第十七章 鳥篭の中で (4)
「それで? 主だった出席者の名簿や略歴にはすべて目を通したのか? 舞踏会の」
「ええ、大体は覚えたわ。でも顔も知らない人間の経歴を覚えるなんて変な感じね。顔をあわせてもきっと、向こうから自己紹介をされなければどこの誰だかまったく分かりはしないわ」
「心配ない。その点はあなたの未来の夫が責任をもってエスコートしてくれるだろう」
そう言ってアシャンは本棚からシルヴィアの様子を見に戻ってくる。シルヴィアは微笑をふくんでそれを迎え、また一覧表をめくった。
『婚約者“殿”』ではなく『未来の夫』、か。シルヴィアはそこから思考を引き剥がし、考える。考えるべきことを。
では彼は『カルハリアの虐殺者』であるところのシルヴィアの未来の夫をどうする気なのだろう? 前にアシャンは言った。良き結婚を、と。それはつまりラバウル公は彼の標的には入っていないという事だろうか。それともただの社交辞令のつもりだったのか。
かつて『一番、大切なものを奪った男だ』と言っていたアシャン、その面前で取り乱し我を忘れたアシャン、二人取り残された庭園で紅あざみをさらっていったアシャン……あの日から一体どれだけの時間が流れたのだろう? 暦の上ではついこの間のことのはずだったのに、それはひどく遠い昔のように思われた。
シルヴィアはさらに探りを入れる。
「お前は舞踏会には?」
「ああそうだな。あなたの権限で招待状を一枚捻出してもらう事になるかもしれない。ついでに女物の夜会用ドレスも一着、払いさげてもらおうか。少し小さいだろうから仕立て直しが必要かもしれないな。だが今は待て。こちらにもこちらの段取りというものがあるんでな」
――ツイデニ女物ノ夜会用どれすモ
――少シ小サイダロウカラ仕立テ直シガ必要カモシレナイナ。
その口端にまとわれた自然な微笑に、微妙な齟齬を感じつつ、それが具体的に何なのか、シルヴィアには指摘できなかった。またそれについて考えるべきでないとも分かっていた。
代わりに再び、探りを入れることにした。
「陛下もいらっしゃると聞いたわ」
「ああ、俺の事を心配しているのだったら安心しろ。まだイン・シァン妃の件も調べている途中だ。それに出席するといっても皇帝は顔見せ程度だろうし、ものものしいばかりの警護の兵を引き連れていて足元に近づけもしないさ……どのみち今回は顔を確認する程度に留めておくつもりだった。いかな仮面舞踏会とはいえ挨拶の時くらいは仮面を外してくださるだろう。もともと仮面舞踏会といっても、仮面をつける時間もあるといった程度だからな」
嘘か、それとも本当か。
薄いベールのように層を増していく微苦笑は、一見して自嘲のようにも見えてシルヴィアにはその下にあるものが読めない。この表情だけではない。もう、どの表情も読めなくなっていた。読めなくなったのか、今までわざと“読ませて”いたのか、単に自分が疑心暗鬼にとらわれているのか。
もう一つ透明な笑いの層を追加して、アシャンは続けた。
「着ていくドレスはもう決まったのか?」
「なんでも公爵閣下がご用意してくださるそうよ。明日にでもこちらに届くのではないかしら? 聞けば赤い……夜会といっても仮面舞踏会だから華やいだ色や遊び心のきいたデザインが主流らしくて、そう固すぎないものらしいわ。露出の程度はお聞きしていないけど」
「赤か。悪くない。あなたに映える色だ。紅あざみの時もそうだったな」
何のてらいもなくそう言って、一つうなずく。
「社交の場では、機知にとんだ切り替えしや軽妙な話術、機転、場の空気と支配者を知り、それに応じた振舞い、またそのために宮中事情に通じること……まあ、色々と小手先の技術が必要だろうが、そういうものは一朝一夕に底上げできるものでもないし、大体のところは放っておいても婚約者が何とかしてくれるだろう。
だがそうだな。一つ手っ取り早く実になる小手先の技術を上げるなら立ち居振る舞い……見せ方だ」
「作法のこと?」
「いや、仮にも皇女のあなた相手に、準正装のドレス姿で椅子に座るとき若干浅めに座るだの、婚約者の腕を組むときの位置だの、そういった初歩の初歩を教える気はない。
作法ではない、見せ方だ。一見おなじようだが違う。
シルヴィア、あなたが行くのは舞踏会ではない。あなたのお披露目会だ。ならば、そこであなたを存分に見せろ。魅せてみろ。
歩くとき、座るとき、立つとき、踊るとき、微笑むとき、いつの時も己の動きに気を配れ。気をぬくな。
婚約者の腕のとるときの間合い、グラスの杯をかたむける時の角度、ワルツでターンするときの指先の位置、ステップを刻む時の爪先の力加減、ゆったりとうなずく時の顎の沈ませ方、話しかけられて微笑み返すときの唇の形も、すべてに神経を張り巡らせ、自然に、優雅に、かつ意識的に行え。
その動きが周りにどんな印象をあたえ、その表情がどんな風に映るか、常に計れ。意識し続け、そして喋れ。微笑め。踊れ。あらゆる意味で相手の目に良く映るよう振舞え。その心が欲するところを過不足なく満たしてやれ。
が、決して媚びるな。媚びれば足元を見られる。侮られる。どんな身分のどんな人間であろうと、絶対にあなたを侮らせたりするな。あなたはあなたの主人だ。その意志も精神も体も、あなた自身の所有物。そしてあなたは場を支配する者となる。そう心に銘じ、その前提で振る舞い、その場にいる誰よりも美しく絢爛とあれ」
何を教えるときと変わらない口調で言われた言葉に、シルヴィアは失笑する。
「舞踏会にはソフィアも来るのよ」
「関係ない」
アシャンは言った。強く、微笑んで。
シルヴィアの手を引き等身大の鏡の前に立たせ、映す。
「どうやら、あなたは自分の事を美しくない……あるいは大して美しくないと考えているようだが、その認識はあやまりだ」
鏡の中には自分と、それよりも頭半分高く、髪を後ろに束ねた少年が立っていた。誰だろう、とぼんやりと考えて、ああアシャンだったと思い出す。だがアシャンと名乗る人間が本当は誰なのかシルヴィアは知らない。
鏡の中にいるアシャンは、シルヴィアを見る。その目はシルヴィアの髪を、顔を、体を、頭頂から爪先まで順になぞり、そして言った。
「あなたは美しい。まだ蕾であるだけだ。じきに咲く」
一歩下がり、シルヴィアの後ろに立つ。視線を外さないまま。
「自分の顔を良く見てみろ。東洋的ではあるが、彫りの浅くない造詣。深すぎもしない。華美ではないが自己主張もほどほどに、大きく切れ長な黒眼をひときわ引き立てている。化粧にも良く映え、印象のつけ方によっては自在の可能性を秘めている。薄紅色の唇は、そのままではあどけないが、ひとたび紅を乗せれば血色にそまって艶冶だ。睫は長く黒いため、伏せられたなら濃い影を刻む。
体は、細いな。華奢で繊細だ。肉も薄い。だから完全というには、すこし危うい。が、骨格は美しい。直にもう少し丸味を帯びて、たおやかに解ける。
そして皮膚は」
首筋に指が伸ばされる。伸ばされ、が、シルヴィアに届くことはない位置で留められ、停空する。
「肌理が細かく吸い込まれるようだ。どんな上質な綿布よりも指に馴染み、最高級の絹織物よりも目を誘う。花弁よりもあえかで、朝露に濡れるよりも、しめやかな仕上がり。間違いなく当代一だ」
そして停空していた指が離れていき、シルヴィアは解放される。一人、等身大の前に取りのこされる。
「その黒髪黒眼の容姿も利点の一つ。淡い色彩の中にあって、その色は突出する。白い紙の上にあるたった一つの黒い点のようなものだ。皆の視線は否応なしにあなたへと惹き付けられることだろう。
“見せ”ることさえ出来れば、あなたはその場で誰よりも美しい人間となれる可能性を充分に秘めている。そのためにも体の線を引き立てる服、優雅な立ち居振る舞い、いちばん自分を綺麗に見せる顔の角度、表情。今まで言った事を念頭に留めて、鏡を見て研究しておくといい」
表情がなくなったシルヴィアの顔を眺めつつ、アシャンは付け加える。
「低俗だと思ってもいい。が、人間とは低俗なものだ。若く美しい娘の姿は、人間の、ことに男の目を惹き、その心に隙をつくる。
そしてそれはダルタヴィラ次期公爵夫人という肩書き以外の、あなたのもう一つの武器。夫とは関係ない、あなた個人に帰属する武器だ。いままで言った事はきっと舞踏会以外の場所でも役に立つ」
「寝台の上でも?」
鏡に映った人形の姿を見つめながらシルヴィアは聞いた。
アシャンはゆっくりと聞き返す。「なぜ?」と。
「これは私の武器なのでしょう? では寝台の上ではどうそれを“見せ”ればいいの?」
「寝台の上では」
アシャンは鏡の奥から、変わらぬ微笑でシルヴィアに答える。
「好きな男に、好きなように抱かれればいい」
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