第十四章 手紙が宛てられたのは (13)
――この手紙があなたに届くころ私はもうこの世にいないでしょう。あなたにこの手紙が届くことはないかもしれない。全ては無駄なのかもしれない。
もしもあなたが今も生きていてこの手紙を読んだなら、きっとあなたは私を憎むでしょう。そうと分かっていて尚こんな手紙を残す私を許してください。死ぬのなら、罪を犯すなら、誰も彼をも裏切り傷つけるのなら、その罪も苦しみも最後まで私一人のうちにとどめて冥府まで持っていけばすむことなのに、尚未練を残してこんな手紙を書く私を許して欲しい。
でも、すべてがあなたを愛しているがゆえだと思わなければやりきれない。陛下を愛していたわけではない。憎んでいたのかもしれない。でもこんな風に裏切りたくはなかった。
愛してる。愛してる。あなたを愛してる。人に愛される優しさを、温もりを、安らぎを、強さを、弱さを教えてくれたのはあなただから――
…――この手紙の書き方だってあなたが根気よく教えてくれなければきっと覚えられなかった。あなたの言っている事を私は半分も理解できていなかったと思うけれど、すべての人間は平等なのだと、生まれながらに平等なのだと、虐げられる必要もなく見下される必要もなく、幸せを受けとる権利があるのだと熱っぽく夢を語るあなたの顔を見ているのが好きだった。私が話す話を、繰り返し話す話を、陛下が、娘のシルヴィアが、セシーラがまるで痛ましいものでも見るように目をそむける話を、あなたはただ聞いてくれた。静かに、優しい目をして聞いてくれていた。ずっとずっとずっと。弱さを許してくれた。こんな風に壊れた女を愛してくれた。
王立図書館であなたと目が合うたび、あなたの手紙を見つけるたび、どんなに私の心が癒されたかきっとあなたには想像もつかないことでしょう。それを見つめている間は、あなたと話している間だけは私は正気に戻れる気がした。あなたがいなかったら、きっとここでは生きていかれなかった。あなたは私の救いだった。毎夜陛下に抱かれるたび、思い出していたのはあなたの事だった。シルヴィアをみるたびあなたが父親だったならと願った。シルヴィアは、あの子は私の分身みたい。私にそっくりで、本当に私にそっくりで、まるで昔の私を見ているみたい。痛ましい。あの子を見てると辛い。あの子はきっと私を嫌っている。今でなくともこれから嫌う。憎む。私を呪う。私はシルヴィアを愛せなかった。あの子は私の分身で、なのにあの目の中には陛下がいる。とても冷たくて怖くて苦しくて必死で痛々しくて、私を求めて私を否定する、あの目。私はずっとあの目が怖かった。
あの子はきっと不幸になると思った。でもあなたが違うと言ってくれたとき少しだけ楽になれた。全部あなたが私に教えてくれた。人を愛するということの愛おしさも苦しさも、強さも弱さも。でも今私をこんな気持ちにさせるあなたが憎らしくてならない。あなたを救うためなら全ての人間を裏切れる自分が怖い。娼婦に戻るのは怖くない。毒を持つのは怖くない。あなたは一度も私をそんな風には扱わなかったけれど、男が愛さない女を抱ける以上に女は愛さない男に抱かれることができるのです。そうして心と体に別々の人間を受け入れながら騙していくことは、とても痛く、でも同時にはじめて自分が自分の主人たりえた気がするのです。あなたに出会う前、私はがらんどうの人形でした。でも、あなたを愛した私はべラドンナになった。
…――この手紙があなたに届かないことを願っている。届くことを願ってる。獄中にいるあなたが死なず、処刑をまぬがれて、いつかこの手紙を読んでいるよう願ってやまない。そうして私を憎み、私の犯した罪を背負って生きていってくれると願ってやまない。そのためにも神様。どうか約束が守られますよう。あの方が死んでしまわないよう、私の分の加護まであの方に与えてくださいますよう――
読み終えたシルヴィアは手紙を卓の上にもどす。
「ふざけた手紙」
ただ一言、そう感想を述べた彼女の手は血の気が失せられるまで握り締められて白い。おそらく手紙の方を握りつぶさないのでいるのがやっとだったのだろう。
アシャンはそこから視線を外し、投げ出された手紙のほうへ目を向けた。
そう。差出人も宛名もない手紙のほぼ全文、イン・シァン妃の赤裸々なまでの想いが告白されていた。『罪』へのおののき、『裏切り』への葛藤、なによりも『あなた』への狂おしいまでの思慕、否、恋慕の想いが狂気を織り交ぜて、つづられている。平文を暗号文になおすという手順を踏んでさえ尚、その手紙はどうしようもなく稚拙で錯綜としていた。
『あなた』に宛てられた手紙も最後のほうでは神に向けた祈りとなっているし、また全編とおして感情的で話に一貫性がない上、言明をさけている部分が多い。
これでも内容を変えない程度に読みやすく翻訳したほうだった。原文のほうは、平文を暗号文になおした時に生じたのか文法や綴りの間違いが多く、途中で文章が途切れている箇所も多々あった。
アシャンは口を開く。
この手紙を彼女に読ませたこと、またこれから自分が言及すること、それが彼女にとってどれほどの痛手となるのかを考えながら。
「どう考える?」
「どこかの女がどこかの男へ宛てた恋文。それだけよ」
「ではもう一度読みなおせ。私情にとらわれるな。いついかなる時も冷静に思考をめぐらせ、感情を排し、与えられた情報を処理しろ。差出人はイン・シァン妃。では受取人は誰だ?」
実の母親に愛せなかったと告白されたばかりの子供を前に、慰める手を持たず、そっとしておく事すらしない。ただこうして追い討ちをかけている。
だが、とアシャンは思う。この手紙を彼女に手渡す役目はやはりアシャンというカルハリア人が相応しかったのだろう。彼女を憎み、傷つけ、追いつめ続けてきた自分こそが相応しい。
「俺がこの手紙を読んだ時、真っ先に浮かんだのは一つの名だった。ジェンナーロ・リオッティ。カルハリア戦役勃発の端緒となった男の名だ」
怨むといい。父でも母でもその想い人でもなく、この手紙をもたらす事を選んだ目の前のカルハリア人をこそ怨むといい。うずくまりたいだけうずくまって、だがいつか必ずそこから立ち上がっていけるよう。
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