第十五章 平和のために (3)
アシャンは一度は再開しようと開きかけた口を閉ざし、また開いた。
「すこし休憩をいれるか?」
「あらどうして?」
とシルヴィアはアシャンに問い返す。本当にただ何故なのかと問う口調で。
「夢見がちで理想主義で、それゆえに内実がともなわない新興思想にかぶれた宮廷貴族がいた。己の置かれた立場と状況が見えず、結果をわきまえない行動のすえ彼は投獄され、母様は情人である彼を救いたいと願った」
「仮にそうであったとしてもイン・シァン妃が実際にジェンナーロの脱獄にかかわっていたかどうか、ましてやカルハリアの亡命に関わっていたかどうかなど誰にも分かりはしない。むしろ可能性としては低い。イン・シァン妃にはそんな権限や力もなければ、つてもなかった……そのはずだ」
「でも母様は手紙の中で何か決意している。
もし何かしたのだとしたらそれは絶対にジェンナーロのためのもの、彼を救い生かすためのものだった。そしてそれが成功したのだとすれば、その結果、彼はカルハリアに亡命した。
そしてこれから先は疑いのようのない事実。ジェンナーロはカルハリアに災厄をもたらした……死を覚悟して同士を逃がしたはずの男は、最後の最後になって『何者か』に救われる機会を得て生き恥をさらす道に流れた。そうしてカルハリアの庇護の下に隠れ、自分のために大陸が混乱に動く様をただ見ていた。自分を受け入れたカルハリアを待ち受ける運命を予感していなかったなどとは言わせない。でも彼はただ見ていた。病気だか刺客だかに殺されるまでずっとただ見ているだけだった。
そして仮定がすべて正しかったとすれば、それを招いたのはジェンナーロ以上に愚かな、恋に狂った女の、めしいた執心だった。何か訂正する部分はあって?」
「……いや」
感情を排しているとはいえないが、それでもシルヴィアは冷静だった。
それにその一見、感情によるものとも見える部分は、アシャンの個人的解釈とそういくらも違いはしない。だがアシャンとシルヴィアではおのずと立場が異なる。アシャンにとっての二人と彼女にとっての二人とでは、その意味するところが違う。ならばその解し方も感じ方もすべて同じである筈があるだろうか? 否、同じであっていいのか?
「そして」
とシルヴィアは立ち上がる。
「毒。ベラドンナ。陛下を裏切る。罪を犯す……これらは一体なにを意味しているのかしら? いつも色々な事に頭を悩ませている暗殺者さんには笑われるかもしれないけれど、私の連想は単純だったわ」
「文中の『毒をもつ』の部分は比喩ともとれる。そもそも手紙の執筆者はあきらかに精神の均衡を欠いており、文中にある言葉を字面どおりに信用するのは現実的ではない。すべては虚言癖や妄想癖の産物かもしれない」
「お前らしくないのね。『いついかなる時にも冷静に、感情を排して』ではなかったの? なのにいつもは率先してする花言葉の解説を今日に限って先延ばしにしている」
「勘違いするな。物には順序というものがある。情報というものは取捨選択や開示の順番によって、人の心にまるで異なった印象を植え付ける」
「では、たまには私から解説してあげましょうか? べラドンナは毒草。悪魔に愛された花とも言われる、その花言葉は『人を騙すものの魅力』『汝を呪う』 そして」
ふ、と笑ってシルヴィアは唇をひらく。
「男への死の贈り物」
■
――いついかなる時も冷静に、感情にとらわれず、私情を排し。
アシャンはシルヴィアにそう言った。そして今、シルヴィアは己の心の動きすらも勘定にいれつつ、冷静にすべてを見下ろし受け入れようとしているかに見える。アシャンが想像だにしなかった所作で、姿勢で、眼差しで。おどろくほどの強靭さとしなやかさを見せつけ、片時もうずくまることなどなく。
だが、と焦燥が胸をよぎる。本当にそれでいいのか。
「すべては」
アシャンは言った。
「すべてはこじつけに過ぎない。文中に二度、毒を連想させる言葉がでてきたからといって、あなたの言うとおり、それではあまりに単純だ。裏切りや罪といっても、彼女にとっては他の男を想っているだけで十分に裏切りであったのかもしれない。また仮により実態のある何かであったとしても、それが直接皇帝を手がけるものだったと、どうして言える? 何もかも仮定に仮定を積み上げた砂上の楼閣だ」
「ジェンナーロを指し示す状況証拠は最低でも五つ。文中に毒を思わせる言葉が二度。陛下に対する裏切りや罪を思わせる言葉は数え切れないくらい。
ねぇアシャン、投げた賽が一の目を出す確率は一度投げただけでは六分の一だけれど、投げれば投げる分だけその確率は限りなく大きくなっていくわ。確信にとどくほどにね」
「二度だ」
「分かっているわ。でもジェンナーロが母様と恋仲であった事は多分間違いないと思うわ。母様の事ならばお前よりも知っているつもりだもの……後もう一つ。すべての論説は仮定からはじまるものよ。砂上の楼閣が蜃気楼でなかったなら、陛下を害そうとした者はお前が始めてではないという事になるわね。先をこされた気分はどうかしら? 暗殺者さん」
それでいいのか。その仮定をあなたはそんな風に受け入れるのか?
己を愛せなかったという母親。無視してきた父親。母は想い人を心に秘めて父に抱かれ、その命を救わんがために父を毒殺しようと試みた。そうしてお前達のせいで国を滅ばされたという人間を前にして、責められ、なじられ、憎まれ、向き合えと迫られ、ただそれをそのまま受け入れていくのか。受け入れていいのか。何かが……何かがひずんでしまってはいないか。
「現に皇帝は生きている。また仮に皇帝を毒殺していたところでジェンナーロが助かる保障など、どこにもなかった」
「そうかしら?」
卓の端に後ろ手をかけて体重をあずけ、彼女は足をぷらぷらと揺らしている。
「国が混乱に陥ればジェンナーロの処刑は先送りになるかもしれないし、政権が変わればひょっとすると助かる目が出てくるかもしれないわ。事によると何かの『約束』、裏取引があったのかもしれないし……ええそうね。すべては仮定だわ。仮定が正しかったとしても、母様は失敗したわ。だって陛下はまだ生きているしジェンナーロはもう死んだ。
……ねぇアシャン、すべての仮定が正しかったとしてお前に聞くわ」
奇妙なほどに涼やかな黒眼が部屋をわたる。流れる。アシャンに止まる。
「私にどうして欲しい?」
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