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暗殺者と姫君
作:ばいばるす



第十八話 海泡の行方を語りつつ (6)


 
 「どうして……?」

 知らず疑問がこぼれた。
 目をしばたかせるシルヴィアに、薄青の瞳はくるくると回る。

 「私としては、君がもう少し耐えてくれると楽しかったんだけどね。なんだったらお話の方はもう少し進んでからにするかい?」

 上方から落ちてくる手から、シルヴィアは反射的に逃れた。
 それに興を感じたのか、三十台も大台にせまった半裸の男は、もう一度、二度と手を繰り出し、シルヴィアが卓の上で逃げまどう様を目を細めて鑑賞した。
 しかもどういう訳か卓の上に膝をかけてまで追ってくる。シルヴィアは後ずさった。本当にいったい何を考えているのか、やはり変態なのか。 
 不気味な緩慢さで追ってくる相手を、シルヴィアは睨みつけた。

 「そう、答えはそれだ。嫌なんだろう? 君は嫌がっている。さっきみたいに口付けられるのも、いじられるのも、抱かれるのも、本当はぜんぶ嫌だ。ついでに言うと君は私が嫌いだ。今はまだね。
 とにかく嫌いなのに、嫌なのに、その気持ちを殺して、あるいは取るに足らぬものとして切り落としていこうとしている。それではいけない。それでは駄目なんだ」

 シルヴィアは目をむいて、目の前の男が真実自分の知る人間なのかどうか確認する。
 この男は、相手が嫌がるから抱けないと言うような殊勝な男だったろうか? それにシルヴィアは嫌がるそぶりを見せた覚えはない。少なくとも最後になるまでは。
 自分で抱けと頼んだ手前、どんな風な抱かれ方をしても文句をいうつもりはなかった。むしろ優しくされるよりも辛くされた方が、気が楽だとすら考えていた。なぜならシルヴィアはこの男の手を利用して、自分自身の気持ちに決着をつけようとしていたのだから。

 「君がさっき嫌だといった理由……それが処女の恥じらいなのか、他に想う人間がいるのか、単に私が毛嫌いされているだけなのか、はたまた苛めに耐えかねただけなのか、そんな事は私は知らない。だけどねシルヴィア、そういう気持ちは大事にするべきなんだよ。自分の心の声を無視してはいけない。痛みを感じないふりをしては駄目だ」
 
 自嘲のような笑みを浮かべて続ける。

 「たしかに心を殺した人間は強いかもしれない。痛みを感じない人形になれば、嫌なことも嫌と思わなくなるだろう。だがシルヴィア、痛覚は人間にとって必要な感覚器官でもある。それは君を守り、生かす力を持っている」

 卓のへりまで追い詰められて、もう逃げ場所はなくなった。縮まった距離。光の下では明るかった空色の瞳が、加減によって光をすうように暗くなるのだとシルヴィアは知った。

 「世の中にはね、たまに先天的異常で痛覚を持たない人間が生まれることがあるんだけど、そういう人間はときどき化け物みたいな力を発揮することがある。なぜって常人が動けなくなる傷を負っても、痛みを感じない彼らは普段どおりに動けるのだから。どれだけ斬ろうと突こうと矢衾やぶすまになろうと、彼らの動きは少しも鈍らない。生体的に死を迎えるまで、活動をやめず動きつづける。つまり頭を胴から切り離されたり、出血多量が致死を超えたりするまでね。
 彼らは戦場で相手にするには怖い相手だろう。育てかたによっては最強の戦士となるかもしれない。いや戦士ではないな。むしろ最初から生還を想定しない刺客にこそ向いているかもしれない。
 だが、彼らは決して強い人間ではない。むしろ私達よりずっとか弱くて傷つきやすい人間たちなんだ。
 だって考えてもごらん。
 火の中に手を入れたとしても、彼らには熱いと感じて手を引っ込める感覚はない。どこかを傷つけて血を流しても、その出血の量の危険を痛みとして計ることは出来ない。屋根から転げ落ちても平気で立ち上がり、目に何かが入ったと、あやまって眼球を抉り出してしまうこともある。だが同情にはおよばない。見ているほうは痛いけど、本人にとっては痛くも痒くもないし、まったく辛くもない。ただ見えなくなるだけのこと。
 だから、そういう人間は足が折れようが半分とれようが、痛みにうずくまることはない。構造的に地を踏みしめられることが可能な限り、歩き続けてしまう。そして何が致死量を超えたのか自分でも分からないうち、ある日突然ぱたりと倒れて死んでしまうんだ。日常生活の、ほんの些細なことを原因としてね……それはとても怖いことだよ、シルヴィア」

 またもや伸ばされてくる手。
 背水の陣で尚も、後ずさりしたシルヴィアが卓から落ちかけると、腕を掴んで引き上げて、自分の前に置いた。
 
 「心も体と同じだ。自分の痛みに鈍感になった心は怖い。そして心は痛みを感じないふりをしている内に本当に痛まなくなってしまうものなんだ。そう、心の痛覚は後天的に失くしえる。
 そして痛みを覚えない心は、逆境においては常人をはるかに超える能力を発揮できたとしても、目の前にある笑顔を口角筋のしわぐらいにしか思えなくなる。温もりは温度に、優しい言葉はアルファベットの羅列に成り下がる。そしてきっと痛覚のない人間と同じくらいに些細なことで死ぬ」

 男は年増の婚約者の仮面をかぶりなおして、だからね、と語り口を変える。
 
 「我慢をするのは程ほどに、自分の痛みに耳を澄ませてあげなさい。痛かったら悲鳴を上げて、さっきのように私に苛められたなら嫌な顔をして嫌だと言って……」
 そのほうが私も楽しいしね、とうそぶいて続ける。 
 「襲われたなら抵抗して、それでも駄目だったら傷ついて泣きなさい。望まぬ男に抱かれなければならない時は心を殺すのでも別のことを考えるのでもなく、ちゃんと目の前の男や自分の運命を呪ってやって、機会があったら罵詈雑言でも浴びせかけてやるといい。そうでないと本当にイン・シァン妃のようになってしまうから」

 ああ、とシルヴィアはその声が『イン・シァン』と呼ぶ響きを聞いて思った。やはり本当にこの男は昔の一時期、母を望んだことがあったのかもしれない。あの紅あざみの時、庭園で語られた母への賛辞や憧憬のすべてが本音でなかったとしても。
 だとすればこの言葉は一体誰に向けられた、誰のための言葉なのか。
 シルヴィアはまた分からなくなった。分からないことは増えていくばかりで、人の気持ちはおろか自分自身の気持ちすら計りがたい。

 「痛かったり、悲しかったり、苦しかったりする感情にはね、ちゃんと一つ一つ意味があるんだよ。だからそれを、ないがしろにしては駄目だ。何を受け入れるにしても、ちゃんと心で感じてから受け入れなさい。
 痛かったら悲鳴を上げて、傷ついたならのたうちまわり、辛いなら涙を流しなさい。そうしてから傷口に薬を塗って、包帯を巻いて、傷口がふさがるのを待って立ち上がるといい。自分の痛みを見て見ぬふりをしてはいけない。でないと、それはいつか君自身を殺してしまう」

 「ですが……」
 シルヴィアは裸の膝に置いた両の手で拳をつくる。
 傷口が塞がるのを待っているのでは間に合わないこともある。薬をぬることや包帯をまくことを、待ってくれない運命もある。

 この男の言っていることはおそらく正しいのだろう。だが『私達』とこの男は言った。至言だ。痛みを感じる特権をもつ私達。傷をなおす痛みと時間を与えられた者たち。では『私達』ではない者は?
 先天的に痛覚を与えられなかった人間、後天的にそれを破壊されてしまった人間は? 足が折れても、血が流れても、転げ落ちても、立ち止まれずに歩き続ける人間の先は? 何をなくしたか自分でも気づかないうち、ある日突然ぱたりと倒れて死んでいくのか? 痛みを感じないから辛くはないだろうと言われて?

 それともこれは安全地帯からの感傷で、こうして感じる痛みもまたいつか塞がっていってしまう傷の一つに過ぎないのか。

 「君がいったい何をそんなに焦って、一刻も一秒も早く何者かになろうとしているのか、私には知るすべもないよ、シルヴィア」
 頭上でため息が落ちる。
 「だが何に成るにしても、あるいは成らされるのだとしても、ちゃんと痛みや喜びに耳を澄ませながら成りなさい。真実は時に残酷だし、神様はあてにならないし、私がいつも君の味方とは限らない……いや、君が私の味方とは限らないと言ったほうが正しいかな?」

 悪戯っぽい光が薄青の瞳をかすめていく。見透かすように。

 「いずれにせよ、何になるとしても今のうちに、たくさん悩んで迷って傷ついて、今しか経験できない痛みを堪能するといい。たとえこの先、目の前の選択肢がたった一つになってしまったとしても、それを自分の意志で選び取れるように。
 なに、まだ時間はたくさんある。さっきも言ったけど君はまだ公爵夫人ではないしね。最初からそんなに全力疾走しては、すぐに息切れしてしまうよ。何もそんなに生き急ぐように大人になる必要はない。誰しにも否応なしに大人にならされてしまう時が来るし、それは必ずしも心身が成熟するまで待ってくれるとは限らない……そう、成熟するまで待ってくれるとは」
  
 そう言って口端の笑みを濃くして、ためつがえすシルヴィアの裸身を見下ろす。ここで体を庇っては相手の術中のような気がして、シルヴィアは無心を貫いた。
 
 「だから私に抱いてくれなどと頼む必要はない。私は自分の好きなとき好きなように君を抱くし、その時は君が嫌がろうと泣き叫ぼうと、途中でやめてはあげない。場合によってはひどい抱き方をするかもしれない。だからそれまではせいぜい少女の時間を楽しむように……ああ、そういえば面と向かって言うのはまだだったね」

 男は乱れた上衣をさばくって懐から何かを取り出すと、シルヴィアの左手をさらって唇を押し付けてから、薬指にそれをめこんだ。

 「十七歳の誕生日おめでとう、私の小さな姫君」

 自分の指にはめれられたものをシルヴィアは見下ろす。年代を感じさせる古めかしい黒金の指輪。彫金や素材から良い品だと分かるが、と同時にこの男からもらうものとしては簡素で控えめな意匠だとも思った。

 「私としてはもう少し華やかなものを身に着けてほしいのだけれど、いちおう代々ダルタヴィッラの公爵夫人の受け継がれてきたものだそうだから君に渡しておくよ。とはいえ、やはり君の指にはだいぶ大きいか。しつらえなおしてから改めて渡すこととしようか」
 
 「いえ」 
 分からないまま、シルヴィアは首を振った。
 いまのところ自分の指には大きすぎる指輪を引き抜き、首にかかったままの銀の鎖を外してそこに通し、そしてかけ戻す。
 「今はまだこのままで。いずれ時を見て、私自身の手でしつらえ直します」











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