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ラジエルの書 作者:庚 真守
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無知の罪

「タシ・デレ」
 覚えたてのチベット語で挨拶をしてみる。
 日本語でこんにちは、という意味らしい。
 塔の中はすでに炭が熾おこされ暖まっていた。
 布が敷かれた床の上に、銀食器が直接並べられている。
「ようこそ、真菜」
 出迎えてくれたラジエルは、チベット独特の民族衣装を着ている。
 織りの粗い肩布とチュニック。
 硬い編み上げの靴という粗野ないでたちが、却ってラジエルの西洋人に似た優雅な美貌を引き立てていた。


「お腹がすいたのではありませんか」
 ラジエルに促されて真菜は、敷き皮の上に座る。
「日本人の口にも合いそうなものを選んだつもりですが」
「あ、ありがとうございます。あの、あたしなんかのために……」
 ぴったりと寄り添うように真菜の隣に腰を下ろすと、ラジエルは眼を細めるようにして見つめる。
 思いがけないほど近くで見つめられて、指先まで痺れるようだ。
「まったく貴女は自分のことを判っていらっしゃらないようだ」
 甘く笑いを含んだ声で囁かれて、真菜はますます顔が熱くなる。
 脳髄が沸騰しそうだ。
 必死に話をそらそうとしたが、舌はこわばってうまく話せない。
「あ、……あの……っ!」
 ひどく緊張する。
 この状況で何を食べても、きっと味覚がなど感じないだろう。

「……ラ、ラジエルには、日本のお知り合いが、あの……いらっしゃるのですか?」
「さあ、どうでしょうか」
 そう言いながら、ラジエルは銀の椀を差し出す。
 中には白く濁った液体が満たされている。
「これ……なんですか」
「チャンです。チベットの大麦から作られた醸造酒で子供でも飲んでいます。大丈夫でしょう?」
 断る口実を探していたが、無駄なようだ。
 諦めて、一口飲むと少し酸味があった。
 確かにあまりアルコール度数が高くないような気がする。
 多分、ビールほどもないだろう。
 白く濁っていたのは、漉さずに上澄みを取るためかもしれない。
 そういえば、チベットの寺院で赤ちゃんにこれを飲ませている光景を見たことがある。
 あれは本当に大丈夫だったのかしら。おおらかな国民性だから……いいのかな。

 真菜がチャンを飲むのを満足そうに見ていたラジエルが、竹で編んだ四角い篭を取り出す。
 中に入っているのは、ポン菓子とポップコーンに似た薄い餅を揚げたらしいものが二種類。
 ラジエルが長い指で一つとって、真菜の口元まで運ぶ。
 え、まさか。
 わざと気づかないふりで口を開けないでいると、ラジエルは深い緑色の眼を細めて、えも言われぬほどに優しく微笑んだ。
 辺りを払うような爽やかさと、甘美さを含んだその微笑はラジエル特有のもので、それにはどんな抵抗も無駄に思えた。
 半ば自棄になって口を開ける。
 ラジエルは、揚げ餅らしきものを食べさせてくれた。
 舌先をラジエルの指が、つるっと撫でていった気がする。
 平静を装いながら、ロボットみたいに口をぎこちなく動かす。
 顔が火を噴きそうなほど熱い。どっと冷汗が全身から滲み出た。
 まるで、いきなり風邪かインフルエンザに罹ったみたいだ。それとも、また高山病になったのだろうか。



「美味しいですか」
「……は、ははは、はい」
 どもりかたが激しくなって変な言い回しになっている。完全に口が強張っているせいだ。
「それはよかった」
 揚げ餅は、薄い塩味でパリッとして香ばしい……と思う。
 たぶん、塩味。きっと塩。
 コンソメとかじゃなくて、ただの塩。
 いや……。そんなのどうでもよくって、その……。

 華のようにラジエルは、艶やかに笑う。
 奇麗な顔。
 あらためて、見蕩れてしまう。
 艶やかな緑柱石の眸。
 あの眼に見られているだけで、眩暈がするようだ。
 現実と非現実が錯綜するというのは、こんな状況のことを言うのだろうか。
 地に足がつかない。
 まるで夢を見ているようだ。
 これほどにラジエルがそばにいて、身体の温かさを心臓の音を苦しいほどに感じる。ここがまるで別の世界みたいに現実離れしている。
 そういえば、夢の中で何かを食べても味なんかしないのと似ているかもしれない。

「どうぞ。これも召し上がってください」
 そう言ってラジエルが差し出してくれたのは、モウモウというチベット風ゆでギョーザ。
 できるだけ、ラジエルを見ないようにしながら、真菜は差し出された食事に集中しようとした。
 そうしなければ、食べ物の味など判らないし、もたもたしていて、また食べさせてもらうのも困る。
 ラジエルから見れば、真菜など鼻水垂らした子供と変わりないのだろう。緊張して食べられずにいるのもお見通しで、だから食べさせてくれたのに違いない。
 恥ずかしすぎる。
 とりあえず、木製の箸をとる。
 チベットでは、スプーンと箸を使うのが一般的なようだ。
 ゆで餃子のようなモウモウは、饅頭のように厚く粉っぽい皮。噛むと中から肉汁がじゅわっと溢れる。
 意外と、美味しい。
 チベット料理といえばトゥクパ――うどんみたいなまったく腰のない肉だしの麺だった。あるいはレストランで食べたのは中華料理のようなメニューばかりだった。

「いかがですか」
 ラジエルご自身は、まったく料理に手をつけないままそう言う。
「なんだか素朴な味です」
「塩味と唐辛子の辛さが中心的な単純な味ですから。チベット料理は、お口に合いませんか」
「そんなことないです。美味しい……です」
「男手でする料理ですから、かなり大雑把ですけどね」
 やっぱり男だったんだ。
 なんとなくホッしたような、かえってドキドキしてしまうような……複雑な気分が渦巻いている。

「こんなお料理が頂けるなら、わたしもラジエルのお弟子になろうかな」
 お愛想が半分と、本音が半分。
 本当は味も判らないほど緊張している。何か言わないと気づまりだった。
 ラジエルは眼を細めて、また真菜の頭に手を置く。大きな手のひらで撫でられると、嬉しいような、子ども扱いされているのが恥ずかしいような。
 見かけこそ若いがラジエルは、村人から聞いた話から想像すると、かなりの年齢のはずだ。
「ラジエルさまはチベットの方ですか。デヴァドゥルガくんも肌の色も白いし」
「知りたいですか?」
「あ、……あの、ごめんなさい。……詮索するつもりじゃ……」
 真菜は口ごもった。
 所詮は行きずりの旅行者だ。覚悟もないくせに、深く立ち入るべきではないのだ。

 軍事制圧。
 肉体的または性的な、ありとあらゆる差別と虐待。
 迫害は大人だけではなく子供たちにさえ向けられる。
 宗教的弾圧を加え、文化的または教育の権利を認められない。
 そんなこと、真菜はこの国へ来るまでまったく知らなかった。
 今、この瞬間にも、映画やネットの動画で観ていたことが、それは現実に起きている。
 旅行者には隠されているが裁判なしの死刑など日常的なことだと知った。チベット人は、その話題を外国人にしただけで、拘束され惨い拷問を加えられる。

 平和ボケした日本人……そう、自分のことを実感するのは、こんな時だ。
 何も知らない。
 日本人だけではない。多くの中国人にさえそうなのだろう。漢民族はチベットに豊かさをもたらしたのだと信じている。
 報道は、必ずしも真実を伝えない。

 知らないことは、ある意味、罪なのかもしれない。


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