第伍話:溜息
「あと二秒待つんだ!………今だっ!」
「はいっっ」
厨房の一角。茶飲み用の陶器や各種の茶葉が揃えられたスペースでのことだ。そこには真剣な表情で茶を煎れる小羽の姿があった。
一通りの家事は対応できた小羽だったが、此処にはガスも水道もない。お茶のために一から湯を沸かすのも一苦労といったものだ―――。
白磁の湯呑みから立ち上がる湯気がその一角に漂う。
茶の注がれた湯呑みを取り、ずずっ、とすすったのは八雲であった。
一口含み、茶の具合を確かめる。
「まーまーだな」
小羽のいれた茶は苦みは少なく、呑みやすいが言い換えれば味が薄かったのだ…。
+++++
しゃりしゃり、しゃりしゃり…。
硯の上に墨を溶いていく。
向き合うのは高級和紙。姿勢を正して毛筆を握るのは鈴という少女。
筆に墨を含ませ、さあ書こうという所だった。
からり、と乾いた音をたてて障子が開き、小袖に近い和服を着た少女が入ってきたのは。
「あの…、鈴さん。お茶いれたので、呑んでもらえませんか?」
躊躇いがちに差し出した盆には湯気のたつ湯呑みが載っていた。
「………あなたがいれたんですか?」
「はい」
机に置かれた湯呑みをしげしげと見つめてから鈴が言った。
「…………」
つい、と細い指が湯呑みにからむ。ゆっくりと湯呑みを持ち上げて鈴は一口茶を含んだ。
やや間があってから鈴は相変わらず無表情に口を開いた。
「……薄いです」
「やっぱりですか?……よし、もっと練習しますね」
「………変なヒトですね」
屈託のない笑顔を向ける小羽に、鈴はかわらぬ無表情で、だが複雑そうな声色で言う。
「わたしたちは妖。あなたのようなヒトとは違う。…怖い筈です」
視線は薄いと評価された茶に落としたまま、あくまで淡々と鈴は続ける。 小羽には、それが"創っている"のではないかと思えた。
「……わたしはヒトが嫌いです。ヒトは酷くて狡いイキモノだから…」
「鈴さん……」
「………出ていってもらえますか。今から書状書かなくてはいけないので」
冷たく突き放すその言葉には有無をいわさぬ圧力がある。小羽は何も言えず、黙って部屋を出ることしかできなかった……。
障子を閉める刹那に見えた鈴は、湯呑みを握ったまま座って静かに佇んでいた―――。
風が心地いい。
格子窓から流れる風にそう感じて八雲は素足に草履をつっかけ外に出た。
ざざざざ、としだれ桜の長く垂れる枝が風に揺れる。開花まではあと一週間もないだろう。
短い白髪を掻きながらくああ、と欠伸を一つして、八雲はそのまま仰向けに草の上に転がった。
このまま寝てしまおうか、と思った所、反転する視界に深緑の髪が映り、八雲はひらひら手を振った。
「どうした主」
袴姿にボタンシャツの出で立ちで現れた主に八雲は笑みを向ける。
「…少し退屈でな。八雲殿は?」
「おんなじだよ。暇で暇で」
「……小羽はどうだ」
有火は寝転がる八雲の隣に腰を下ろす。
「まだ数日だからな、でも、いい子だよ。自分たちの正体を知っても気にしてないようだし」
かか、と笑って八雲は座り直す。
作務衣の懐から煙管入れを取り出し、マッチで刻み煙草に火をつけ適当に吸い出した。
「なあ。……有火、小羽が……"花"なんだろ?」
「……ああ」
「……はあ。お前も難儀な奴だな。まあ、自分は板前として働く身だから何もいわんが…」
漂う紫煙を風がキリ散らす。
有火は黙って桜の木を見上げた。
「……今日来るのか?」
「ん? ああ。郵便か。そうらしいな。今年も想也たちを呼ぶんだろ?」
「ああ。一応景都と酒華にも出すつもりだが」
「酒華は来ないだろうなぁ、忙しいだろうし。景都は捕まるか?」
「さあな」
また一度風が吹く。有火は草の上から立ち上がり八雲に一瞥してから屋敷へ歩いてゆく。
八雲はその背を眺めながら紫煙をはきだし、己も立ち上がった。
「……輪廻か。まったく、面倒な仕組みだ」
一人つぶやく男の目は遠き日が回想されていて、八雲はそんな己にため息をはいた……。
×××××
はあ、と本日何回めかになるため息を零し、小羽は縁側に座って庭を眺めていた。
庭はいつ視ても素晴らしく見事だが、それも小羽の心を晴らしてはくれない。
「嫌い…か…」
鈴の言葉が頭に反芻され、小羽は頭を抱えた。
―――嫌われる。それには慣れている筈だった。
思い帰されるのは、何時かの母の言葉。
聴きたくもない、でも、決して耳から、記憶から、全身から離れてくれないあの言葉。
―――私はあんたを…………
「―――ッ」
反射的に掌できつく着物を握り締めていた。ささやかな抵抗ともとれるその行動は、なんの意味も持たない。
「………やっぱり、此処でも私は……居てはいけないのかな……」
ふわり、一陣の風が舞う。
穏やかな風はゆっくりと、激しく吹き付ける。唐突に、上昇気流が巻き起こり、飾池に波紋が渡る。
「え……」
春一番とはとても思えぬ一風変わった風に小羽は空を見上げる。
ざばざばざば、と葉々が巻き上がり、空へ吸い込まれてゆく。
影が僅かに見えて小羽は眼を細める。
車輪だ。繋がる二つの車輪に人の影。ちょうど自転車に乗っているような影がゆっくり降りてくる。
「ひと……?」
それを確認した瞬間、再び風が巻きあがり、小羽は眼を閉じた。頬をなぜる風が僅かに痛い。
なに、これ……。そう呟く間もなく、風は止まり、眼を開いた小羽の視界には自転車があった。
黒の網金で出来た古いもので、庭のちょうど中心に現れている。しかも、ヒトが乗っていたので小羽はひどく驚いた。
深めに被った藍色の制帽。同じく藍色の、一見明治の公務員の制服に見えなくもない変わった服。肩には白のショルダーバッグがかかっている。
「ありゃ、着地場所間違えたな。此処は……庭か?」
第一声は、驚きだった……。
〈続〉
|