第十五話 平和のために (2)
「ジェンナーロ・リオッティは、あの名門リオッティ家の六男坊。その数字の示すとおりの気楽な身分で、自身が一度も足を踏み入れたことのない領地の上がり金でくらす宮廷貴族、と同時にアニェッロの熱烈な支持者の一人だった。
もっとも団体のうちにあってのジェンナーロは、攻撃的な平和運動とは一線を画する穏健派の派閥の筆頭で、暴力による平和運動には賛同していなかった。彼の活動はもっぱらその学識をいかした理念体系の整備や本の執筆、サロンに招いた人々を啓蒙する程度にとどまっていたという。
いずれにせよ弾圧がはじまった後も、ジェンナーロは初志を貫徹した。
皇帝や教会からの再三の要請と破門宣告、実家リオッティ家から縁を切られてもなお、『私は私の信じるところにしたがう』といって頑として団体への支持を撤回しなかった。
この頃、皇帝は彼の処遇におおいに頭をなやませていたそうだ。
縁を切られたとはいえ、仮にもリオッティに名を連ねた者であるいじょう下手な扱いはできず、といって今や異端となったアニェッロへ支持表明をするものを野放しにもしておけない。この時点でのジェンナーロは自邸で軟禁状態におかれていた。
その処遇が一気に、身柄の更迭、そして処刑へと変わったのは、軟禁状態にあったジェンナーロがアニェッロの同士たちを国外にのがす手助けをはじめたせいだ。資金援助と手形の乱発。教会は激怒した。
ジェンナーロは虐殺されていくアニェッロの同士たちを救おうとこれらを強行し、その結果わが身の破滅を招いた。おそらくは覚悟の末の行動だったと思われる」
イン・シァン妃の手紙にあった『獄中にいるあなたが死なず、処刑をまぬがれて、いつかこの手紙を読んでいるよう願ってやまない』という一文は、おそらくこの頃かかれたものだろう。
「だがあなたも知っての通り、ジェンナーロは処刑されなかった。何者かが脱獄の手引きをして彼を国外へ逃亡させたからだ。そしてその亡命先にはカルハリアが選ばれた。
この手引きをした『何者か』に関してははっきりした事は分からないが、アニェッロの残党や、身内が死ぬのを偲びなく思ったリオッティ家の誰かの仕業などと言われている。
亡命先がカルハリアだったことに関していえば、彼の曾祖母がカルハリアの出身だったこと、カルハリアが地理的・歴史的に他国ほど帝国の影響が強くなかったこと、またカルハリア国主の政治的判断の甘さなどが上げられるが、あるいは何らかの政治的裏取引があったのではないかなどと疑う者もいる。
いずれにせよ帝国は教会からの圧力などを背景として、カルハリアに対して再三の身柄引き渡しの要求、カルハリアはこれを却下。
さらにこのカルハリアの行動を東の大国ナーガが支持、亡命貴族問題にかこつけて容喙の口実とし、また長らく引きずったままでいた領土問題を蒸し返す。
この時点で、事はすでにジェンナーロや小公国カルハリアの問題ではなく、帝国とナーガの問題になっている。
大陸諸国は、帝国とナーガの二大国の間に揺れ動き、しばらく一触即発の状態がつづくが、カルハリアに亡命中のジェンナーロの死をもって、いちおうの決着をみる。
とはいえこの決着は、誰の目にも明らかに帝国側が損だった。
大規模な戦にこそ発展しなかったものの、帝国は国内の混乱の収拾に奔走し、宗主国としての面目をつぶした上、元々あいまいだった国境線の領土を不利な条件でナーガに割譲させられた。
そして全ての混乱の源となったカルハリアには、帝国による見せしめ的意味合いの侵攻。そうしてカルハリア公国は地図から消え、帝国領ルーヴァとなって今に至る」
アシャンは言葉を切って、卓の前に座るシルヴィアを見た。
「何か質問は?」
沈黙は永遠のようだった。
■
ゆらり、とシルヴィアは顔を上げる。
「つまり全て母様……イン・シァン妃のせい。ジェンナーロ・リオッティを脱獄させた『何者か』はイン・シァン妃の差し金で、ジェンナーロを国外に離脱させカルハリアに亡命させたと? ただ愛人を逃がすためだけに、自国の不利になる売国行為に手を染め、結果として大陸を混乱におとしいれ、カルハリアに戦火を招いた。いいえ、戦火ではない。一方的な侵略と虐殺……」
金色の光彩の片鱗すらないその黒眼は、ただ光を吸うように黒く重く、そして静かに、部屋のどこでもない場所へ向けられていた。
「早急な結論は禁物だ。まずイン・シァン妃の想い人が真実ジェンナーロ・リオッティであったかについて疑問の余地はのこる。だが接点とおぼしきものは幾つもみつけられる。
まず一つ目。
手紙の内容でイン・シァン妃が述べている『すべての人間は平等なのだと、生まれながらに平等なのだと、虐げられる必要もなく見下される必要もなく』のくだり。これは明らかにアニェッロ後期の教義であり、こんな奇天烈な思想を持つ人間は団体の賛同者以外にはいないだろうということ。 『獄中にいるあなた』が処刑をまぬがれるよう書いてある事ととも符号があう。
二つ目。
ジェンナーロ・リオッティは宮廷に伺候する文楽貴族、ほんの一時期イン・シァン妃に弦楽を教えていた。あなたが物心つくかつかないかのころだ。
ダルタヴィッラが武門の名家ならば、リオッティ家は昔から文と楽で名をはせた名門で、ジェンナーロも音楽に造詣がふかく、作詞作曲を手がけるばかりでなく、自身一級の弾き手であったと聞く。
もっとも彼がイン・シァン妃の教師であった期間は短く、わずか一月たらずの間で解任されている。イン・シァン妃が弦楽をならっていたこと自体、舞に変わって愛妾の心をなぐさめるものをという皇帝の心配りだったそうだが、どうやら命令をくだした当の本人は愛妾に手ほどきする人間が若い男とは知らなかったらしい。以降、皇帝がイン・シァン妃に楽器をならわせる事はなかった。
三つ目。
彼は手紙の受け渡しがあったと思われる王立文書館の常連だった。彼はもともと楽人である以上に文人で、研究する人間がすくない東方の文献に関しては当時の第一人者だったといってもいい。これをもってイン・シァン妃の興味を引いた、もしくは引かれたとしてもおかしくはない。
四つ目。
ジェンナーロの女性関係はつつましかったようだが、外見は女好きのする優男だった。またイン・シァン妃の教師をしていた時期以降、元々ささやかだった女性関係も一切絶っている。周りの人間の言葉を借りれば『恋にも思想にも一途な男だった』とのこと。
以上。アニェッロの一員であり、王立文書館に自由に出入りする権限と興味を持ち、またイン・シァン妃の想い人たりえる資質をそなえたジェンナーロの存在は無視するにはあまりに有力な候補だが、すべては状況証拠の域をでない。その上で――」
「五つ目があるわ」
さえぎられ、アシャンはシルヴィアを見た。
「五つ目の状況証拠。前に話した母様が飼っていたオウムの話、覚えている? あの鳥の名前、リーノと言ったの」
歌うようにシルヴィアは言った。目を細め、追憶にほだされるように口先で『リーノ』という名前をゆったりと転がしている。
『リーノ』とは、すなわち『ジェンナーロ』の愛称。
「母様、それはそれは愛おしげにオウムの名前を呼んでいたわ。飽きもせずに籠の前でリーノ、リーノと。とても幸せそうな顔をして……」
シルヴィアの口角が少しづつ上がていく。見えざる糸に操られる傀儡ように、シルヴィアは表情を作った。美しく、だが心を置き去りにした人形の微笑。
そうしてほのかに微笑いを含んだ口元で、シルヴィアはもはや要らなくなった塵を手放すように口ずさむ。
「あれは唯一、陛下が贈られたものの中で母様に喜ばれたものだった」
いつかアシャンに向かって皮肉っぽく、だが少し嬉し気に語られていた言葉を。
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