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ラジエルの書 作者:庚 真守
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安息香―ベンゾイン―


「ヒマラヤを十回。言ってごらんなさい」
 不意にラジエルは、思いもかけないことを言う。
 なんのことか判らず、言われたまま指を折りながら繰り返す。
「ヒマラヤ、ヒマラヤ、ヒマラヤ、ヒマラヤ、ヒマラヤ、ヒマラヤ、ヒマラヤ、ヒマラヤ、ヒマラヤ、……と、ヒマラヤ」
 きっちり十回、言えた。
「では、世界で一番高い山は?」
「ヒマラヤ!!」
「エベレストです」
「………………」



 ものの見事にひっかかってしまう自分の馬鹿さ加減に、ヒマラヤといったままの形で口が開き切っていた。
 腹話術の人形の顎が下がりっぱなしになっているような状態になっているのだと思う。
 我ながら、とてつもない馬鹿ヅラを晒していたはずだ。
 ひっかけた本人はいかにも楽しげにほほえんでいる。
 こんな単純な言葉遊び、日本でなら絶対にひっかかったりしない。
 だけど、こんな空気さえ薄いヒマラヤ山脈の真ん中で、やられるとは。

「まったく真菜は面白いくらい簡単に騙されてしまわれる」
 そう言って、ラジエルは穏やかに笑った。
「そ、そ、そうですか……」
 辺りを払うような爽やかさを含んだ微笑に、ついつりこまれそうになる。いっしょに笑うべきなのだろう。だが、真菜は口をもごもごさせながら答えるので、精いっぱいだった。
 白い頬に金色の髪がまつわる。
 光を集めて紡いだような細い絹糸の髪。そんな髪をこんな辺境で見たことがない。
 身近な外国人といえば、ガイドをしてくれるシェルパ(チベット系ネパール人)だ。チベット人はたいてい黄褐色の肌をしており、ひび割れた指先は黒光りしているほどだ。
 入浴の習慣がないせいだろう。チベット人には、独得の体臭がある。すれ違えば判るほどだ。それがラジエルにはない。
 このラジエルが、本当にチベット人なのか。性別があるのかさえ、真菜にとっての大いなる謎だった。

 ありふれた表現だが、まるで天使のように奇麗なのだ。
 いや。ただ奇麗というには、あまりにも鮮烈過ぎる。
 真冬の湖のように、触れた手がそのまま凍ってしまいそうな冷たさとでもいうのだろうか。
 近寄ることさえ憚れるのに、こうして砕けた話をしてくださる。
 非常にありがたいことなのだろう。
 シェルパなら五体投地(両手・両膝・額を地面に投げ伏す礼拝)をやりかねない。
 うっとりと見惚れてしまいそうなって、あわてて顔をひきしめた。
 美女を見て鼻の下を伸ばしている中年男みたいだ。
 我ながら……罰当たりすぎる。



「あの……お尋ねしてもいいですか」
「どうぞ」
 あまりにも気安く答える。言葉は、流暢な日本語だ。
「あ、あの……こんな山の上に……。それもこんな高い塔に、どうしてお一人ですんでいらっしゃるんですか」
 真菜は、こっそり手を伸ばしてラジエルの服の裾に触れる。
 人間離れした奇麗な顔をしていてもラジエルが着ているのは、粗末な黒いチャンパオ。中国でそう呼ばれている裾の長い服。こちらでは蔵袍というそうだ。
 だぼっとした膝下まである上着に帯を締める。たいていのチベット人は片袖を脱ぐ。日本の着物みたいに前で合わせるだけだから、そんな着方が可能なのだろう。
 埃っぽい服は、ごわごわとしていて粗い生地の感触が指先に伝わってくる。
 微かな土の匂いが、現実なのだと感じさせてくれた。
 それだけのことで安心できる。
 本当は、女が聖人に触れてはいけないのかもしれない。
 だが、そうしないとラジエルが、夢か幻のように消えてしまうのではないかと思った。



 深く息を吐いた時、ラジエルは真菜の顔を覗きこんできた。
 油断していただけに、心臓がひっくり返る。
「別に珍しくはないでしょう。貴女の国でも高い山に城があるのですから」
「……そ、そ、そうなんです……か?」
 近々と見据えられて、舌がうまく回らない。
「己が国のことをご存じないか」
 そんなふうに言われると、恥ずかしさに息が止まる。
 なんだか、自分がとてつもない馬鹿のような気がしてきた。
 平和ボケした日本人の典型だ。
「だ、だけど……日本には、ここほど高い山はありません。だって……ラサでも富士山とほとんど同じ標高なんです」
「そうでしたな」
 かすかな笑い声とともにラジエルは言った。
 ラサというのは、チベットの首都だ。
 驚くほど近代化が進み派手なネオンが輝き中国の繁華街のようになっている。
 伝統的なチベット文化が失われつつあるが、やはりチベットは雲の上で暮らす人々の国だった。
 国民の仏教の信仰は、どんなに弾圧されても広く深い。
 そう考えると、このラジエルの塔は、不思議な建物だった。
 祈祷旗タルチョーがひとつも見当たらないのだ。
 家、寺院や峠、山の上。チベットのあらゆる場所に、カラフルな小旗がたなびいているはずだった。
 真言マントラを彫り刻んだマニ車も、マニ石もない。
 それに、こんな岩ばかりの高地人々でさえ近寄らない。
 いや。近寄らないのではなく、ラジエルの塔はこの世にはないそうだ。
 ヤクや死者の魂にさえ、その塔を見つけることはできないのだと麓の村人たちから聞いた。
 古くからの聖域だから人を寄せ付けないように、そんな話もあるのかもしれない。



「そ、そうです。いくらなんでも、富士山のてっぺんにお城を作った人なんていません」
 自分ひとりが舞い上がっているのが恥ずかしくて、一息にそれだけ言った。
 空気が乾燥しているから、しゃべっているだけで呼吸がつらい。
 喉も乾いたし……。
 そう思ったときラジエルは、どこからか銀の碗をとりあげて、そのまま口に運んだ。
 自分も水が欲しいと思ったが、こんな高地では水は貴重品だからなんとなく言い出せない。先ほど飲んだチャンの風味がまだ口に残っている。
 また高山病にでもなれば、今度こそ病院で点滴をうってもらうはめになる。
 慣れてきたつもりだったが、息が苦しい。
 それは高山病よりも、このラジエルのせいだ。
 この人といっしょにいるだけで、心臓がどきどきしてしまう。
 まるで小さな子ウサギが、真菜の胸の中で暴れている。

 でも、こんな高山でウサギなんていないから、やっぱりヤクなのかしら。
 毛の長い牛みたいな動物……モーじゃなくてブウブウ鳴く。って、ブウブウどころか心臓をあの蹄でドカドカッと踏み散らかれそうな気分。
 やばい。酸欠。



 ふいにラジエルの指先が顎にかかり、そのまま持ち上げられる。
 現実を把握する前に、今にも鼻がぶつかりそうなほど近づいて、そのまま唇が触れた。
 強く押し付けられて、確実に真菜は心停止した。ビロードみたいな暖かい感触が唇の上を撫でる。
 たぶん、ラジエルの舌だ。
 それじゃ……これって、大人のキスってことなの?!
 一度は停止したはずの心臓が、ものすごい勢いで脈打ち始める。
 頭がぼんやりしてきた。真菜の脳は確実に酸素が足りなくなってしまう。
 とりあえず、目は閉じたほうがいいんだよね。
 両手は、どうしよ……持っていき場がなくて、そのままぶらんとさせている。
 柔らかい舌が、閉じた唇に差し込まれる。
 促されるまま真菜は、とうとう口を開いた。
 そのとたん、ぬるい水がどっと口の中に入ってくる。
 びっくりして目を見開く。がっちりと顎から頬を押さえ込まれているから、まったく動けない。
 いきなりのことに、ほとんど溺れそうになりながら必死に呑み込んだ。
 飲みきれなかった水が、唇の端から零れる。
 真菜の喉が何度か上下するのを確認してから、ラジエルは解放した。

「ひどい。ラジエル様!」
 涙目になりながらなじるとラジエルは、いつもと変わらない優しい微笑みを白い頬に刻んだ。
「喉が渇いていたのでしょう」
「それなら、普通に飲ませてくださいっ!!」
「そんなことをしたら、貴女は今のように打ち解けて話をしてくれませんから」
 悪びれる様子もなくラジエルは、そう言った。

 もう何も言えなくて真菜は、脱力してしまった。
 確かに、さっきまでの緊張感は吹き飛んだ。
 だけど、今のがファーストキスなんて、嘘……でしょ?
 あまりにもムゴイよ。
 せめてもうちょっとロマンチックな感じで……って。
 そんな俗っぽいことを考えている自分が哀しくなってきた。
 この方には、そんな気持ちなんて微塵もないんだろうな。
 真菜にとってラジエルは、別世界の人で天使どころか、まるで神にも等しい人だった。

 ネパールでは神様の肌は白いそうだ。
 ラジエルの肌は、雪のように白い。
 誰も触れていない新雪を思い出させる。
 もっともエベレストの山頂付近は強風のために雪が吹き飛ばされ、岩が露出している部分も多い。
 チベットは、高原にあり気候の垂直変化が著しく、昼夜の気温差が大きい。日照が長いわりに寒かった。
 空気が希薄で乾燥しているせいだろうか。
 土壁の窓から見る空は、瑠璃を張り詰めたような蒼さで、今にも手が届きそうなほど近い。
 奇異な風景は、まるで魔術のように見る者を陶然させる。
 それなのにラジエルだけが、ひどく遠い。
 どうしようもなく寂しくなって、我慢できずにラジエルの服の裾をぎゅっと握りしめてしまった。
 すぐに気が付いてあわてて放そうとしたら、頭に手を置かれた。そのままラジエルは、そっと撫でてくれる。
 それだけのことが、もう泣きたくなるほど嬉しい。

「貴女は、本当に……」
「え?」
 大人が子供を褒めるみたいに頭をよしよしと撫でてもらえたのが、ただ嬉しくて真菜の頬は、だらしなく緩みっぱなしだった。
「なんと可愛らしいのだろう」
 ラジエルは、顔を近づけてくる。
 今度は、どこもつかまれていないので、逃げようと思えば逃げられるけど、どうしたらいいのか判らずにそのまま硬直してしまった。
 自分の呼吸や心臓の音がやたらうるさい。
 あんまり顔が近く、眉間に皺が寄るくらい固く目を閉じてうつむいた。そうすると目の奥が刺すように熱くなって、涙がでてしまいそうなる。
 もう、自分でも何がなんだかよく判らない感情に振り回されていた。

「わたしが……怖いですか?」
 そう問いかけるラジエルの吐息が、真菜の鼻先にかかる。
 土の匂いではない。
 なんだろう。微かな甘い匂い。でもバニラほど甘ったるくはない。
 安息香(ベンゾイン)かもしれない。
 真菜は、ものも言えずに首だけ横に振る。そうすると、いっそう香りが濃くなった。
 優しい匂いに、心が蕩けてしまいそうなほどの安心感に満たされていく。
 もう一度、唇が触れる。
 外気の冷たさのせいだろうか。氷みたいに冷たい唇。
 今度は口移しの水はなくて、そっと触れるだけの優しいキスだった。




 ラジエルは、真菜の髪を優しく梳きながら微笑んだ。
 その穏やかで甘い微笑みを見ると、今にも胸からはじけ飛びそうな心臓をどうしたらいいのか判らない。
 ひどい心臓の鼓動を悟られたくなくて、慌てて横を向く。
 息さえ止まりそうなほどの、狂おしい想い。
 嬉しくてたまらないのに、胸が苦しくて辛い。
 こんな気持ちをやるせないと言うのだろうか。


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