立ち尽くしている――
「小夜歌さん!!」
 今の自分にはしっぽがあるのではないかという気がしてならない。
 思わずぴょんぴょんと走り寄ろうとして――
 大量の男子生徒に防がれた。
 筋肉質な両腕を組み、壁のように連なっている。
 呆気にとられていると、紛れていたらしいトモダチが僕の手をとって小夜歌さんがいるところを迂回するようにして校門をくぐらせてきた。
 口を開こうとして――校門を塞ぐ波と化した男子生徒達によって祐とともに無理やり歩かされた。
 祐もやっぱり困惑気味だ。
 ぴょんぴょんと跳んで、通勤ラッシュのような波の後ろを見た。
 校門辺りにいる人は多いんだけど。
 この波の中にいるからか。
 ――正樹と小夜歌さんが、何か話してる気がしたんだ。
 僕を待っていてくれたのかと、少しだけ期待したんだけどな。
 思い違いだったみたいだ。

 嫌な予感が・・・・・今一度胸を満たす・・・・・・・・

      ○  ○  ○

 思い通りにいかない。
 世界が私を中心に回っていないのは知っているけど、それにしても思い通りにいかない。
 正樹くんが人の良い性格をしていてよかった。周りが、私の思惑を通してくれていないだけだと理解できる。
 確かに正樹くんといて悪い気はしない。でも、私が話したい人は別で。
「……小夜歌、少し話があるんだ」
 唐突に切られたテレビ。
 理解ある父親。のはずな人。
 真剣な顔をしているときは、何か良くない話か重大な話があるってことだ。
「な、何?」
 なんでこんなときに……とは思うけど、聞くだけ聞く。
 反抗するほうが心が狭くなってつらくなるだろうから。
 淡い黄色のソファーにしっかりと座りなおし、
「……実はな」
 話を聞いた後に気づいた。
 聞かされるのは重大な話なのだから――どちらにしても私は、キレてしまうのだと。

      ○  ○  ○

 予想通り。
 周囲は強引かつ絶対的な力をもってして、二人を引き離した。
 僕の制御下にあって、いつ制御できなくなるかわからない力の一手だ。
「愁……君の見た絶望は、どんな味をしていた?」
 尋ねはしない。この目で見る。
 見たものを、忘れるつもりはない。
 ――今日が終わる。
 明日にはどんなものが見れるのか。
 久しぶりに満ちるドス黒い感情が、僕を悪魔にし続ける。
 悪魔という、完璧に。

 人が人である限り悪魔・・・・・・・・・・にはなれず・・・・・故に完璧は存在しない・・・・・・・・・・というのに・・・・・
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