第二幕 舞台準備《殺人をいつまでも隠し通すことはできぬ》
今年で四十三になる警視庁捜査一課の山城聖一警部は、最近の社会情勢を気にしたせいもあって、早くに涼風高校に到着していた。
上唇に沿って生えている口ひげが、百六十五センチの身長とやや突き出たお腹と相まって、一見すると、黒革の回転椅子に腰掛けるどこかの会社社長のような印象を与える。
彼は先刻、本館一階の校長室で学校長と教頭を交えて会談し、マスコミに対する姿勢等を話し終えたばかりだった。
彼は白髪が混じった髪をかきむしり、左腕の時計に目を落とした。時刻は午後二時十四分だった。
本館と別棟の間にある中庭から西に目を向ければ、屋根色が緑青の体育館がわずかに見える。今そこでは、全校集会の真っ最中だった。教員の誰かがマイクを使用して話す声が、かすかながらも風に乗って中庭に運ばれてくる。
山城警部は中年太りの体を揺らしながら、灰色と茶色の煉瓦が三対一の割合で敷き詰められた感じのいい中庭を後ろ手を組んで、王者のような風格で歩き回っていた。
両校舎の窓の下の花壇には、濃いピンクの見るも鮮やかなツツジが花開いていた。本館と別棟をつなぐ渡り廊下が、両方の中央から延びて中庭を二等分している。
「あそこが……」
彼は立ち止まり、自殺した生徒が吊り下がる別棟三階の倉庫を見上げる。弱いとはいえ、空からの陽射しが直接目に入る。山城警部は腕を持ち上げ、直射日光を遮る。
倉庫の汚れている窓ガラスに反射し、本来は快晴なはずの青空は、灰色になって映写されていた。
山城警部は、何も見えないと分かっていながら目を留めていた。そのとき、
「係長!」
西の方角からの大声。山城警部はサッと振り仰ぐ。
御手洗京助巡査部長が駆け足でやって来た。年の頃は二十代半ば。平均的な身長の男だった。彼は山城警部の前で立ち止まり、背筋を伸ばし報告する。
「係長、鑑識班が到着しました」
「よし、ご苦労だ。校門二つは封鎖したか?」
「はい、両方に四名ずつ配置しています。マスコミの数に応じて増員するように指示しております」
「よろしい。自殺となるとマスコミはうるさいからな。現場に向かうぞ」
御手洗は威勢のいい返事をして、警部を別棟東側の非常階段に先導した。コンクリート製の非常階段に到着して、巡査部長は一段目に足をかけようとした。そのとき、警部は口ひげをハンカチで拭いながら、階段に足をかけようとした彼の襟をグイッと引っ張った。御手洗の首がギュッと絞まり、くぐもった声を吐き出した。巡査部長は咳き込みながら振り向いた。
「どうしましたか?」
山城警部は彼の方を振り向く仕草さえ見せずに、一段二十センチほどの階段をじっと見つめていた。
「御手洗くん、注意しろよ。足下を見たまえ」
促され視線を辿る。誰か踏みつけたため、かなり薄れてはいるが階段を登った大きな靴跡が、一段一段にうっすらとついていた。どれも完璧に乾ききっていて、ほとんど肌色に近い。
御手洗は目を落としたままのんきな口調で、
「土足の生徒がいるんですね。若い頃を思い出しますよ」
「バカ、周囲を見ろ!」
山城警部の声が静かな校庭に轟いた。
「正門右手側の運動場以外はレンガだろうが! その運動場もこの天気では乾いてるはずだ。第一、昨夜は雨が降っておらん。花壇に踏み入れた足跡ではない。花壇は」
山城警部は憤然としながら、花壇を指し示す。
「踏み荒らされておらんし、そこから続く足跡はない。さらに、花壇に使われておる土ではない。あとで周囲を調べろ。この足跡は踏みつけるな」
山城警部からの厳しい叱責を受けた御手洗は、気の抜けた声で答えた。二人は足跡に注意して三階まで登った。足跡は三階の引き戸前まで続いていた。
アルミ製の引き戸にはめ込まれたガラスから、すでに先行した鑑識班が倉庫から出入りする姿が見える。山城警部は慌てて戸を開く。廊下にひざまづいた。
「ちくしょう!」
鋭く毒づいた。廊下の靴跡は、ほかの足に踏みつけられすっかり消えていた。警部は大きくため息をつく。
「わしのミスだな」
二人はイエローテープを乗り越えて、倉庫に入った。
倉庫の奥では、女性司法警察員と壮年の男性医師が相沢由紀の遺体を床に降ろして、検死(検死は、検視と検案を含めた言い方だが、正式な用語ではない。便宜上使用する)を始めようとしていた。遺体の鎖骨部分の少し上辺りから、背面にかけて斜め上に走る紫色のロープの跡が生々しい。短めの髪から、足の先まで埃が付着していた。倉庫内の靴跡全ては、白いチョークで描かれた円で囲まれていた。
「ふむ……格闘した形跡はないようだな……。御手洗、自殺した女子生徒のデータを寄越せ……相沢由紀。高校三年生……相沢由紀? そういえば、美恵子から聞いたことあるな……そうだ、去年の詩の全国コンクールで金賞に輝いたんだ」
「知ってるんですか?」
「娘が言っていたんだ……わしも娘がいるから、この少女の親が知ったらと思うと……」
山城警部はうなだれて沈黙する。御手洗は気まずげにうつむいていた。
十五分ほどして、警部は医師から検案が終了したことを告げられ、右側から迂回して奥に進む。医師は咳払いしてから、公式的な説明を始める。
「そちらの司法警察員と入念に調べた結果、死因はロープで頚部圧迫したことによる窒息死と断定。死斑の退色具合、死後硬直が肘まで広がっていることから、死後七時間半から八時間半は経っていると思われる、以上」
「ということは……」
御手洗巡査部長が頬を指先でかきながら時計に目を落とす。
「午前六時から七時の間ですね」
「ドクター、ちょっとお伺いしますが」
医師の説明をじっと聞いていた山城警部が割り込んだ。医師はわずかに首を傾ける。
「首吊りで窒息死とは珍しいですな。急性脳貧血ではないのですか」
医師と司法警察員は同時に首を横に振った。司法警察員が説明する。
「いいえ、間違いなく窒息死です。死斑の強弱、その他を総合的に見た結果です」
警部は腕組みをして、右手の人差し指を小刻みに動かしている。
やがて、役目が終了した医師は帰っていった。
警部は、鑑識官がカバンの荷物を改めるのを興味深く眺めていた。学習机の一つに、次々と遺品が載せられていく。
「教科書類に、携帯電話……手帳に鏡、くしとリップにアクセサリー類……カバンはどこにあった?」
「はい。右側の棚、一番下の引き戸の中に入っておりました」
鑑識官は二つある棚の右手のものを指し示す。警部は奥にいるので、右側の棚は入り口方面から見て、左の棚になる。棚の各段には、いろいろな道具が詰まっている。
警部は埃っぽい部屋の空気に耐えかね、陽射しで熱くなった黒のカーテンを開き、鍵のかかっていた窓を開けた。外からの清々しい風が吹き込んでくる。向かいに見える本校舎の廊下を、大勢の生徒が歩いている。緊急全校集会が終了したらしい。
警部は窓枠に両手を掛け、頭を突き出して、左側に目を向けた。
別棟の最上階である四階まで通じる灰色のプラスチック製のパイプが地上まで伸びていた。警部は身を乗り出し、白い手袋をはめた手を伸ばしてみた。彼の指先は、パイプまで五十センチのところを泳いでいた。下に目を落とす。足をかける場所もない。地表までの高さは、少なくとも十二メートルはある。
「遺書を見せてくれ」
鑑識官が透明なビニールに二つに分けて入れた遺書を手渡す。警部は両方を受け取った。最初に、ワープロかパソコンで遺書と印刷してあるコピー用紙を見る。
「どれ……『遺書』か。これだけは印刷か、珍しい。鑑識官、元はどうなっていた?」
「はい。跳び箱の上に、その二枚の紙が載せられていました。印刷してある方で、もう一枚の本文が記された紙を包んでおりました」
警部は、肉筆で本文を記した手帳の一ページを破り取ったらしい紙に目を落とす。
以下、賢明なる読者諸君のため、内容を記す。
『何故、人は無限の悲しみの中、嘆き苦しみ生きなければならないのでしょうか?
花は散り、木々は枯れ果て、空は淀み、大地は悲鳴を上げる。この耐えがたく辛い世の中で、輝く活路は見あたりません。
ああ、神よ! あなたのおわす永遠なる楽園にわたしを導いてください!』
「ふむ……痛々しいな。まったく」
警部は鑑識官に突き返した。遺体はシートに包まれ、担架に乗せられて運ばれていく。御手洗巡査部長が指示を仰ぎにやってくる。
「係長、遺体を収容しますが。……結局、どちらでしょうか」
「ふむ。不審な点がないわけではないが、今のところは自殺と見るのが自然のようだ。筆跡を鑑定する必要はあるが、遺書は肉筆であるしな。すぐに結果はでるだろう。あとはだ、携帯電話の通話記録を調べることだな。よし、職員室に向かうぞ」
警部は後のことを部下に任せ、御手洗巡査部長と共に倉庫を出た。
二年B組の教室。そのベランダ側の最後尾の席に腰を落ち着けるイギリスからやってきた女子生徒は、優雅な仕草でサンドイッチをつまみ、口に運んでいた。賢治が自身の席から立ち上がり、クリスに歩み寄った。ほかの生徒は数時間前の彼女の発言のせいか。興味深げに、しかし遠巻きに眺めている。
「えっと、ワーナーさん」
賢治は少し戸惑い気味に言った。
「クリスで構いませんよ」
クリスは、サンドイッチの入っていたビニールの袋を捨てた。両手をパンパンとはたいて、無表情な顔を向ける。
「日本語、話せるんだよね」
「Yes」
北欧系の美しく整った顔が、見下ろす姿勢をとる賢治の視線を真っ向から受け止めていた。賢治は納得するように深くうなずいた。
「そうか。じゃあ聞くけど、警察が何も発表していないのに、勝手に殺人とか言って不安を招くことはやめてくれないか」
「Haw come?」
クリスはわずかに首を傾けて訊ねた。その言葉の意味を理解した賢治は、一瞬口をつぐんだ。慎重に言葉を選びながら説明する。
「ほかの人が悲しんでいるときに、適当な考えでショッキングなことを言うのはよくないんだよ」
「わたしは適当なことを言ってませんよ」
「遺書もあったし、明らかに自殺じゃないか」
彼は上擦る声で叫ぶように言った。
「Non,non(ノン・ノン/いいえ)」
クリスは目を閉じ、立てた人差し指をメトロノームのように左右に動かす。
「Becose、はっきりとした大きな足跡があったからです。Mr.瀬山、あなたも見たでしょう?」
賢治は冷静な顔つきになり、しばらく黙ってから答えた。
「ああ、見たよ」
クリスは軽く目を伏せ、組み合わせた両手を机の上に置いた。
「あの大きな靴跡は少し湿っていました。特に木製の床ですからね。まあ、カーテン前の足跡は完全に乾いてましたが。ところで、靴跡をつけるとすればその土はどこのものなのでしょう?」
「花壇の土じゃないのか?」
彼女は黙って首を振る。
「それならば、もっと湿っていていいのでは? 色も違いますが。あの靴跡は非常にはっきりと残っていました。花壇の土ならば粘着性が高いので、引き返す靴跡はほとんど残らなかったはずです」
賢治は大きく目を見開き、再び細めた。彼女の話に感心し、いつの間にか椅子に座って話に聴き入っていた。クリスは瞬きする目と言葉を放つ口以外は微動だにしなかった。
「続けます。なぜ棚が動かされていたのか?」
「あの棚、動かされていたのか?」
驚愕の声を上げる。
「Oui(ウィ/はい)。床の埃がとれていました」
クリスは静かに続けた。
「普通、自殺者は未遂になることを避けますが、何故か黒いカーテンという非常に目立つ場所でした。首を吊った姿を見られたくないために動かしたのでしょうか? あり得ません。あの二つの棚は、各段に様々なものが載せてあったのです。そのようなことをするなら、ロープをかけ渡してあった上のバーでhanging(首吊り)すればよいのです。身長が5feet(約一五二センチ)の彼女がぶら下がるには、十分すぎます。そして、重要なポイントは」
「重要なポイントは?」
賢治は身を前に乗り出し、真剣な表情で繰り返した。いつの間にか彼女の話を皆が聞き入っていた。クリスはやや上目遣いに、賢治に視線を投げかける。
「死体が見つかった状況は? 一番重要かつ、誰でも分かることですよ」
「えっ?」
意表を突かれて、賢治は面食らった顔をしたが、記憶の糸を辿り始める。
「あの、クリスさん」
優香理が小さな声で、おずおずと遠慮がちに挙手する。全員の目がそちらに向く。クリスは何も言わずに視線を向け、先を促した。優香理はうなずいて、口を開く。
「鍵が掛かっていたからですね」
誰かが『あっ!』と驚きの声を漏らした。クリスは優香理を指で指し示しながら、
「Yes,that's right(そう、正解です)」
「つまり、あの部屋は……」
賢治は頭を抱え、悩ましげにうめいた。クリスがあとを引き取る。
「出入り口の戸には鍵が掛かっていた。しかし、彼女は首を吊っていた。だから、彼女が職員室に鍵を戻すことは出来なかったわけです。In short−−『Looked room』。日本語で言えば、密室状態だった、というわけです」 |