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暗殺者と姫君
作:ばいばるす



第十八章 海泡の行方を語りつつ (4)


 
「……シルヴィア」
 誰かが水底から名を呼ぶ。
「…シルヴィア……シルヴィア……」

 深い深い、水の底から。



 口の中を何かぬめって、つたっていた。海洋生物のように泳いでいる。王立文書館の長卓の前で、シルヴィアが挿絵の載った図鑑を眺めていると彼は肩越しに覗き込んできて言った。それは海蛇だと。それから『回遊する種類としない種類があって……』と口舌はいつものように長く果てしなく続くのだった。
 
 顎を何かが絡めといっている。動くことは許されていない。身じろぎするだけのことも許さず、強く知らしめるように押さえ込んできて、だが跡をつけないだけの打算と優しさが残されている。

 「シルヴィア?」

 男の舌が抜かれると、唾液がつたって口端を流れた。シルヴィアは水底から引き上げられて目を開ける。
 目の前の男の瞳の色は、水底にしずんだ緑の藻ではなく、そこから見上げる事しか出来ない空の青だった。

 「心ここにあらずといった風だよ。イン・シァン妃も陛下の腕の中ではそうだったのかな?」
 
 ――陛下に抱かれながら考えていたのは、

 シルヴィアは首を振る。
 何か場をとりつくろう必要性を感じて、とりあえず相手と距離をとろうとその胸に手をやると、腰をさらわれて再び引き寄せられる。おおきい身長差とおおきい腕の間、かがみこんできた相手の顔が首筋にうまる。シルヴィアのうなじを探し出し、すでにそこにめられていた銀の鎖を噛み切るように、もてあそんだ。

 「ねぇ知ってるかい、シルヴィア?」

 舌に鎖をからませた声が、耳の後ろでくぐもる。

 「男が女に服を贈るのには色々と理由があるけれど、その一番の理由はほかでもない、自分の手で脱がせたいからなんだ。だからシルヴィア、気の無い男に贈られたドレスを気軽に身につけてはいけないよ。でないと恥知らずに勘違いした男が際限なく図にのってしまうから」

 この言葉の意味を計る必要はない、とシルヴィアは思った。だって彼は言った。好きな男に好きなように抱かれればいいと。シルヴィアの好きな男にシルヴィアの好きなように……だが自分の好きな男とは、好きな抱かれ方とはどんなだったろう?
 首筋に男の愛撫を受け入れた姿で、彼女は思い出すことを放棄した。

 「かまいません」
 
 相手の動きがそれで止まる。くわえていた銀の鎖を口から放して体を引き、シルヴィアの目を見た。その顔はどういう訳か最初に出迎えた時より驚いた表情をしていたが、シルヴィアはこれも計らない事に決めた。

 「図にのっていただいてかまいません、と言ったのです」

 と言いおいた後、ふいに今まで口にしてきた言葉遊びまがいのやりとりの全てに嫌気がさした。そうだった。自分はべつだん花言葉や石言葉のように男に抱かれたいのではない。
 
 「今まで……たくさんの事があって、これからもたくさんの事があるのだと思います。だから変わりたいんです。変われなくとも何かに終止符を打ちたい。逃げ場を残したくない。何かを断ち切らなければならないなら、そう出来る強さがほしい……もちろんこんな事でそれが叶うとは思いませんが、気持ちの上での整理をつけるためにも形になるものが欲しいのです。ですから……」

 結婚を目前にした多感な花嫁のていをよそおってシルヴィアは己の迷いを並べ立て、そして空色の双眸を見上げて言う。
 
 「私を抱いてください、閣下」

 再び自分の体に埋まっていく金の頭髪、大きくて無骨な男の指が答えだった。





   ■





 「アシャンさん、アシャンさん、どちらへ行かれるのですか? アシャンさんっ」

 と、ベルトテゼランは渡り廊下の曲がり角に消えるところだった茶髪緑眼の侍女にようやく追いついた。
 本当にそれまでベルトテゼランの声が聞こえていなかったのか。円柱の影で立ち止まった侍女アシャンは驚いたように目を丸くして、走ってわずかに呼吸を乱したベルトテゼランを見上げた。
 『そちらこそ、どうしてそんなに息を切らしておいでなのですか?』とでも問いたげな顔だ。

 「文書館に行くところでした」
 侍女アシャンはさらりと答える。
 「さいきん自由に出入りする資格をシルヴィア殿下からいただいたので……今日はもうあまり仕事も残っていない様子ですし、パニエラ様からも許可をいただきました。せっかくの余暇を無駄にしたくありませんので」

 いちおう誘いを入れられ何度か二人きりの時間を過ごした鼻先に『余暇を無駄にしたくない』という言葉をつきつけられ、ベルトテゼランは少々返答につまった。
 アシャンさんはこういう性格だっただろうか?
 
 「あの、シルヴィア様のことを心配してらっしゃるのでしたら、多分大丈夫だと……」

 なぜ多分なのかと自分自身を叱って、ベルトテゼランはもう少し確信的な言葉をさがす。

 「いえ当家の主人はああ見えてですね……それは一見、助平で倣岸不遜で相手の気持ちなんて考えなしで実際そのとおりですし、女性には節操なく手をだす性分に見えますが、人の弱みにつけこんで信頼を踏みにじるような事は……シルヴィア様のお心を傷つけるような真似は……」

 「するかもしれませんね」

 この時、ベルトテゼランは自分の性分を呪った。またそれ以上に自分の仕える主人を呪った。

 「ああでも」
 と退路をたたれたベルトテゼランは横道に逃れる。
 「あの場のシルヴィア様には驚かされました。本当です。失礼な話ですが、実をいえば私はこれまでシルヴィア様にとってダルタヴィッラの公爵夫人の座に就かれることが、果たして良い事なのかどうかと疑問視しておりました。ですから、あんな風な言葉や表情で人を魅了する御方だとは……」

 「私もです」
 侍女アシャンは言葉すくなにつぶやく。
 「私も驚かされました……ところで、もう行っても宜しいでしょうか? 文書館へ」

 「あ、はい……あの、アシャンさん?」

 その時になって遅ればせらベルトテゼランは気づいた。彼女が急いでいた、その訳を。口端にだけ気味の悪い薄笑いを浮かべる侍女アシャンの顔は白い。のっぺりと白い。いや違う。蒼白だ。

 「ひょっとしてご気分か何かお悪いのですか?」

 「いえ」

 「いや明らかにお悪い。文書館などに行くのではなく、その辺りで休んでいったほうがいいのではないですか? あ、別にこれは妙な下心で言っているのではな……く」

 ベルトテゼランは目をむく。 
 わずかに眉根を寄せた他には、おおむね平素の表情を維持しているもののその額には汗が浮いていた。よく見ると大量の汗が流され、額の脇を流れ、こめかみをつたって詰襟を湿らせている。

 「お構い――」

 なく、と言おうとしたのだろう。が、それは果たせず侍女アシャンは口元を押さえてその場に突っ伏すように体を折った。

 「アシャンさん!」

 片手を石畳につき、嘔吐の形に背を丸める。だがそれでも尚、口をふさいだ手で吐瀉としゃを認めようとせず、口内からの圧力を押さえ込んでいた。その肩が奇妙な具合に飛び跳ね、痙攣する。
 
 「何をしてるんですかっ、あなたは!?」

 思わず叫び、膝まづいたベルトテゼランはその手をはずそうとするが尋常でない力で振りほどかれた。その拍子に口からわずかに吐しゃ物がこぼれて石畳をぬらすも、すぐにまた両手で口をおおう。また飛び跳ねる。

 ベルトテゼランは一種の恐慌状態におちいった。
 恐慌状態のまま、今度は手加減なしに掴みかかり馬乗りになった挙句、それでもなお抵抗しようと足掻く両手首を取り上げて、むりやり左右におし広げて石畳に押し付けた。
 ベルトテゼランの体の下、塞ぐもののなくなった口から吐しゃ物が流れ出る。そう、ほとんど液状のそれには固形物はいくつも混じっていなかった。

 「アシャンさん! 大丈夫ですか、アシャンさんっ!!」

 がなりたてるようにその名を呼ぶ。だが正直その声が届いている自信はなかった。なぜなら服越しに接した肌から、まだ余震のような震えがつたわってきたし、石畳をただよう薄緑の目は朦朧もうろうとしている。
 嘔吐を完遂させたあと、定まらない視線がぶれてさまよい、そうするうちにベルトテゼランを見つけた。そして再び抵抗がはじめる。猫に追い詰められた鼠のような、がむしゃらで無為、滑稽な抵抗。
 おそらくこの時ベルトテゼランは手をはなすべきだった。が、組み伏せた姿のまま、ほとんど条件反射的に拘束を強くしてしまったため事態は最悪を迎えることとなった。
 
 ベルトテゼランがのしかかった、彼よりも二まわり以上小さな体が次の異変の予兆を示したのは、やはり今度も口からだった。
 陸に上がった魚のような開閉をはじめた口を、最初ベルトテゼランはぼんやりと見るばかりだった。が、それが大きくなるごとに呼気は切迫し、異様な音に変わり、開閉は激しくなっていく。その口は空気を求めてあえぎ、実際何度となく取り入れているのに少しも楽になっている風ではない。そうこうするうちに石畳を掻いていた指が、まっすぐに引き伸ばされ、そのままの形で硬直しかけていた。

 ――過呼吸。

 そんな単語が過ぎていったとき、おりしも回廊の曲がり角から侍女の一群の姿が立ち現れ、その中の一人が手にもっていた、たらいを落とした。
 ばしゃん、と渡り回廊の石畳をたたいて水が飛び散る。
 その驚愕の視線の群れの先、ベルトテゼランは侍女アシャンに馬乗りになり組み伏せた姿のまま、ご丁寧に手首まで押さえつけていた。からからと、たらいが転がる。

 「ベ、ベルトテゼラン様!」

 「何をなさって――」

 「良かったっ!」

 ベルトテゼランは歓喜の叫びを上げ、悲鳴をあげて逃げまどう彼女達の足元に飛び込む。自分の服を引き裂いて布をつくり、もどかしく水溜りの水にひたす。
 そうして水分を吸って、そのままでは粗すぎた生地目の布を侍女アシャンの元へ運び、袋をつくって口と鼻にあてがった。隙間をつくるのを忘れずに。
 
 それが幾分の功を奏したのか、少しはまともな形で息を吸うことが出来たらしい彼女の呼気が和らいでいく。やがて完全に元に戻ったころ、朦朧としていた目は閉じられ、その体からも完全に力が抜けた。

 「いったい……」
 もはや悲鳴をあげることもなくなった侍女達に遠巻きにされ、気絶した侍女アシャンを腕に、ベルトテゼランは途方にくれる。
 「なんだったんだ……?」
 
 



作者です。
作中の過呼吸への対処法は、ペーパーバッグ方式の応用ですが、作為的な誤りをふくむため、絶対に真似しないでください。またペーパーバッグ方式の有効性は近年疑問視されつつあります。






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