涼風高校の悲劇《The Tragedy in the Ryohu high school》(6/7)PDFで表示縦書き表示RDF


 副題は『ジュリアス・シーザー』からです。いよいよクライマックスです。ご来場の皆様には、まだお席を立たないように注意を喚起いたします。
涼風高校の悲劇《The Tragedy in the Ryohu high school》
作:Mr.logic



第六幕 終幕《必然の結果》


 虚ろで乾いた唸りを上げる夜風が、窓枠をガタガタと揺るがしていた。今や室内は、死体置き場のような静寂に包まれていた。
 高橋宣之は微動だにしない。額にうっすらと冷や汗が浮かばせ、身体に似合わぬ大きな手を、広げては握るを繰り返している。ポケットに入ったままの右手は、中に入っている何かをまさぐるように動いていた。やがて、気を取り直したように笑みを浮かべる。
「驚いた、俺が殺したって本気で言っているのかい?」
 むしろ上機嫌とすら受け取れる声だった。しかし、その目は笑ってはおらず、冷ややかそのもので、真正面からクリスを見据える。
「ええ、当然ですとも」
 クリスは銀頭の握りの上に両手を重ねていた。依然として冷静な態度を保ち、稀少な昆虫を観察するような興味深げな眼差しで、相手の顔を眺めている。高橋はせせら笑った。
「君、記事をしっかり見たのかい? 由紀の死亡推定時刻は六時から七時の間−−確か、六時半ぐらいだ。俺はその時まだ、学校に着いていない。いや、家を出てさえいない。だから、俺があいつを殺すことは絶対にできないんだ−−警部さん、そうですよね」
 先程から奇妙な目で二人を見つめていた山城警部は、深々とうなずいた。
「そうとも。ご家族の方に確認して裏付けも取れておる。ついでに、通話記録も確認したが彼の証言通りだった」
「そうなれば」
 高橋は勝ち誇った顔で大きく胸を張った。
「俺が何もやってないことは明らかだ。ここまで証拠が揃っているんだ、ワーナーさん。その時間、俺が学校に居なかったことを認めるな?」
「ええ、認めますとも」
 クリスは深々とうなずいた。これまでにない穏やかな笑みを浮かべている。
「確かにその時間、あなたは学校に到着していませんね。それは証明されていて、偽りなく確実なことでしょう。しかし、当然です」
 途端に、血を凍りつかせんばかりの非人間的な悪魔の笑いに豹変する。
「その時、彼女は死亡していなかったのですから。あなたの行動は証明されています。しかし、あなたがその手でMiss.相沢を殺害し、この倉庫に吊し上げたことは紛れもない事実なのですよ」
 死の静寂。高橋は引きつった笑みのまま、無意識に左手を持ち上げ、額の汗を指先で拭っている。その目は用心深く輝いていた。次第に怒りの募る気配も表れだした。
「警部さん、こんな茶番劇をいつまでもやらせていいんですか」
 怒りを押し殺した低い声。クリスを睨みつけ、
「早く終わらせるべきですよ、こんなふざけた真似は。こんなことは絶対に許されない。侮辱もいいところだ」
「しかしね」
 山城警部はこめかみに指を当てながら、話に割り込んだ。
「法律上の義務として、君が告発された現場を見たからには、わしらも黙認するわけにはいかんからね」
 巡査部長が相槌を打つ。一同は少し離れて、逃げ場を塞ぐように、高橋の背後を半円形に取り囲んだ。立ち尽くす高橋は、気が気でない目つきで背後に並ぶ一同の顔を窺い、うつむいた。
「これは何かの間違いさ。俺が由紀を殺したなんてことが立証されるはずがないんだ。そんなことはあり得ないんだからな」
 握り締めた拳は恐怖と嫌悪感から小刻みに震え、両眼は大きく見開かれていた。真っ暗闇の倉庫にあって、瞳孔は針のごとく縮小していた。彼は顔面蒼白になっていた。クリスは黙したまま、蔑みと冷笑の混ざった視線を向けていた。
「さて、皆様」
 彼女は漆黒のカーテンを背景に、舞台上のマジシャンが客の目を引きつけるように大きく両腕を広げた。コートが悪魔の黒い翼のごとく翻る。
「これから犯行の順序を話します。なかなか愉快なことになると思いますよ……」
 彼女はわずかに口角を持ち上げ、冷酷な笑みを浮かべた。
「さて、最初にペテン師のアリバイを崩しますか……この部屋で、Miss.相沢がロープを手摺りからレール掛けのフックに掛け渡し、現在と同様に閉じられていた、このカーテン前で首吊りしていたのが発見された時、彼女の全身は大量の綿埃の塊にまみれていました。身体の前後、頭頂部から足の先まですべてです。そして床には、湿った泥が付着したサイズ一フィート、約三十・五センチほどの靴の跡がありました。それの跡は、奥まで進み−−カーテン前のものはすべて乾いていましたが−−引き返したことを示していました」
 クリスは伏し目がちに微笑した。後藤が声を上げる。
「靴の跡? それがどうしたんさ? それより、こんな場所で首を吊ったら、全身汚れて当たり前だろ」
 クリスは鋭い一瞥を投げかけ、
「では、今のあなたの服はどの程度汚れていますか?」
「ちょい待ち……」
 後藤は自らの姿を確認する。
 彼のズボンの裾や袖口、肩に灰色のザラザラした埃が付着している。しかし、その量はとてもわずかで、指先で摘む程度しかない。
「いや、そこまでは……」
「当然ですよ」
 クリスはズバリと言った。
「歩いた時に床から舞い上がる埃で、全身が埃にまみれるわけはないのです。それに綿埃なのですよ、床にあるとしたら砂埃です。そして、死体が床を転がされたとしたら、埃が積もっていることはあり得ません。さらに、カーテン前の足跡は乾いていた−−ここまでヒントがあるのに、なぜ判らないのです? 皆様はバカですか? 子供ですか? カーテンですよ、Miss.相沢はカーテンに包まれていたのです。カーテンが開いていたから陽が射し込み、窓の正面の床にあった足跡のみが乾いた−−至極、単純ではありませんか」
 高橋が身体をビクッと震わせ緊張した。顔こそ笑ったままだが、いまやその笑みの裏には、必死になって暗示をかけようとする意気込みのようなものが露骨に滲み出ていた。
 クリスは高橋と向かい合ったまま、ステッキで縦二メートル、横幅一メートル程度の黒いカーテンの内、右側のものを叩いた。厚みのあるカーテンが揺れ、埃が叩き出される。幾つかの塊が音もなく床に舞い落ちた。
「このカーテンの大きさならば、Miss.相沢くらいの身体は楽に包み込めるでしょう。かつて、クレオパトラ七世がシーザーに謁見した時のように、Miss.相沢の身体に巻きつけ、タッセルで留める。この時、彼女の身体をカーテンレール近くまで吊り上げることで、足がタッセルの辺りにきます。そうすれば、カーテン自体の厚みと垂れ具合もあって、彼女の身体のラインがほとんど見えなくなるのです」
「あっ!」
 美恵子がハッとした顔で、大きな声を上げた。彼女は興奮した様子で、
「だからクリスは、多村先輩と佐藤先輩に明かりを点けたか聞いたのね」
「そうです」
「ちょっと……待ってくれない?」
 佐藤が大きく目を見開き、緊張した声で尋ねた。その表情は何か不気味なものを目にした恐怖に彩られている。
「カーテンに包み込まれていたってことは……」
 そこで口をつぐんだ。クリスはうなずいた。
「あなたが倉庫に入った時、Miss.相沢はこのカーテンに包まれて吊り下げられていたのですよ」
 この一撃は佐藤を愕然とさせた。身じろぎをせずに立っているが、その顔は蒼白になっていた。
 クリスは観察者の目で佐藤の様子を窺っていた。しばらくして、ゆっくりと首を回して多村に向き直る。
「当然、Mr.多村の時も同様です」
 一切感情を込めない淡々とした口調だった。またしても沈黙。
「でもよ」
 やがて、多村が詰め寄るような言い方で叫んだ。力なく握り締めた両手がわなわなと震えている。
「どうしてそんなことをしなきゃなんねぇんだ」
「それを今からご説明いたします。
 では、なぜそのようなことを行ったのか。自殺に見せかけるだけならば、わたしの右手側にある手摺りに吊り下げればいいことです。しかも、わざわざ跳び箱をこの窓の前に引きずっているのです。なぜそのようなことまでしなければいけなかったのか? ヒントはこの黒いカーテンです」
「隠すためですか?」
 成本優香理が自信なさげに答える。クリスの琥珀色の瞳がキラッと輝いた。
「正解ですが、それだけではありません」
 一同は互いに顔を見合わせる。クリスは小馬鹿にするように口の端で笑い、カーテンを指差した。
「お分かりになりませんか? 一つは死体を隠すため。これについては後ほど説明しましょう。もう一つは−−これこそ、殺人者の主要な目的です−−遺体を暖め、死後硬直を早めることによって、死亡推定時刻を自らが学校に到着する以前にすることです」
「ちょっと待ちたまえ」
 山城警部が慌てて口を挟む。
「遺体が暖められれば、確かに死後硬直は早まる。しかし、ドクターは直腸温度も計ったんだぞ。ずっと暖められていたなら、死後硬直の度合いと体温の低下が異なり、そのことはすぐに判明したはずだ」
 クリスは困ったように肩をすくめた。「ですから、死体発見当時、カーテンは閉じられていたのです。そして、その時の室内温度はやや冷えていました。
 つまり、殺人者は死体が暖かいことが見破られないように、カーテンを閉じて日光を遮断し、わたしの右側のレール掛けに死体を吊したのです。そうすれば、放っておくだけで室温が死体の体温を低下させてくれます。この室温が低かった事実は覚えていてください」
 クリスは指を鳴らした。異常なほど冷静な眼差しを、高橋の面上にじっと注いでいる。高橋は笑みを絶やすまいとしていたが、大きく目を見開いたまま、不安げな息遣いを繰り返していた。いまや、尊敬される人物の姿はそこにはなく、追い詰められた獲物そのものだった。
「当然、普通の方ならこのことは知らなかったでしょう。しかし、幾人の方からお伺いした結果分かったことは−−殺人者自身言っておりましたが−−彼の親は医者です。そのうえ、様々な方の話を総合しますと、殺人者の親は息子である彼を医科大学へ進学させ、医者の道に進ませようと考えている。そして息子も−−金銭目的かは分かりませんが−−医者の道を志している……
 となれば、それ相応の家庭環境と教育を受けてきた者が、医学的知識を一切持ち合わせていないことは非常に考えがたいでしょう」
「ワーナーさん、ちょっと待ってくれ」
 高橋は大声で言った。声こそしわがれていたが、幾分気力と落ち着きを取り戻し、背筋を真っ直ぐ起こして正面のイギリス人を見据えている。笑顔を繕ってはいるが、時折、頬の辺りがヒクヒクと震えていた。
「君の説明を逆に考えれば、医学的知識があれば俺じゃなくてもできたってことじゃないか。それに、あくまでも君の言ったことは」
 彼は一同の視線を背中に受けながら、左から右へ腕を旋回させた。
「誰でも由紀を殺すことができたことを証明しただけだ。そんなことで俺を犯人にするのはおかしいんじゃないか? だいたい、俺は倉庫のキーは借りてないんだ」
 クリスは鼻先で笑った。
「クイーンできましたか、わたしならばポーンを使用しますがね……先に言っておきますが、わたしが証明した事柄は、誰でも殺人を行えたこと及び、室内が冷えていた事実から、後に−−早い時間だったでしょうが−−工作が行われたことを証明したにすぎません。反論の余地なく一方的にあなたを追い詰めては、面白くもなく、フェアでありませんからね……
 無論、鍵を返却した方法も分かっています。しかし、なかなか度胸がありますね。ま、あなたを絞首台に追い込む用意は万全です」
 クスクスと笑い、面白がるように床を突き鳴らした。
「Alors(アロール/さてと)、あなたはMiss.相沢を殺害後、鍵を返却するために職員室へ向かった。あなたは慌てながらも考えた……何とかしなければならない。どうすれば絞首台送りにならずにすむか……?
 そこであなたは何気なく立ち止まり、壁に掛けてあるホワイトボードを見て気づいた。同時に、ある出来事を思い出した。それを利用すれば、自らが絞首台の十三階段を登らずにすむうえ、憎き人物を絞首台へ送り込む、または破滅させることができる−−これはわたしの憶測ですが、それが原因でMiss.相沢を絞首したと思われます」
「その原因ってなんなの? ねぇ!」
 佐藤が咎めるような声で叫んだ。感情がひどく高ぶり、落ち着きを失いつつある。周囲が何とか宥めようと苦心していた。
 クリスは緩やかな弧を描く唇の下に人差し指を置き、涼しい顔で答えた。
「これからの説明をお聞きになるとよろしいでしょう……話を続けましょうか。
 殺人者は倉庫に引き返し、準備工作を行いました。 最初、首吊り結びでロープを首に固く結びつけ、重量を分散させるために手摺りを通し、フックに吊り下げて死体をわたしの右側のカーテンに包みました。これは、倉庫の左側に机や椅子が積み上げられて、そちら側からは近づきがたいからです。
 次に、棚と跳び箱を引き摺り、現在の状態にしました。当然、跳び箱を動かしたのは、カーテンに包んだ事実を隠匿し、自殺にカモフラージュするためです」
「じゃあさ、棚を動かしたのは?」
 賢治が尋ねた。
「棚を現在の状態に動かしたのは」
 クリスは、握りの上で指先を揺らしながら言った。「少しでもカーテンに目を引き付けられないようにするためです−−長居しがたい倉庫の奥へ行く方は少ないでしょうし、通常は光の入る窓に注目するでしょうからね。まさか、カーテンに死体が包まれているとは、誰も思わないでしょう。
 しかし、よく見れば、レールの上から出ているロープに気づいたかもしれません。
 そして、少なくとも十五分は要し、すべての準備工作と後始末を済ませ、ワードプロセッサーで二つの文章を−−おそらくこの部屋で−−タイプした後、印刷しました」
「どうして二つの文章なの?」
 美恵子が問いただした。
「一つは遺書に見せかける物なんでしょ? もう一つは?」
「後ほど説明します。しかし、このことは覚えておいてください。とにかく、もう一つのそれを使用すれば、自らの疑惑を逸らすことができたのです……」
 クリスは自らの言葉から思い出したように、床に落ちている絞首索と剣の四を見つめた。
「それから、殺人者は倉庫を出ていきました。この時、自らの荷物と死体を発見されないためにも、施錠をしていたはずです。
 さて、殺人者は急いで三学年の昇降口に行き、クラスメートであるMr.多村の靴を取り出しました。そして、そこの掃除用具入れからバケツを取り出して、運動場の砂と水を四対一程度の比率で混ぜ合わせた泥水を半分ほど入れた−−勿論、朝早かったため、生徒はあまり登校していなかったでしょう」
 警部は短く悪態をつくなり、辺り一面を手探りするような格好をしながら地団太を踏んだ。
「そうか。だから、靴の跡が室内にくっきりと残されていたんだな」
「係長、どういうことですか?」
「分からんか? 泥がついた靴で歩くにしても、徐々にその跡は薄れていくはずだ。しかし、わしらが外の階段で見つけた乾ききった足跡と違い、室内の足跡は鮮明に残っておった。つまり−−」
「それ以外にないでしょう」
 クリスが後を引き取った。
「その足跡はMr.多村に罪を被せるため、泥を靴に付着させて一つずつ残していったのです。
 補足させて頂くならば、靴のサイズは三十・五センチ、歩幅は七十六センチほどでした。そして、爪先側と比較すると、かかと部分は引き摺ったようになっていました。つまり、この二つの事実から導けることは−−?」
 山城警部が細い目を見開いた。
「彼より身長が低いやつが履いたのか」
「そうです。Mr.多村よりも身長が低く、かつ足が小さい方が履いたので、かかとを引き摺ってしまったのです。足が小さいと、爪先を奥へ押し込まなければなりませんからね。さらに、室内の足跡の歩幅がほぼ一定だったことから、倉庫に入る直前に泥を付けたと推定できます」
「しかし、まだ合点がいかんな」
 山城警部は、今一つピンとしないような顔をしている。クリスは嘆息した。
「では、さらに突き詰めましょう。誰が靴を履いたのか? それを特定する手段があります。歩幅です。今回の場合、歩幅がほぼ一定だったことから、殺人者は比較的落ち着いて行動したと考えて間違いありません。よって、歩幅は身長と〇・四五の積で導けます。
 さて、靴のサイズが三十・五センチなのはMr.多村です。しかし、歩幅は七十六センチ。これは身長約一七〇センチの方の歩幅に該当します。
 この時点で、身長一七〇センチから程遠い、Miss.佐藤とMiss.原田の可能性は消去されます。
 さて、鍵を借りた生徒の中で一七〇センチに近い人物は二名。しかし、Miss.宮原は」
 クリスはステッキの先端を宮原に向けた。
「詳細かつ正確な医学的知識を持っている可能性が低いうえにクラスが異なり、被害者の手帳の中身を詳しく知る立場ではありません−−被害者の性格から考えて、個人的な所持品の内容を見せびらかしたりはしないでしょうし、特にそれが自らの作品に関連するものであれば、尚更でしょう。
 この場合、考えられる動機は−−わたしはロマンチストではありませんが−−恋愛か嫉妬が一番の動機になるでしょう。すると、Miss.宮原が犯人である可能性は−−」
 唐突に宮原が大きく身を乗り出し、怒りからか顔を紅潮させた。
「なんであたしが恋愛−−いや、犯人になるの−−!」
「Peste(ペスト/うるさい)!」
 クリスはステッキで荒々しく床を叩いた。宮原は鋭い視線に射竦められる。クリスは静かな声で命じた。
「いいですか、最後まで聞きなさい。あなたが殺人者にされたくないのならば」 言ってから、油断ない横目で高橋を見やる。血の気の引いた青ざめた表情といい、見開かれた目といい、呆然と立ち尽くす高橋の顔は、余命幾ばくもない病人も同然だった。
 クリスは落ち着いた口調で続ける。
「とにかく、わたしの話についてくれば分かります。
 さて、わたしがMr.多村から聞いた話によると、『倉庫に行ったのは、机に入れてあった手紙で呼び出されたから』とのことでした。彼が登校したのは八時三十分、教室に到着した時間は四十分と見積もって間違いないと思われます。
 その時、殺人者は教室にいたはずです。死亡推定時刻を誤認させても、登校時の彼を見た誰かがカーテンのトリックに気づく可能性はあります。そのため、できるだけ素早く後始末をし、確固たるアリバイ作成のためにも、八時前には教室に入っていたと思われます。
 遅くとも、八時十分には教室にいました。その時間、Miss.原田が殺人者に、Miss.相沢が教室にいるか尋ねているのです」
 高橋はかすかに身じろぎした。瞼の辺りに赤みがさし、細めた目は虚ろさを帯びている。
「肝心の手紙に話しを戻します。Mr.多村が言うには、氏名の記されていなかった手紙の送り主は、Miss.相沢だと判断したそうです。理由は、日頃から手紙でやり取りをしていたからとのことでした」
 その時、佐藤の顔にサッと血が上り、険しい目つきで多村を見据えた。彼は何か言葉を発しようとしたが、口を噤み、目を逸らした。クリスは二人の様子をじっと窺いながら、念を押した。
「このことは極めて重要なので、覚えていてください。
 わたしはその手紙の内容について、詳細に尋ねました。
 すると、彼を呼び出した手紙は印刷したもので、発見したのはホームルーム終了後だったそうです−−もはや言うまでもありませんが、殺人者が印刷したもう一枚はこれです−−そして、彼は手紙を机に入れたまま、一限目終了後、倉庫に向かったのです。これは鍵を借りているので、間違いなく真実と考えてよろしいでしょう。
 やがて十分後、彼は教室に引き返してきました。そして、次の授業の準備をするつもりだったのか、机の中を探りました。ここで不思議なことが生じます。先刻まで入れてあったはずの手紙が消えていたのです。彼は手紙を処分していませんでした。何故そのような現象が生じたのか?
 答えは一つ、殺人者が机の中から手紙を持ち出したからです」
「それは分かったよ。うん、よく分かる」
 賢治が蒼白な顔でうなずきながら、
「でもさ、それのどこが不思議なんだい? 自分が危ないから手紙を持ち出したんだろ」
 クリスはステッキでトントンと突き鳴らした。嬉しげに眉を持ち上げる。かすかながら、口辺に微笑が浮かんでいた。
「分かりませんかね。Mr.多村と殺人者のクラスは三日前に席替えを行ったのですよ。殺人者は手紙を持ち出さなければならない。しかし、Mr.多村がいつ戻ってくるか分からないのに、素早く手紙を抜き取ることは、別のクラスの生徒ならば簡単にはできないでしょう−−少なくとも、Mr.多村が教室から出ていく姿を確認しなければならないのですから」
「そりゃ、おかしくないか?」
 一が首を傾げながら顎をひねり、さりげない異議を挟む。
「席替えは三日前だったんだから、調べる時間は充分あったぜ。だから、多村先輩の席は簡単に判ったはずだ」
 クリスは目を細めた。
「あなた、わたしの話を聞いていましたか? Mr.多村はMiss.相沢と手紙でやり取りしていた。しかし、もし誰かに−−それほど頻繁には行っていなかったと思われますが−−特にMiss.相沢の彼氏であるMr.高橋に見つかったら? 当然、二人は隠して行っていたに決まっています。手紙をどこで渡していたか? 二人は同じクラスです。不自然に思われない教室に決まっています。おそらく、机の中に放り込んでいたのでしょう。すると、その事実を知っている可能性がもっとも高い人物は誰です?−−同じクラスのMr.高橋以外にあり得ませんよ。他クラスの生徒が知るはずはありません。
 仮に二人のやり取りを知っていれば、傍目から見ても仲のいい恋人である彼に伝えたはずですから。それに、先に説明した計画的殺人ではないのです」
 山城警部が頭をかきむしった。
「つまり、高橋くんが罪を擦り付けようとしていた相手は−−」「Mr.多村です。彼の日頃の態度等から、警察に尋問されることは間違いないと見当をつけたのです。倉庫に入っていますし、足跡もありましたから、否定すれば彼の立場が悪くなるだけです。事実、その目論見は成功寸前でした」
 警部は眉間にしわを寄せ、嫌気がさしたような唸りを発した。
「つまり殺人者は、Mr.多村が否定しても否定しなくとも、絞首台か破滅が待ち受けるように、トラップにかけたのです」
 クリスは思案顔で続ける。
「鍵を返却する時は直接教師に渡すと疑われるため、学校長からキーロッカーの鍵を受け取り、自らの手で返却したと思われます−−返却時は何も記さなくともよろしいのです−−教師の目に付くように鍵を置いた可能性もありますが、返却されるかどうか確実性に欠けるので、使用されたか疑問です。
 鍵を返却した時刻は、九時四分以前でしょう。これはMiss.佐藤が九時四分に倉庫の鍵を借りていることから証明できます。おそらく、ホームルーム終了後の慌ただしい間に、急いで返却したと思われます。
 それ以前に死体を発見されると、もっとも簡単に彼女を呼び出せる人物に、疑惑が集中するからです。逆にそれ以後返却しておけば、誰かに発見されても鍵を借りたのはMiss.相沢だけですから、次に鍵を借りた人物が細工をしたと疑われるわけです−−Miss.佐藤が鍵を借りたことは、殺人者にとっても意外だったでしょうが」
 クリスは何かを握り潰すかのように右手を歪めた。
「そしてMiss.相沢の後に、二人が鍵を使用した事実から、鍵だけをキーホルダーから外し、取り替えられていないことが立証できます。すり替わっている間に誰か鍵を使用したら、それまでの計画すべてが瓦解するうえ、間違いなく怪しまれるでしょう。
 ここで誰がカーテンを閉ざしたのか予想がつきます。Mr.多村が室内に入った時も、カーテンは開いていた。つまり、二限目以降に誰かが倉庫に入ったのです。しかし、ノートに記された内容に従うと、死体が発見された四限目まで倉庫の鍵は誰も借りていないことになっています」
 高橋は両腕を力なく垂らしている。その顔はじっとりと汗ばみ、鈍く輝いていた。
「Miss.宮原が三限目の休憩時間に、一階の家庭科室の鍵を。Miss.原田が二限目の休憩時間後に、二階のパソコン室の鍵を。Mr.高橋が二限目の休憩時間に、四階の図書室の鍵を借りています。倉庫の位置は三階です。移動時間も加味して考察すると、最も簡単に鍵を使用できたのはMr.高橋です。非常階段から進めば誰かに見つかる可能性も低いでしょうし、その仕事はカーテンを閉ざすだけですから、大した時間も必要ありません……」
「でもさ」
 後藤が口を尖らせて、ボソボソと呟いた。
「結局、キーはどうやって持っていったんさ?」
「実に愚劣なトリックです」
 クリスはステッキを右手から左手に移し替え、汚いものを吐き出すように言った。
「二限目の休憩時間に図書室の鍵を借りる際、倉庫の鍵を一緒に取っただけです。で、倉庫の鍵は隠し持ち、図書室の鍵だけを見せつけて、ノートには、図書室の鍵とだけを記したのです。
 そうすれば、相手は図書室の鍵を一度見た先入観から、それしか借りていないと思い込んでしまう−−つまり、マジックの基本です−−調べるとしても、わざわざキーロッカーを開けるよりも、ノートを確認するでしょう」
「そんな単純なことなのか……」
「だから、Mr.多村を呼び出す時、一限目の休憩時間と限定したのです。これは殺人者にとって都合のいい時間だっただけでなく、室内温度が上昇し過ぎないためにも必要だったのです。室内温度が上昇し過ぎると、やはりカーテンのトリックが見破られる可能性があります。
 ここで、Miss.宮原の無実が証明できます。つまり、彼女が倉庫の鍵を借りたとすると、その時点で室温は高くなっており、他の足跡もある程度は乾燥していたはずです。しかし、それは明らかに矛盾しています。さらに、元々疑わしくない人物でありますから、自らを疑惑に追い込む証言は意味がなく、室内に工作する必要性もありません。
 よって、Miss.宮原が犯人である可能性は消去。同様に、Mr.後藤の可能性も消去。よって、残された人物は−−」
「俺はやっていない。どうしてそんなことになるんだ」
 高橋がか細く低い声で抗議した。クリスは口を引き結び、鋭い視線を浴びせた。「あなた、相当諦めが悪いですね。いい加減、素直に自供してはどうですか? お喋りは大変疲れるのですよ。しかし、あなた自身が処刑台送りになりたいのならば、ご自由にして頂いて結構ですがね」
 クリスは声を立てて笑う。一瞬、高橋の表情が強張った。
「ふざけるな!」
 彼は目に角を立てて怒号を上げる。正面に立つクリスを、真っ直ぐに指差した。
「俺が殺しただって? まったくバカげてる。そんなことは立証できるはずがないんだ。何も証明なんかできないんだ。俺が殺人者なんてあり得ないさ−−絶対に処刑台送りにできるもんか」
 その指先は震え、両眼は爛々と輝いている。
「では、処刑台送りの証拠を集めるまでです。皆様方の前であなたを告発したのですから、警察も動かざるを得ないでしょう」
 彼女は苛立った様子もなく、あっさりと言い放った。疲れたように天井を仰ぐと、正面に顔を戻した。
「長々と話しましたが、そろそろ結論を下しましょう。
 A.歩幅がほぼ一定の間隔で、その長さが約七十六センチだったことから、犯人は身長が約一七〇センチの人物。
 つまり−−Mr.多村、Miss.原田、Miss.佐藤は極端に身長がかけ離れているため、犯人ではあり得ません。よって、他の人物が犯人。
 B.室温とカーテン正面以外の足跡の乾燥具合から、カーテンは長くとも一時間ほどしか開かれていなかった。
 C.犯人はどの程度死体を暖めればいいのか分かっていた。
 カーテンを開いたことは、誰も学校へ到着していない時刻に死亡推定時刻をズラすのではなく、警察の捜査を特定の人物に集中させるためです。つまり犯人は、死亡推定時刻が警察に確認されると分かっていたのです−−逆説的ですが、これは医学知識に自信がなければ、行わなかったでしょう−−よって犯人は、医学的知識を有している可能性が高い。
 D.犯人は常に疑惑を向けられないよう、別人に疑惑を被せたりと、極めて慎重に行動及び工作を行っている。だから、鍵を使用する際、自然に取っているはずです。
 E.犯人は、Mr.多村とMiss.相沢のやり取りを知っている。知っていなければ、彼を倉庫へ誘い出そうとはしなかった。
 F.犯人は自らが容疑を受ける可能性が極めて高いと分かっていた。これはMr.多村に罪を被せようとしたことから明らかでしょう。
 勿論、警察の捜査を彼に集中させるためです。例え外部犯に見せかけても、友人関係等を警察が探れば、いずれは犯人自らに捜査は及びます。それを避けるため、犯人は外部犯に見せかけず、別人を絞首台に送り込む方を選択したのです。
 以上の事柄から結論。
 身長が約一七〇センチの人物で、真の殺害時刻である七時四十分後から、およそ一時間前後に鍵を借りた人物であり、被害者の趣味などを子細に知る人物であり、外部犯に見せかけるより、誰かに罪を着せる方が疑われない人物−−その人物が殺人者です。だから、時間が合致しないMiss.宮原、Mr.後藤は犯人ではあり得ません。よって、すべてに共通し、消去されなかった人物が殺人者です。
 つまり絞首台に登るべき殺人者は、Mr.高橋、あなたです」
 クリスは真っ直ぐに高橋を指差した。改めて放たれた『殺人者』という言葉が、対照的な二人の一挙手一投足を見守っていた一同の耳に、ハッキリと甦ってきていた。
 注目されている高橋は、視線を交えないようにしながら、一同の顔を見回した。
「でもよ、どうしてコイツは俺に罪を着せようと……」
 やがて、多村が口を開いた。未だに話しの内容を信じられないような目つきで、高橋の背中とクリスの顔を見比べている。
 クリスは指揮者がタクトを操るような仕草で、ステッキを宙に向けた。
「原因は手紙のことかもしれません。しかし、決定的な要因は、三日前の夕方の出来事ですよ、Mr.多村。あなたがスポーツ店へ行った時のことです……覚えていますか」
 横目で見やり、最後の言葉を意味あり気に強調した。多村は身を固くした。その時、クリス以外は気づいていなかったが、高橋が何かに思い当たったようにハッとした。
「あなたはその時、ある女子生徒と口論していました……隠しても無駄です、情報は入手しています」
 多村が反論する気配を示したので、クリスは先手を打った。
「わたしがその話を聞いた人物は、あなた方が口論している姿を見て、あなたとMiss.相沢だと思ったそうです。そして、あなたとある女性は、『一昨日の夕方はすぐに帰宅した』と弁明するかのように答えました。つまり」
「つまり?」
 原田がメガネを押し上げながら、オウム返しに尋ねる。
「二人はお互いを庇っているのです」
 クリスは静かに答えた。
「ところで、ある女性はMiss.相沢だと判断されたのですが、何事に対しても慎重に行動していた彼女が──通常の方でも同様でしょうが──かつての恋人と人目に付く行動をするはずはありません。
 つまり、その女性は別人に違いない。
 ですが、目撃者は口論をしていた人物を確認し、ハッキリと名指しできたことから考えて、女性の顔をまったく見なかったとは考えられません。そうでなければ、確実な判断を下せないでしょう。
 するとその女性は、Miss.相沢に身長、体格ともに似通って、顔立ちも類似しており、外見上同一にしか見えない人物に違いない。ならば、これらの条件に合致する女性は−−?」
「そうか、佐藤先輩か」
 賢治が呻きに近い声で言った。クリスはうなずいた。
「だから二人は、Miss.相沢が倉庫で死亡していた事実を聞き、驚くと同時に恐怖を感じたはずです。しかも、多数の生徒に知られていることですが、Mr.多村は昔付き合っていた。Miss.佐藤は非常に仲が悪かった。すると、動機も濃厚です。下手をすれば刑務所送りになるでしょう。だからこそ、お互いに口裏を合わせたのです」
「クリスさん、ちょっと待ってくれないか。その場合、佐藤先輩は利益が薄いじゃないか。それはどうして−−」
 賢治は言いかけたが、口を閉ざした。彼の脇腹を美恵子が肘で突っついていたからだ。
 クリスはすまし顔で、
「それは、ご本人方にお聞きするのがよろしいかと……とりあえず、お二人が親密な仲だった、としか答えようがありません」
 即座に、問い詰めるような一同の視線が、多村と佐藤の二人に移った。二人は周囲の目を気にした様子で、かすかな目配せを交わすと、恥じたような顔で、不承不承にうなずいた。
 瞬間、高橋は顔面蒼白になった。両手で顔を覆い、全身を震わせている。指の隙間からは、愕然とした表情が覗いていた。その目は多村と佐藤の二人に向けられていた。クリスは目を異様に細め、その様子に見入っている。
 やがて、他の連中も高橋の変化に気づき、視線を集中させた。
「殺人者が執拗にMr.多村へ罪を被せようとしていたのは、この経緯があったからです」
 クリスは取り澄ました顔で続けた。
「つまり、殺人者も二人の後ろ姿を見たからです。しかし、話し声は聞かなかった。そして、手紙のことも以前から知っていたに違いない。だから、Miss.相沢だと判断したのです。
 そして後日、人違いと知らずにそのことをMiss.相沢に質問したのです。彼女は、別の件で多少の後ろめたさを感じたでしょうが、当然その質問に否定します。その言葉に彼は激昂し、背後に回り−−そうですね。最後に愛の言葉は囁いたかもしれません−−彼女のネクタイを掴み、一気に絞首した。以上がつまらない事件のすべてです」
 夜空に浮かぶ月は、徐々に雲の後ろへ隠れていく。揺らめくカーテンの隙間から洩れていた蒼白な月明かりは薄らぎ、闇が室内を満たしていた。
 彼女の淡々とした語り口に、皆はうつむいたまま顔を上げようとはせず、室内は沈黙に包まれた。入り口から吹き込む冷たい夜風が、亡者の呻きのように虚しく響いている。
 その時、佐藤が短い悲鳴を上げた。
「動くな! 喉をかき切るぞ!」
 沈黙が破られた。一同に取り囲まれている中、高橋が左腕で佐藤を抱き竦め、彼女の喉にサバイバルナイフを押し当てている。佐藤は怯えた目に涙を滲ませていた。
「高橋くん、もうやめるんだ−−」
「うるさい! 俺の気持ちが分かるか!」
 高橋は最後まで言わせず、鋭く睨みつけた。
「人違いだったなんて……分からなかった。それなのに……いいか、動けばこいつが死ぬぞ!」
 彼は明らかに自暴自棄になっていた。絶え間なく周囲を見渡す瞳は、狂ったような色を帯びている。人質を取られていては誰一人として動けず、その場に立ちすくむだけだった。
 その時、彼の背中に流し目をくれていたクリスが言った。
「どうぞご自由に。早く喉を切り裂いて始末すればどうですか」
 その言葉に、高橋を含めた全員が反応した。信じがたいと言いたげな皆の表情が、跳び箱の傍らに佇む人物へ集中する。
 皆の注目を浴びるクリスは余裕の表情で、フェルト帽の影に見え隠れする口元には、薄ら笑いさえ浮かんでいた。
「ワーナーさん、挑発することはやめるんだ」
 しかし、クリスは山城警部の制止を一切無視し、高橋を嘲るようにゆっくりと足を踏み出す。入り口から吹き込む冷たい夜風が、彼女のコートを膨らませた。
「近づくな!」
 高橋は悲鳴にも似た甲高い声を張り上げ、自然と部屋の右隅に逃れた。
 張りつめた緊張感と静寂のみが支配する室内に、彼女の歩み寄る足音と、ステッキを突く音のみがこだましていた。
 今、クリスは口元に笑みを浮かべ、厳しく顎を引いている。漆黒の洋装を纏った姿は、背後のカーテンから浮かび出てきたようだった。細長い眉が、暗いヴェールに覆われた目に険しく迫り、じっと相手を見据える琥珀色の瞳が、鋭い輝きを放っていた。
「フランスでは一九八一年にギロチンが、我が国では三十八年前に絞首刑が廃止され、死刑は存在しなくなりました。しかし、幸いにも日本では死刑が残っています」
 佐藤は救助を訴えるかのごとく、小刻みに口唇を震わせていた。クリスは捕らわれたままの彼女を一瞥したが、その目に同情の色は一切なく、むしろ蔑みに近い色がハッキリと表れていた。
 彼女はゆっくりとした動作で高橋に面を戻す。そして、凄みと威圧感のある静かな声で言葉を継続した。
「わたしとしては、あなたがMiss.佐藤の喉を切り裂いて殺害してもまったく構いません。むしろ、その結果の方が嬉しいのですよ−−確実にあなたを絞首台へ追いやることができますからね」
 死刑執行人のような足取りで歩み寄り、ステッキでわざとらしく窓を指し示しながら、不敵な微笑を見せつける。
「本来は舞台に見合った芸術的な飛び降り自殺か、スマートにLa Veuve Rouge(ラ・ヴィーヴ・ルージュ/赤後家)−−ギロチンで首を始末していただきたいのですよ。残念ながら、フランスで死刑は廃止されましたがね……
 あなたがこれから授かる死は、それほど派手ではないでしょう。しかし、法律による正義がギロチンとご同様にあなたを絞首台に立たせ、首にロープをしっかりと巻きつけ、確実にあなたの首を始末してくれますよ。あなたがMiss.相沢の首を始末した時とご同様に……聞いていますか?」
 高橋は荒い息遣いを繰り返しつつ、向き合う相手を凝視している。感情を見せまいとしているが、怯えの色が顕著に表れていた。
 クリスは口元を不気味に歪めた。
「わたしが気づいていないと思いましたか? あなたの右のポケットにナイフが入っていることを……大変心外ですね。わたしはあなたのために、日本の法律を調べたのですよ……
 それによれば、死刑囚は執行命令が下された夜明け、牢獄から連れ出されて処刑台へ向かいます。そこで遺書を書き記した後、手慣れた床屋が首筋を剃ってくれるのですよ。長髪だと、あなたがMiss.相沢の首を通したような絞首索が上手く巻きつきませんからね……」
 誰一人として口を開こうとはしない。彼女は笑顔のまま、首にロープを巻きつける真似をした。
「そしてロープが首に巻かれ、結び目を耳の下に回す。最後に落とし戸に立つのですよ。すると、死刑執行人がスイッチを押して落とし戸が開かれて落ちる−−落ちるのですよ、お分かりでしょう? そうすれば、ロープが首を絞め上げ、サービスで首の骨をへし折ってくれますよ。
 今度はあなたが、Miss.相沢と同等かそれ以上の苦痛をじっくりと味わい、恋人を殺害したことを後悔しながら、死んでいくのです……」
 高橋の歯の根は合わず、ガチガチと鳴っていた。目を見開き、一切の血の気が失せた顔色は蒼白を通り越している。痙攣的に手足が震え、もはやその表情は紛れもない恐怖に歪んでいた。
 突然、クリスは逆袈裟に振り上げ、ステッキの握りでナイフを持っている手を強打した。
 高橋が悲鳴を上げてナイフを取り落とす。
 即座に佐藤の腕を掴んでグイッと引き寄せると、軽く身体を引き、ステッキで鋭い突きを繰り出して、高橋の胸部を突いた。
 相手はくぐもった呻きをあげてうずくまる。
 その隙を見逃さず、警察官二名が機敏に飛びかかり、すかさず武器を跳び箱のそばに弾いて、山城警部がその両手首をがっちり握って取り押さえた。
 瞬く間に、皆の前ですべてが終了した。やがて、舞い上がっていた埃がゆっくりと落ちてくる。クリスは帽子を目深にかぶり直し、一同に微笑を投げかけた。
「わたしはモンマルトルでフェンシングを修得していましてね、なかなかの腕だと自負しているのですが−−ああ、ムッシュー」
 山城警部が顔を上げた。隣では、巡査部長が警戒しながら慎重に、高橋の身体検査を行っている。
「彼の右の靴の中を見てください。Mr.多村の靴を履いた証が発見できますよ」
 山城警部は御手洗巡査部長に取り押さえさせ、右足の靴を脱がせて中を覗いた。即座に、山城警部の顔に険しい色が浮かび上がる。
「これは……三十・五センチ。多村くん、君の右の靴にはシールがあるかね」
 多村は促されるままに右足の靴を脱ぎ、しばらく中を探った。彼は無表情な顔を上げた。
「ありません」
 山城警部は乱れた髪を片手でかきむしり、惨めにうずくまる男子学生を一瞥する。
 高橋は完全に気力を失い、ひざまずきかけたような姿勢でうつ伏せに倒れていた。その口からは、荒い喘ぎ声が洩れていた。
 クリスは静かに歩み寄り、慇懃無礼な様子で高橋に一礼する。そしてひざまずき、近々と顔を寄せてにっこりと笑った。
「あなたのお陰でご家族は破滅ですね。明日にでもマスコミがなかなか面白い記事を記述してくれますよ……題するならば『男子学生、進学の邪魔になった恋人殺害』といったところでしょうか」
 高橋はサッと頭を上げた。徹底的に痛めつけられたせいか、抵抗する態度は失われ、泣きじゃくる大きな子供も同然だった。
「違うんだ! 進学とか関係ない。俺は殺すつもりじゃなかったんだ。本当にそんなつもりはなかったんだ……お願いだ、それだけは信じてくれ……」
 溢れ出た涙が頬を伝い、流れ落ちる。彼は土下座をするような格好で床に頭を垂れた。
 クリスは立ち上がり、彼の苦悶するさまを面白そうに眺めていた。
「なぜ犯罪者の証言を信じなければならないのです?」
 彼女は懇願の言葉をにべもなく切り捨てた。両眼の輝きがさらに強まり、口角が持ち上がる。
「さて、これからの裁判で被害者遺族からどのような恨みを言われるでしょうか? あなたの家は裕福ですから、金銭の力でもみ消すおつもりですか? 彼女を絞め殺した感覚や、死に顔を見た時の感想を、あなたが絞首刑になる前に是非とも教えていただけませんか?」
 クリスはやや前傾姿勢をとり、穏やかな笑みを浮かべて詰め寄った。暗黒の中、彼女の色白の肌は悪魔のような青白さを帯びていた。
 高橋は、彼女の悪魔的態度に再び震えだし、恐怖と苦痛に顔を歪ませ、ついに泣き崩れた。
 重苦しい空気の立ち込める中、悲痛に満ちた慟哭と激しく喘ぐ息遣いのみが、闇に包まれた狭い室内を支配していた。虚しい運命の悪戯である悲劇の余韻を残し、気を滅入らせる雰囲気はさらに深まっていく。誰も口を開こうとはしなかった。
 その時、泣き声に混じり、低く陽気なメロディーが流れ出した。うずくまったままの高橋を除く一同は、不気味さに慄然とした顔をゆっくりと上げ、メロディーの方向にぎこちなく振り仰いだ。
 クリスが満足感に輝いた表情で、泣き崩れる高橋宣之を見下ろし、朗らかなハミングを歌っていたのだった。


 皆様は論理的かつ完璧に犯人を指弾することができましたか?











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