「奥様は思い出を失くしてしまう病気に掛かってらっしゃいます」
思い出を失くす?
医者の言ってる意味がよく分らなかった。
隣に座っている妻も私もどう反応すればいいのか分らずポカンとしている。
ただ病名を告げた医者だけが神妙そうに眉間に皺をよせていた。
医者の背後にある窓から差し込む陽の光が妻の横顔を照らしていた。
妻の顔の輪郭がまばゆい日差しに溶けて、ぼやけていた。
妻の様子がおかしいと思ったのは一月ほど前の出来事がきっかけであった。
しかし今になって考えてみれば以前から彼女は何らかのサインを発していたような気もする。
仕事を言い訳に家庭も妻も省みず、他の女との浮気にかまけていた私は彼女に対してあまりに無関心すぎた。それも彼女の病状を悪化させることになった原因の一つに違いない。
大体、昨日今日で掛かるタイプの病気ではないのだ。こういった病気は何ヶ月も、あるいは何年もの間に蓄積されたものが澱のように溜まって、そして気がついた時にはとりかえしのつかない状態に陥ってしまう……。
妻が送り続けていたであろうサインを、私は煩わしさから見ないフリして今まで遣り過ごしてしまっていた。
しかし、その日はさすがの私も見過ごすことが出来なかった。
「あら、早かったのね」
いつもより早く帰った私はネクタイを緩めながら早速ビールを冷蔵庫から出してテーブルの前に腰掛けた。妻はまだ夕食の支度の最中だったようで揚げ物を作るピチパチという音が小気味良く響いていた。
こんなに早く帰ってくるのは何ヶ月ぶりだろう。
私が会社から帰ってきて夕食を取る時間には家族はすでに食べ終わってしまっていることが多く、妻が料理をしている姿を見るのは久しぶりだった。
私はぼんやりと料理する妻の後ろ姿を眺めた。仕事の疲れがビールの泡のようにシュワシュワと溶け出していくような心地よい疲労感が広がっていく。
「そうそう、タケルのことなんだけど」
「また何かやらかしたのか」
やっと仕事から解放されて気持ちよく飲んでいたところを中断させられた私は、思わずうんざりした声を上げた。
一人息子のタケルは中学に入ってから悪い仲間とつき合うようになり、妻はしょっちゅう学校やら警察やらに呼び出されていた。また何かしでかしたに違いない。
「コンビニで万引きしたって警察から連絡があってね」
ほら来た。私はテーブルに肘をついて大きく溜息をついた。
息子の愚行を聞くのも頭が痛いが、それよりもこれから妻の泣き言を聞かされると思うと気が重かった。
我が子の事で親が胸を痛めるのは当然としても妻のは少し度を越していた。息子に何かあるたびにこの世の終わりといわんばかりに嘆き悲しみ、いつまでもいつまでもクヨクヨクヨクヨ思い悩むのだ。
私の育て方が悪かったのかしら。大事に育てたつもりなのに。一人っこだからって構いすぎたのかしら。妻の嘆きは自分を責めるところから始まり、やがてその矛先は私に向けられる。ねえ、あなたもちょっとは考えてよ。男親じゃないと相談出来ないことだってあるでしょ。仕事が忙しいって、一体仕事と息子どっちが……。
家庭のこと全てを妻にまかせっきりにしていることに罪悪感はあるものの、疲れて帰ってきて辛気臭い顔を見せられたり愚痴られたりするのには正直うんざりしていた。
ちょっとは気持ちを切り替えて楽観的になれないのか。
妻が泣きついてきたらそう言ってやるつもりだった。
しかし……。
「今度やったら鑑別所行きだって言ってたわ。警察へ行ってたら晩御飯の買い物へ行くのがすっかり遅くなっちゃって、特売の品も売り切れちゃってたのよ」
息子が鑑別所送りになる直前だったっていうのに晩御飯の買い物、だと。
私は妻の口からそんな言葉が出るとは思いもよらず、その背中をただただ見つめた。その背中には何ら憂いは見られず、妻はタンタンタンとリズミカルに野菜を切っている。
私は戸惑いながらも妻の愚痴を刺激しないよう、サラリと受け流すように言った。
「全くタケルにも困ったもんだな。今度俺からも」
「はい、おまたせ」
妻は上機嫌で夕食のおかずを並べていった。私はそんな妻を怪訝に思いながらもそれ以上息子の話題には触れずに、目の前に置かれたフライを箸でつまんだ。
「あれっ、これ」
フライを齧った瞬間、私は軽く驚きの声を上げた。
「どうしたの? 味おかしかった?」
妻が出したのは牡蠣フライだった。目の前では同じフライを口に運ぶ妻がいる。
「あなた、牡蠣、嫌いだったかしら?」
「いや、俺よりもお前こそ、牡蠣なんか食べて大丈夫なのか」
妻は以前あたって以来、全く牡蠣が食べられなくなってしまっていた。以来、精神的なものかも知れないがどんなに鮮度の高い牡蠣を食べても必ずお腹を壊したり、ひどければジンマシンがでることさえある。
「随分ひどい目にあったじゃないか。まさか忘れたっていうんじゃ」
「ああ、あの時はほんと、辛かったわ。三日で三キロも痩せちゃって」
そう言いながらも妻はモクモクと牡蠣フライを口に運び続けた。牡蠣フライを食べ続ける妻の口元を見つめる私の気持ちは怪訝を通り越して不安へと変わった。
「それよりねえ、来月結婚記念日よ。今年はどこのレストランへ行く? 去年連れてってくれたあのお店、よかったわよねえ」
今度こそ自分の耳を疑った。
「お前、それ本気で言ってるのか」
「どうして、あのお店よかったじゃないの」
私は妻の顔色を伺った。しかしそこには何の棘も邪気も含まれてはいない。
私は不安の上に恐れすら抱きながら去年の結婚記念日を思い出した。
「だってお前、あの店はさ」
妻を連れていったレストランは過去に浮気相手と何度か行ったことのある店だった。結婚記念日のことなどすっかり忘れていた私は他の店も思いつかず、気は進まなかったが妻をその店に連れて行ったのだ。
そこでついうっかり「前より味落ちたな」と口をすべらせてしまい、妻をカンカンに怒らせてしまった。妻はすごい剣幕で「二度とこの店には来ない」といって席を立ってしまって……。
「そんな事もあったわね。でもいいじゃない。あのお店、味も雰囲気もよかったもの」
忘れていたわけではない。覚えているのに妻は平然とした様子でそう言い放った。
過去の嫌な思い出をまるで他人事のように……。
私はその時初めて妻の身に起こっている異変の重大さに気がついた。
「思い出を失くすっていうのは、どういう意味ですか。記憶を失ってしまうということでしょうか」
私の問いに医者はすぐさま「そうではありません」と答えた。
「では、一体どういうことなんですか。記憶は残っていて思い出だけ失くしてしまうなんて」
思い出だけ失くしてしまう? 私も妻も訳が分らなかった。
しかし医者の説明もまた曖昧なものだった。医者は悩ましげに眉間に皺を寄せながら言った。
「それが、何と説明すればいいのか……そもそも思い出とは何なのか、その実体も分らなければ定義づけもなされていないわけですから。ただ奥様のような症状を言い表すのに他に的確な言葉が見当たらないので」
便宜上、思い出喪失と呼んでいるわけか。私は呆れとも落胆ともつかない溜息をついた。
「それで、日常生活に支障が出るようなことは」
「記憶を失くすわけではありませんから、特に生活に支障をきたすということはありません。ただ」
「ただ?」
医者は「いや」と目を逸らせて口をつぐんだ。
「とにかく様子を見るほかありません。もしかすると一時的なものなのかも知れない」
釈然としない思いを抱いたまま、私と妻は診察室を後にした。
医者の歯切れの悪い診断に一抹の不安を覚えながらも、特に問題もなく日一日と過ぎていった。
しかし、むしろ妻は以前より明るく朗らかになっていた。あれこれ思い悩む悪い癖が全くなくなったのだ。
思えば妻は今まで、実に不幸な人生を送ってきていた。聞いたところによると母親を幼い頃に亡くし、遊びたいさかりに家のことを全て自分でやらなければならなかったそうだ。父親はというと酒癖が悪く、酔っては妻を殴りつけたという。やがて父親は家に水商売の女を連れ込んで一緒に暮らしていたのだが、この女からも妻はひどい虐待を受けたという。髪をメチャクチャに切られたり煙草の火を押付けられたり……ついに見かねた近所の人が福祉事務所に連絡してやっと福祉施設に保護されたのだが、そこでの生活だって決して楽ではなかっただろう。
そんな辛い過去が蘇るのか妻は時折ブルッと身体を震わせて、自分の身体を両手で掻き抱いたりすることがあった。その姿はまるで過去の悪夢に今だ苛まれているように私には見えた。
そして私と結婚して、やっと作った自分の家族はてんでバラバラ。夫は家庭の事は放ったらかしで浮気はするし、息子は不良で問題ばかり起こしている。
妻にとって、思い出なんてない方が幸せなんじゃないだろうか。
妻の屈託のない笑顔を見ていて、私はそんな風にすら思えてきた。
そんなある日、妻のもとに同窓会の案内がやってきた。
「同級生と思い出話でもすれば、お前の病気も治るんじゃないか」
私はそんな軽口を叩いた。
「いやあね、病気だなんて」
妻は私の軽口をそしりながらも笑顔を浮かべた。
妻の病気に対して私も、そして妻も、すでに何の不安も抱いてはいなかった。妻の病気が発覚してからすでに一ヶ月以上が経っていたが全て今まで通り、いや今まで以上に平和な生活は続いていた。
妻にとってはこの病気に掛かって正解だったのだ。なにしろ妻が今まで抱え込んできた悲しみや苦痛を取り除いてくれたのだから……その考えはほとんど確信に近かった。
「じゃあ、行ってくるわね。晩御飯のおかずはレンジの中に入ってるから」
同窓会当日、いつもより少し華やかないでたちの妻は晴れやかな笑顔を残して家を出た。
「おう、楽しんでこいよ」
私は呑気に手を振りながらそんな妻を見送った。
それが、妻の最後の笑顔になるとも知らずに……。
「どうした、具合でも悪いのか」
同窓会から帰ってくるなりロクに口もきかずに布団に包まってしまった妻に私は声を掛けた。慣れないお酒を飲みすぎたせいかと初めは思っていたが、どうもそうではないようだ。
「何か、嫌なことでもあったのか」
妻は何も言わずに身体を両手でしっかりと掻き抱いていた。
辛いことを思い出した時にやる、あの仕草だ。
少し心配になって私は妻の顔をのぞき込んだ。
「何か、嫌なことでも思い出したのか。高校時代の同級生と出会って」
「何も、」
妻はそう言いかけて一瞬、口をつぐむとブルッと身体を震わせた。
「何も思い出さなかった」
「思い出さなかったって……まさかお前、記憶まで」
私は妻の病気が進行して記憶まで失いつつあるのではないかと不安になった。しかし妻は私の勘違いをブルブルと激しく首を振りながら否定した。
「覚えてる、覚えてるのよ。皆が話していること、全部覚えているの。でも何も感じないの。何がおもしろいのか分らない。去年亡くなった先生のこと思い出しても、私だけ涙が出ない。皆が話しているどんな思い出話にも、何一つも共感できないっ」
妻は苛立っていた。そうしてふと動きを止めると宙を見つめた。
「懐かしい……その感情が分らない」
そう呟いた妻の横顔には深い孤独の色が浮かんでいた。
「やはりそうでしたか」
医者は大きく溜息をついた。
「この病気に掛かった患者のほとんどは鬱状態に陥ってしまいます。これからは鬱の治療も進めていかなければなりませんが、その原因を取り除かないことには根本的な解決には……」
「一体どうすれば、妻の思い出が蘇るんですか。この病気は一生、治らないんですか」
藁にでもすがりつきたい思いの私に対して、医者は力なげに首を振った。
「治った人がいないというわけではないんです。僅かですが思い出がすっかり元に戻った人もいます。ただ、何が作用したのか分らないんです。一体何がきっかけで元に戻ったのか、それさえ分れば……」
「このまま治らなければ、妻はどうなるんです」
私の問いに医者は顔を上げ一度口を開きかけて躊躇し、そして言葉を選びなおすようにして言った。
「鬱状態が悪化する、としか言えません」
結局、医者からもサジを投げられた。私はもどかしさと歯がゆさを感じながら乱暴に席を立った。
医者が言った通り、妻は日に日に生きる気力をなくしていった。
私は結婚前に一緒に撮った写真やら息子の運動会のビデオなどを出してきては妻に見せてやったりした。しかしいずれも妻の感情を揺さぶりはしなかった。むしろ何も感じない自分を再確認させることによって彼女を嘆かせるだけであった。
それなら新しい思い出を作ってやろうと考えた。鬱で無気力な妻に旅行などの遠出は無理だったが、食事を作ってやったり散歩に連れ出してやったり、当たり前の日常生活を楽しく送れるように気遣った。妻の様子に息子もさすがに胸を痛めたのか、学校が終わるとすぐに帰宅して家の手伝いをしたり、妻と一緒に過ごしてくれるようになった。
それでも妻の容態は悪くなる一方だった。私と息子は様々なアプローチを試みたがどれもこれも妻の病気にいい効果を与えはしなかった。
当たり前だ。私も息子も、思い出を失うということがどういう事なのか全く理解していなかったのだから。
そもそも思い出とは一体何なのか?
それすらも分らない私達に妻の病気を治すことなど到底、出来るはずもなかった。
「もう、いいのよ」
ある夕食の席で妻がカランと箸を落とした。
何とか食卓を明るくしようと息子が学校での失敗談を身振りを加えながらおもしろおかしく話していたところだった。息子は両手を上げたままの姿勢で、私は妻の皿におかずを取り分けていた状態のまま固まった。
「いくら私に楽しい思いをさせてくれようとしても無駄になってしまうだけなんだもの」
妻はテーブルの上で手を重ね合わせて静かにそう呟いた。
「母さん、何言ってんだよ。あきらめちゃ……」
言いかけた息子を私は手で制した。妻が俯いたまま口を開く。
「思い出が残らない毎日は虚しい。本当に虚しい。私、この病気になって自分が、人が何のために生きてるのか、分ったような気がする」
妻の頬に涙が一筋、伝い落ちた。
一筋、また一筋と。
次から次へと涙は伝い落ちて、妻の重ねあわされた手の甲へと落ちてゆく。
「思い出すためなの。過去の感動を追体験するためなの。過去の出来事を思い出して自分の中で湧き起こる感情が移り変わっていくのを感じるためなの。同じ経験をした人と一つの感情を共有するためなの」
妻は泣き濡れた顔を上げて、それでもしっかりとした口調でそう言った。
私と息子は身動ぎひとつ出来ずにただ、妻の言葉に聞き入った。
妻が思い出を失くしていかに苦しんでいたのか。
やっと、やっと分ったような気がした。
「傷つけられたり、苛まれたりすることもあるけれど、でもやっぱり……思い出は美しいもの」
もう疲れた。妻はそう言って席を立った。
そしてその翌日、妻は浴室で手首を切った。
病院へ行く途中にある花屋に私は立ち寄った。妻が何の花が好きだったかなんて知るはずもなく、いつも店頭に並んでいる中から適当に見繕って花束を作ってもらう。
「そのカサブランカ、今日入ったばかりですよ」
「ああ、じゃあそれと、適当に他の花を混ぜてもらえるかな」
大きな白いユリの花は二本束ねただけでも結構なボリュームだった。店員から花束を受け取るとむせ返るようなユリの匂いが漂ってくる。
病室に飾るにはちょっと香りが強すぎるかな……そんなことを思いながら私は妻が入院している病院へと向った。
自殺未遂をした妻は精神病院へ入院していた。
再度自殺する危険性があるとはいえ、気は進まなかった。入院なんかしてしまっては妻の病状はより治りにくくなってしまうんではないかという危惧もあった。
しかし、他に方法もなかった。私も息子も、妻の病気に対してあまりに無力だった。
病室に入るとすでに息子が来ていた。ベッドの傍らに座り妻の手を握り締めて何やら話しかけてやっている。妻はそんな我が子に気がつかないかのようにひたすら病室の白い天井を見つめていた。
「具合はどうだい。花を買ってきたよ」
話しかけても妻は無反応だった。思い出がないことを嘆くどころか、すでに死ぬ気力すら失ってしまった妻の頬はこけ、廃人のように見えた。
「やけにでっかい花だなあ」
息子が弱々しい笑みを浮かべながら私の方を振り返る。
「店員に勧められて買ったんだけど、ちょっと大きすぎたかな。あの花瓶に入るか……」
「その……匂い」
声に気づいた私と息子は驚いてベッドの方を振り向いた。
微かではあったが確かに妻の声であった。妻が自らの意思で声を発するなんて何日ぶりだろう。
妻は天井を向いたまま、何かをつかもうと手を伸ばしている。
その瞳には光が宿っていた。
喜びと驚きが入り混じった顔で口を開きかけた息子を制し、私はゆっくりゆっくりと、慎重に妻に語りかけた。
「匂い? これか。この花か」
私は恐る恐る妻に花束を手渡した。妻は花束を受け取ると胸にしっかりと抱え込み、そして香りを確かめるように白い大きなカサブランカへ顔をうずめた。
「この匂い、この花」
妻は息子の手を探るようにして握りかえした。息子は驚きの声を上げまいともう片方の手で自分の口を押さえた。
妻は握った息子の手を自分の鼻先へ近づける。
すっかり成長して日焼けした息子の手。
妻は大きく息を吸って我が子の手の匂いと胸に掻き抱いた花の香りを嗅いだ。
「この匂い、覚えてる。タケルが生まれた直後、あなたが持ってきてくれた」
ああ、そうだった。お産で頑張った妻にご苦労さんの意味を込めて、花束持って駆けつけたんだっけ……私の中でその時の光景がまるで昨日のことのように鮮やかに思い出された。
「花の香りが強すぎて頭がクラクラした。傍らからは生まれたばかりの赤ちゃんの匂いがして……人生で一番、幸せな瞬間だった」
「お前」
「母さん」
妻は私と息子の目を見て言った。
「思い出した。あの時の感動が、今、私の中で蘇った」
私と息子は妻の背中を抱えるようにして顔を妻に近づけた。
妻は何かを確かめるように鼻で私の頬を擦ったり、息子の髪の毛に顔をうずめたりした。
私も同じように妻の髪の毛に顔をうずめた。
胸の奥から熱い感情が次から次へと、湧きあがってくるのが感じられた。
そしてまた、新しい思い出が、生まれた。
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