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ラジエルの書 作者:庚 真守
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御使いの手

 エベレストは、ネパール側からよりも、チベットから見るほうが美しいと真菜は思う。
 あまりこちらから登る人は少ないそうだからその山は、なおさら神々しく見えるのかもしれない。
 これが秘境という光景なのだろうか。
 いっそう間近に迫る山々。頂上からは幾筋ものヒマラヤ襞が走っているのが見えた。頂上の稜線はまるでガラスのように輝いている。
 ときおり見かける仏塔(チョルテン)からは、伝統的な祈祷旗(タルチョ)が連なり谷間からの風にはためいていた。
 山岳部の遠征隊は、標高八千メートルを超える山々を超えてなおも先に進む。
 真菜は、途中のベースキャンプで彼らを待つ予定である。
 川の中や、切り立った崖、緊張の中をひたすら歩くだけの時間。そんな場所でさえ、地元の人々は子供や、老人でさえ通る道なのだ。

 それでも肉体的、精神的に相当参っていたのかもしれない。風邪のひきはじめのようなだるさと寒気を感じた。
 その日はテントではななく、村の宿をとった。土を突き固めてできた家で家畜の臭いが鼻につく。
 木製のベッドの上にシェラフを広げ横になる。緊張が解けたせいだろうか。
 食事もせずにいつの間にか眠ってしまった。

 深夜、寒気で目が覚め、持ってきた防寒着をすべて着込んだが、身体の震えがとまらない。
 咽喉から胸、腹部にかけて感じられる不快感。空っぽの胃から酸っぱい液体がこみあげてくる。
 風邪なのか。それとも高山病か。
 もしかしたら、その両方かもしれない。同じ部屋にいる部員たちは、泥のように眠っている。



 朦朧とした意識の中に滑り込んできたのが深い緑色の双眸だった。
 その眼は、深い湖水のような静けさを湛えている。
 電気もなく昼でも仄暗いまるで洞窟のよう部屋の中で、なぜか緑色の眸の色がはっきりと見える。優しい穏やかな白い面輪。
 なんて、奇麗なんだろう。
 ふと、ここが寒村の粗末な宿であることを忘れそうになった。
 宿の粗末な硬いベッドの脇に、降り立つ御使い。
 長く艶やかな白金の髪は、暗い室内でも輝くようだ。真菜は背中に翼を捜した。

 すごい……ホンモノの天使様だ……。

 大学にある聖堂のステンドグラスを思い出して、手を伸ばす。
 自分はここで死んで、天使が迎えに来てくれたのだと、そう信じた。
 差し出した真菜の手は、節くれだった手に包まれる。
 天使の手にしては、ずいぶん固い。こんな時なのにおかしくなった。



「死んだりなどしません。ただの高山病ですよ」
 優しい女性的な風貌からは、思いがけないほど低い男の声が返ってきた。
 あわてて手を引っ込めかけたが、その手は強い力で引き寄せる。手のひらに熱い吐息と柔らかな唇の感触があった。
 金色の天使は、真菜の手の手のひらにくちづけていたのだ。
 薬をもらって安静にしていると、高山病はあっけないほどあっさり治まった。
 治まらないのは、泣きたくなるような胸の疼きと狂おしさだけ……。
 愚かなことだと思う。
 真菜は、天使に恋をしていた。
 いや。
 恋愛というのは、違うかもしれない。
 もうずっと以前から知っていたような、そんな錯覚さえ覚えるほど、真菜は彼が慕わしく思えた。
 今まで知らなかった別の世界の人なのに、傍にいるだけで嬉しかった。
 まるで夢を見ているように。



 真菜が想像した“御使い”は年寄りだった。
 骨と皮ばかりに痩せて、日焼けしており眼鏡をかけている。
 映画のガンジーのような男を連想していたのかもしれない。
 普通ならば、出逢うことはないと思われた。
 それが今は、すぐ目の前にいて、完璧な日本語で話しかけてくる。少年の日本語があれほど流暢なのは、彼が教えたものかもしれない。
 決して人前には現れないという“御使い”を呼んで、真菜を助けてくれたのはデヴァドゥルガだった。

 幸いと言うべきか、
 それが不幸の始まりだったのか。
“御使い”は同じ想いを真菜に打ち明けてくれた。
 真菜は嬉しかった。
 まるで夢を見ているように……。
 しかし、ふと現実に立ち戻ると、普通の大学生には、“御使い”という存在はあまりにも遠すぎた。
 彼が時おり口にする“愛”というものが、真菜ひとりに対して向けられたものではなく、すべての人への博愛的なものであるのかもしれない。
 あるいは、この無知で幸せな日本人に今のチベットの現状を伝えたいだけだったのか。
 何度も繰り返し、注意されたことがある。
 チベットの人権問題、政治、宗教の話題は決してしてはならない。それらについてチベット人は、中国の公安により外国人と話すことを禁じられているからだ。
 今やチベットの文化は葬り去られようとしている。
 チベット侵攻以降、今も行われているというチベット民族浄化政策。諸外国はむろんのこと、中国国民でさえ、中国人民解放軍が武力でチベットを占領し虐殺したということを知らないのだろう。
 中国人ガイドは、口をそろえて言う。漢民族は、鉄道を引き、チベットにすばらしい豊かさをもたらしたのだと……。
 日本のマスメディアでさえ、中国の特定の思想あるいは世論へ誘導する意図的な報道だけを取り上げる。

 だが、少しでも役に立ちたいと真菜は思い始めていた。
 ただの旅行者にできることは少ない。
 せいぜいインドにあるチベット人権民主化センターへ、情報を提供することぐらいだ。
 動機は不純だった。
 チベット人のためではない。
 ただ、あの美しい人への想いがそうさせたにすぎなかった。


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