坂東蛍子、挨拶に万感を込める
朝のホームルーム前に本を返却してしまおうと坂東蛍子が教室のドアに手をかけると、ドアは力を込める前に横にスルスルと開いた。ドアの向こうでは桐ケ谷茉莉花がスマートフォンを片手で弄りながら今まさに教室に踏み入ろうとしており、蛍子同様宙に浮かせた脚を慌てて自分の側へ引き戻した。
蛍子は憎々しげに茉莉花を睨んだ。季節はもう梅雨の時期に差し掛かっていたが、未だに蛍子はこの新しい学友のことを受け入れることが出来ずにいた。長い金髪の跳ねっ毛も、まつ毛の奥で煌めく鋭い眼光も、風貌の割に何でもそつなくこなす手際の良さも気に食わなかった。不良のような見た目をしているにも関わらず、無遅刻無欠席で、悪い噂も過去の話ばかりで特に耳にしない。蛍子には茉莉花を構成する情報の一切が酷くチグハグなパッチワークに見えた。どこを切り取ってもそれらしくなるが、しかし全体としては不格好で嘘臭い。要するに桐ケ谷茉莉花という存在自体に納得がいかないのだ。掴み所が無いが故に常に漠然と不愉快な気分になる。坂東蛍子にとって桐ケ谷茉莉花とはそういう人物だった。まるでこの六月の雨のようだな、と蛍子は思った。雨は今日も降り続いている。
しかし、そこまで強い不快感を抱いているのはどうやら蛍子一人のようで、クラスにおいては桐ケ谷茉莉花は一同級生としてすっかり溶け込んでいるのだった。初めのうちこそ不良転校生として警戒され疎まれていた彼女であったが、そのスタイルの良さや肝の据わった性格の裏に隠れた気立ての良さ、何より害の無さが明らかになってからは、次第にクラスメイトも茉莉花を受け入れ始め、むしろ第一印象とのギャップに好感を持つようになっていった。一時期はその容姿と才気で校内のシンボルのように祭り上げられていた坂東蛍子だったが、最近では桐ケ谷茉莉花が彼女の対抗馬となり得るのではとまことしやかに囁かれてもおり、そういったところでも茉莉花は蛍子を苛立たせた。
何よりも腹が立つのは、そういったお膳立てを重ね茉莉花をクラスに溶け込ませた立役者が、蛍子の想い人である快男児、松任谷理一その人であるということだった。坂東蛍子は理一の性格の良さを熟知していたし、苦しんでいる人間を放っておけないことも理解していた(そういうところも大好きだった)が、だからといって“好きな人が自分以外の異性に優しくする”ことに何も感じない蛍子では無かった。嫉妬しないわけがない。しかもそれが元々気に食わない相手に対してだったとしたら尚のことだ。
蛍子は理一にもっと構ってもらいたかった。優しくしてもらいたかった。しかし松任谷理一という男は弱い人間にしか手を差し伸べない。今自分が理一の注意を引くということは、(彼が蛍子を好きだという理由でない限り)それは茉莉花よりも自分が弱い人間だと証明することになってしまう。蛍子はそれがたまらなく嫌だった。憎しみや嫉妬はいつしか対抗心へと変わり、蛍子を茉莉花という人間から更に遠ざけていた。
いや、ちょっと待てよ、と蛍子は自身の考えを制した。
本当に理一君は、茉莉花が弱いから助けていたのかな?
はたから見ている分には、正直茉莉花が弱い人間だとは蛍子には思えなかった。確かに当初クラスでは浮いた存在であったし、蛍子のような人間から少なからず嫌がらせを受けていたが、その渦中においても茉莉花は涼しい顔をして日々を送っていた。暴力という面でも茉莉花が他者に脅かされることはなかった(それが例え男であったとしてもである)。茉莉花は彼女のパーソナルスペースの中でそれなりに日常生活を送っていたし、それは少なからず有意義なものであるようにも蛍子には思えた。それなのに、理一は茉莉花を影で支え続けた。茉莉花がクラスに馴染んだ後も、二人の関係は途切れることなく良好に継続しているように思える。蛍子は以前「好きな人がいる」と理一が言っていたことを思い出す。それはもしかしたら茉莉花のことなのではないか、と嫌な考えが、それも未だかつてない程の嫌な考えが蛍子の脳裏によぎった。
それに、と蛍子は思案を続ける。これだけ強い人間である茉莉花と比べて、果たして自分は彼女より強い人間であると胸を張って言えるのだろうか。
無理だな、と蛍子は思った。思えば私は全然強い人間じゃなかった。むしろ圧倒的に弱い人間だ。
プライドが高くて、見栄っ張りで、自分をよく見せようといつも格好つけているのは弱い証拠だ。自分の人気を過信してすぐ慢心するし、その人気が失われるのが時折凄く怖くてビクビクしながら夜を過ごすこともある。自分を守るために人を傷つけることだってある。守って欲しいから自分が傷つくこともある。茉莉花だったらそんなことはしない。茉莉花はいつも自然体で、素の自分を悪びれもせず堂々と出している。張り合うも何も、私とは真逆の人間じゃないか。だからあれだけ孤立した状況にあっても人を惹きつけられたんだ。
途端に蛍子は自分がどうしようもなく独りぼっちに感じた。自分が守ろうとしているものや、周囲の自分の評価がとても薄っぺらいものに思えたのだ。今まで自分が生きてきて見つけてきたものは、本当は何の意味も無いものだったのかもしれない、と蛍子は思った。何かを得ているという感覚は自分の一方的な思い込みでしか無いのかもしれない。私は自分の作った立派な金色の像を対面に出しているだけで、私自身は金色に輝いているわけではない。吹けば飛ぶような何も持っていないただの女子なんだ。皆が見ているのは立派な像の方で、本当は誰も私のことを知らないし、見ていないのかもしれない。
誰も私を知らないし、見ていない。
その思いは蛍子をどんどん孤独の森の奥深くへと追いやり、心を止まない雨でずぶ濡れにした。冷えた体を抱きしめながら、そういえば昔同じようなことを言われたことがあるな、と蛍子は結城満の最後の言葉を思い出していた。
「そんなんじゃ、いつか誰もあんたのことを分からなくなるよ」
幼馴染はそう言って自分の前から去っていった。その出来事の後で、蛍子は自分が一つ強くなったような感覚を覚えたが、それは全くの錯覚だった。自分はそれまでも弱かったし、それからもずっと変わらず弱いままだった。別れは人を決して強くしたりはしない。ただ悲しいことから目を逸らすのが上手くなるだけなのだ。
別れは嫌だな、と蛍子は思った。独りは嫌だ。では、別れないためにはどうすれば良いのだろう。満に指摘されたように自分の至らない部分を変える?本当にそれで良いのだろうか。
友人達は今の私のことを好きだと言ってくれる。アーヤは「弱い貴方が好き」と言ってくれる。ましろは「弱い自分だから貴方が好き」と言ってくれる。それってつまり、今の弱い私だからこそ貰えた言葉なんじゃないんだろうか。
弱いってもしかしたら悪いことじゃないのかもしれない。蛍子には結論は出せなかった。ただ、今の自分を改善するならまだしも、今の自分を否定することは、自分を買ってくれる友人たちへの冒涜だと思った。だから坂東蛍子は弱い自分を一先ず受け入れることに決めた。見栄っ張りな自分も、狡賢い自分も、安易で愚かしい自分も真正面から受け止めて、前に進める坂東蛍子でいよう。皆と繋がっているために。
そのためにも蛍子はまず目の前の桐ケ谷茉莉花への態度を改めることにした。この最大の仇敵を正面から受け止められる人間になろう。憎しみも嫉妬も隠さずぶつけられる人間になるんだ。坂東蛍子は桐ケ谷茉莉花に対しピンと背筋を伸ばして胸を張り、大きく空気を吸い込んで、それを短い言葉に変えた。万感を込めた覚悟の言葉である。その言葉は凛とした彼女の感情を乗せて厳かな宣誓のように教室に響いた。
「おはよう」
「おはよう」
珍しいこともあるもんだな、と桐ケ谷茉莉花は挨拶を返し、猫育成アプリに餌をやるべくスマートフォンの画面に再び目を落として自分の席を目指した。
【桐ケ谷茉莉花其他登場回】
静寂の極意を得る―http://ncode.syosetu.com/n8783by/