『正樹という存在』
『正樹という存在』
彼にあの言葉を言われたとき、どんな空が僕らを見つめていたのだろうか。
わからない。そんなことにも気を配れないのが、僕だった。
優しいといわれたことがあった。
かっこいいといわれたことがあった。
いつの間にか、異性にも同性にも好かれる存在になっていた。
何も思わなかった。
淡々と返す言葉は、表向きな力しか込められていない。
自分と他人の間には、分厚い壁があった。
幼馴染という、とりあえず近くに置いていた存在がいた。
自分の苦しみの何をも知らず、他人と同じように上辺だけで僕と交流する存在――そう、思っていた。
偶然、彼といっしょに帰ることになった。
偶然、自分には余裕があった。
だから偶然、彼のペースに付き合って帰ることにした。
楽しいと思うことはあった。
だけど、自分はもっと深く暗いところから他人を、自分すらも、見上げているじゃないかと思うことが多い。
聞こえてくる音が鈍く響く――世界を諦めるような、冷めた心が自分だからだろう。
冷静な部分が常にある。
会話が楽しいときでも、怒っているときでも、疲れきっているときでも。
彼は、そんな僕とは正反対の存在だった。
そう実感し、理解し得ないことを知ったのはその帰り道でのこと。
なんだったか。そう、何かがあったんだ。
何かが横切って――そう、トラックが横切って、その先を目で追って。
ネコを、見たんだったか。
トラックが来ることにも気づかないネコは、なぜか立ち止まっていて。
僕は、ばかだなぁくらいしか思っていなかったと思う。
今でもそうだろう。
一歩を踏み出すつもりはなかったんだ。
だけど、彼は一歩を踏み出していた。
一歩どころじゃなく、トラックを追い越す感じでネコへと走っている。
トラックは若干速度を緩めて走行しているため、彼のほうが速くネコへと辿り着くのが見えた。
近づくのに数秒、触れるのに数秒、抱き上げるのに数秒、気遣いながら走り出すのに数秒。
――若干足りない。ぼおっとそんなことを思った。
それが、彼と僕との違いだった。
○ ○ ○
ふっと目が醒める。
頭がぼんやりしているわけでもなく、寝る前とあまり変わってはいない。
眠っていなかっただろうか。少しだけ思考する。
いや、身体の鈍りからすると、ちゃんと眠っていたのだろう。
ゆっくりと、起き上がった。
和室。その表現だけで事足りる、完璧なる和室。
ドラマか何かに出れそうな――いや、それを基に作られたのかもしれない。
私物はない。父君に提出し、許可されたものしか置いてもらえなかった。
いつからか、それは【父君の置こうとしたもの】しか部屋に置けないという事実なのだと知った。
朝から答えのないことを考えても思考回路の負担になるだけだ。
寝ていたという事実が生んだのは思考回路の回復。
夢を見ただろうか――否。
何も考えず、何も考えることなく、何を思うわけもなく、数時間を越した。
眠りの楽しさというものを味わったことは、一度もない気がする。
つまらないな――そう、何もかもがつまらない。
今の世の中は表向きの平穏を保って、ゆっくりと壊れている。
つまらない世界だ。昔は、もっと人を満たす何かがあったというのに。
例え同じ傷つけるであっても、昔には正義があっただろうに。
私利私欲に狂う人が、知的生物であることを騙るような今。
つまらない――刺激がなすぎる日常も。冷め切っている自分も。
「正樹様。朝食の準備が整いました」
いつもどおりだ。
いつもどおり、我が母君の言いつけと規則に縛られて尚自由であると、幸せであると言い張り続ける愚者がきた。
集団催眠でもしたのだろうか。僕はそんなのくそくらえだと思っている。
親の言いなり――それにどんな意味がある。
親だけが、上位に立てるわけじゃないんだ。
子供が絶対的に、下位なはずがない。
親が与えるべきは束縛ではないというのに、勘違いを正しいと勘違いし続けることこそが子供を腐らせているというのに。
言うとおりにすれば幸せ――指図されるいわれはない。
嘆く母君を何度も見た。呂律が回らず、ただただ怒りに沸騰する父君を何度も見た。
いつも、同じ一文だけを言い続ける。
――あなた方に示された未来に、僕の求める幸せはありません。人形の相手でもしていてください。自分の満足くらい、他人の邪魔をせずにしてください。
拳をあげるならそれを叩く。
嘆くことで満足してくれるというのなら、その雨に何度でも晒されよう。
己らの言う正しき道を歩み続けた者の、人形のような冷たき手を直視できぬ親君――何をどうしたかったのか、今でもわからない。
人を人とみれなかった親君の意思など、知れるはずもないか。
「わかった。今行くよ」
適当な言葉を返し、立ち上がる。
今日のスケジュールを脳裏に投影。困難なものは何一つない。授業後の予定も親君の身勝手なものではあるが一通りこなしてやる。
器の大きな存在なわけではない。ただ、損得を考えるほどに醒めてしまっているだけ。
スケジュールには反映されない事象こそが、僕がこの世に居続ける理由だ。
片瀬愁――親友。
微笑むことを教えられた。
彼が当たり前という、損得を考えぬ行動の意味を教えられた。
親君の指図よりもずっと良い――自分を大きくしてくれると、予感する。
もっと広い視野をもてそうだと、予感してしまう。
その視野で、自分を満たす何かを見つけることができる――そう思っているんだ。
「……正樹様。何か楽しいことがおありなのですか?」
「ん――いいや、なんでもないよ。気にせずに、下がってくれ」
他人にそう思わせてしまうほど、頬が緩んでいたのだろうか。
パンッと頬を叩く。
己は二つ。
光にある自分と、闇にある自分。
どちらかに溺れることなく、されどどちらかから足を洗うわけでもなく。
両方の手綱を掴み続けるという刺激のみを得る自分を消すつもりはない。
自分がただの高校生でないことを自覚しているからこその冷醒。冷醒が自分をただの高校生でないものにしているのか。
思っているよりも、自分という存在は混沌なのかもしれない。
再度閉められた襖に手をかけたところで止まる。
澄んだ空気の漂う、真っ青の空。
自分でわかるほどに、頬は緩んでいた。
今日も、良い日になる――日の暖かさを掌で受け止めて、そんなことを思った。
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