第十六章 奴隷小屋で恋をせず (4)
扉の閉まる音がして、どれくらいの時がたったのか。
シルヴィアはこわごわと体を起こす。そして今しがた男に触れさせて、わずかに乱れた胸元を直した。
肩口について黒く汚れたインクの染みに指を這わせて確認しながら、考える。果たして自分は上手く演じきれただろうか、と。アシャンが望むとおりの“シルヴィア”を演じきれただろうか?
ああ、演じきれたに違いない、と彼女は思った。
なぜなら彼女は繋ぎとめた。アシャンに言明して見せたとおりの機会を。母の死の真相、過去に起こったすべてを知りたいという欲求。そして、あの触れれば切れるような淡緑の瞳の少年を、自分の元に。
だが……
黒く汚れた指を再び胸元にやって、その鼓動を聞く。それはやはり平らかで規則正しかった。
「何も感じない」
と彼女は再び呟いてみた。呟いてみても、やはり何も感じなかった。
母親が恋文のなか情人に打ち明けていた思いの丈の激しさを思いだそうとしても、父親に抱かれながら彼を想っていたと告白する文面を頭の中で読み返してみても、壁際に視線をやり、そこで男に体をまさぐられた時のことを思い返してみても、心はさざ波一つ立てなかった。
ただ抜き取られたような空洞だけがそこに取り残されて、微風を迎え入れていた。シルヴィアの、あらゆる人間の中心で、跳ね、踊り、脈打ち、沈み、時に不整脈をきざむ心の座。そこにはもはや余計な雑音は何一つなく、ひたすらに澄みわたって清澄だった。
乱れない、痛まない心を持つ事は、力なのだと知る。
感じる心を捨てさえすれば、精神は研ぎ澄まされ、頭は冴え、地に足がついたような安定感が五体を包み、以前よりもずっと視界が開けて見えるのだ。
なるほど、と自分の上を過ぎ去っていった、ありとあらゆるアシャンの表情を思い出す。これならば、どんな嘘であろうと容易くつけるはずだった。
実際、もう心はざわめかないのだ。最悪の類推をしてみてさえも。
母が別の男を救うために父を毒殺しようと試み、その狂恋が一つの国とそこに住む人々の生活と喜怒哀楽を破壊し、彼にとって自分が二重の意味で仇の娘……いや仇そのものに等しいと心に刻み込んでみても、涙の一滴も流れない。当然だ。そこに立ち続ける以外のどんな選択が自分に許されているというのか。
そういえばあれからずっと泣いていないと彼女は気づく。泣きたいとすら思わなかった。涙腺は乾ききっていて、お前には泣く資格などないとシルヴィアに伝えていた。
だとすれば、とシルヴィアは思う。本当に悲しくなどないのだろう。最初からそれだけの気持ちだったのかもしれない、何もかも。もし仮にシルヴィアが何かを奪われたのだとしても、それは自分が彼から奪ってきたものに比べれば雀の涙にも満たないものだったに違いなく、返してくれなどと頼める義理でもなかった。
わずかに残った未練でさえもきっと流れる時間の中に麻痺して自然消滅することだろう。でなければ、今度こそ目ざとく見つけられて殺される。
――奴隷小屋で恋をしたくなければ、
ええ、しないわ。彼女は答える。それがお前を追い詰めるだけならば恋などしない。だからこれは未練であり、あの心の奥底まで突き刺すような淡緑の瞳から、ほんのわずかシルヴィアが隠し通した執着なのだ。
シルヴィアは指を這わせ、まだ卓の上に投げ出されたままになっていた紙幅を自分の膝元に引き寄せる。それはほとんどの部分、黒いインクに汚されて筆跡が残る部分は微々たるものだった。残った部分から元の意味を類推するのは不可能であり、ならば人に読まれないよう処分する必要もない。
シルヴィアは身をかがませて口づける。母が愛しい男に宛てた恋文、それを解読し書き写してくれた人間の几帳面な筆跡、その残された文字列に。
口付けは、インクの味がした。
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