♯10[ダル・セーニョ]
夕焼けを背に。
「確かに、あなたは真実を口にできはしなかったけれど」
少女が、語る。
「それを気に病む必要は無いわ」
濡れる口唇から。
「一矢さんがあのコンビニに居た理由が、自分を選んでくれなかった女を怨んだあげくに殺してしまったからだと知ったら――あなたなら、死ぬほど気の毒に思ってしまうでしょうね」
流れる髪を揺らして。
「でもそれも、必要無いの」
瞳に、光を宿して。
「だって全部夢だから」
少女は手を差し出す。
「脆弱でないこの夢から目覚めれば、誰もが前を向けるから。だから、あなたは何一つ気にしなくて良いわ」
女神のように微笑んで。暖かいくらいに包んでくれて。
「だけど――気になるんでしょう。なら、行くといいわ」
がんばってと、背中を押されている気分になる。
「眠り姫はまだ眠ったままよ。おうじさま」
たった一言も、感謝の気持ちを表すことはできなかった。
CROSS! 4th〜繋いだ手と手、小さな小さな恋愛模様〜
しばしの間、俺は絶句した。
「ここは……?」
そして、誰がいるわけでもないのに、思わず問いの言葉を口にしてしまう。
そこは――
俺が立っている場所は、途方も無い宙に浮かぶ、巨大なガラスの階段だった。
階段の幅は、ゆうに5メートル以上はあるだろう。寝そべってもまだ余る。手すりが無いのが心もとないが、真ん中を歩いていて躓いたとしても宙に放り出されることはまずなさそうだ。
上下に何段続いているかは、判然としない。何しろ、どこまでもどこまでも続いて見えるから。
不可思議だ。呼吸は問題なくできるし、熱くも寒くもない。そんなちょっとしたことに、深く安堵してしまう。よく見れば、宙の色には濃淡があるようだ。紺色、すみれ色、赤紫色、暗赤色。オーロラの中に飛び込んだらこうなるんじゃないかというほど、圧倒されて言葉も無い。
上下左右前後――足元にあるガラスの階段の向こう側にまで、そんな不思議な宙は広がっている。その広大さは、まるで宇宙空間だ。
だが、宇宙空間に似て非なるものであることは明確である。宇宙に階段があるはずないし。
だとしたら、いったいここは――いや、俺には解る。疑問に答え得るだけの情報を、記憶している。
これは夢と隣り合った"入口世界"だ。
夢と夢じゃない場所とを繋ぐ通路が、此処の存在意義である。今の俺にとって必要不可欠な、いち舞台だ。
真っ直ぐ昇れば、現に辿り着くはず。
直感の語る情報が確信に満ち溢れていて、自分自身戸惑いがある。しかし俺は疑わずに一段一段踏みしめていった。
永遠に続いているように見えた階段の先で、突然宙が途切れる。代わりに光が差して、まるで俺に救いの手を伸ばしているかのようだ。
ここに飛び込めば、夢から/現に移れる。自然と緩みそうになる頬。駆け上がる速度が一歩ごとに速く速くなっていって、いつの間にか全力を尽くして走っているではないか。
何かに追われているわけでもないのに必死になって、ここから抜け出すことしか頭になかった。
"――――\\"
そこに響き渡ってくる、声。
ホワイトアウトした思考の中に、黒線で描かれるひとつの似顔絵。
"――――\\"
美弥――子、さん……?
俺は立ち止まって、走ってきたのよりもさらに下を見下ろした。
"――――\\"
やっぱり。違いない。この声は、あの人のもの。
どこか悲痛な、どこか虚ろな、金切り的な鳴声。胸がざわめいて、息が詰まる。
"――――\\"
あなたに何が起こってるんですか。美弥子さん。
俺は踵を返す。無我夢中になって、来た道をまた戻る。
一歩ごとに恐怖が芽生える。だがそんなことは、些細でしかない。
"――――\\"
「美弥子さんっ!!」
焦燥が許容を越えたと同時、俺は思いっきり跳んで、思いっきり落ちていった。
風を感じながら、視界がフラッシュバックして暗やみに満ちた。
+×+
帰りのバスでも、ときたまだが会うことがある。
そして、今日は偶然にも同じバスで居合わせた。
「やっほ。綾乃ちゃん」
「あ……今晩は」
うん、お美しい。俺はそう思って、いそいそと綾乃ちゃんの隣席に腰を下ろす。
綾乃ちゃんは通路側に座っているので、俺が座ったのは窓際の方だ。綾乃ちゃんが身を縮めて道を開けてくれたのは同席していいということと受け取り、今日は漫才をナシにしてあげることにした。
「5月に入って、いきなり夏になったけど、体調崩したりしてない?」
「ご心配には及びません。テニスやってますし」
窓の方に頬杖を突きながら尋ねると、予想外な返答がきて目を丸くしてしまう。
「なんだ、綾乃ちゃんって運動部だったのか。てっきり文化部かと思ってた」
「……そんなに、か弱そうでしょうか」
その一件については、徹夜で語り合わねばならないだろう。ともかく、スポーツ一直線な灼熱野郎には見えていないのは確かだとだけ言っておく。
「細いところは細くて、豊かなところは豊かだよな」
舐めるように綾乃ちゃんを見定める。定型的なナイスバディといったところで、制服を押し破らんばかりの胸がけしからん。
けしからん。けしからんぞ、ぐへへ。
「変な目で見ないでください」
怒気を含んだ声が発せられるととともに、人差し指が俺の頬に伸びてくる。俺は窓に顔を押し付けられて、思わずうげっと呻いてしまう。
――っと、その時。
ぐんぐん変わっていく外の景色とともに、ひとつの横顔が往ってしまった。
あまりに一瞬のことすぎた、けれど、確かにあの横顔は美弥子さんだった。
花束を持っていた、ような気がする。何を意味するかは、全くわからない。
それに――凄く悲しげな表情をしていた。
彼女がこんな表情をするのかと驚かされてしまうほど、愁いを帯びていた。
気になる。彼女に何かあったのだろうか。杞憂に終わるかもしれない心配事だ、しかし心配せずにはいられなかった。
意味も無く、心の奥底がざわめいたのだ。まるで、今の一瞬が何かの伏線であると知らせるかのように。
「……どうかしたんですか?」
「んー」
どもるしかない。言えるようなことではないし、言ってもどうにもならないことでもある。言わないほうが得策だろうと、俺は横に首を振った。
それで納得し、それ以上突っ込んでは来ない綾乃ちゃん。彼女の、霧消に寂しげな表情が、どこかの誰かの今さっき垣間見た表情に似ている気がした。
俺は、きゅうっと胸が締め付けられる思いを抱いた。
そして、自宅に一番近いバス亭で降りるのだ。
「え……?」
一歩黒コンクリの道に出ると、途端に目眩が襲ってくる。
感覚が半端以上削り取られたような、麻痺感。吐き気の迫ってくる不快感で心がいっぱいになって、視界が目眩に揺らいで揺らいで揺らめく。
「――あ」
二歩目。振り下ろした足は、どこにも着かなかった。
+×+
+×+
帰りのバスでも、ときたまだが会うことがある。
そして、今日は偶然にも同じバスで居合わせた。
「やっほ。綾乃ちゃん」
「あ……今晩は」
うん、お美しい。俺はそう思って、いそいそと綾乃ちゃんの隣席に腰を下ろす。
いつもどおり、他愛ない談話を交わすためだ。
そして、今日もまた自宅に一番近いバス亭で降りるのである。
+×+ |