第十四章 手紙が宛てられたのは (12)
「暗号とは送るメッセージを正当な受取人以外には理解できないよう、そのメッセージの外見を変えることだ。これは一種の取り決めによって達成される。
たとえば俺があなたと二人で話をしたい時は、あなたに対する呼称を変えるな。つまり俺が口にする『シルヴィア様』という呼びかけは『話し合う必要がある』というメッセージになるわけだ。
同じように『赤い服』を『危険せまる。離脱せよ』などとして潜入した間者に危険を伝えてもいいし、『明けの明星』を『援軍の到着間近』として籠城している城主を励ます通信文を送るのもいいだろう。
この単純な手法の長所は、当事者達から聞き出したり拷問したりする意外には、これといった解読方法がないということ。
短所は、あらかじめ取り決めた単純なメッセージしか遅れれないということだ。では伝えるメッセージが長く複雑、あるいは前もって予測できない場合はどうするか?
文章、あるいはアルファベット自体に取り決めをすればいい。
つまり一度書いたメッセージを、任意の規則にしたがってスクランブルをかける。この方法は大別して転置式と換字式の二つに分けられるが、転置式に関しては、換字式ほど重要ではないのでこの場での説明は割愛する。
覚えておくといい。暗号学の基礎は換字式暗号だ。
換字式……つまり平文の各文字を別の文字に置き換えることをさす。べつに置き換えるものはアルファベットではなく、別の記号でも数字でもいい。基本の論理はいっしょだ。
ここでは分かりやすい例として、アルファベットを一文字ずつ、ずらしていく方式を採用する。
A→B
B→C
C→D
といった具合だ。
たとえばAPPLEという単語をこの方式で暗号化するとBQQMFになる。一見して意味不明の文字列だ」
と紙の上に書き出して見せ、卓の前にすわるシルヴィアに差し出して確認させる。
「ここで既出の用語について少し説明しておく。
便宜上、暗号化される前の文を『平文』、暗号化されたものを『暗号文』、おのおので使われたアルファベットを、それぞれ『平アルファベット』『暗号アルファベット』と呼ぶ。
また平文を暗号文に変換するおおまかな手法のことを『アルゴリズム』、より具体的な規約……つまり実際につかわれた規則のことは暗号の『鍵』と呼ばれる。
APPLE→BQQMF の例でいえばアルゴリズムは『アルファベットを入れ替えること』、鍵は『アルファベットを一文字ずつ右にずらす』だ。
たとえばあなたが誰かに秘密の手紙を出すとして、まずは当事者同士でこうした鍵を決めておく。一文字ずらすのでも二文字ずらすのでも、別の方式を使うのでも、あるいはまるでランダムにアルファベットを入れ替えるのでもいい。
そうして平文でメッセージを書き、それから規則を適用して平文を暗号文に置き換える。仮にあなたの秘密のメッセージがうっかり第三者の手に渡ってしまっても、書いてある事は読めない限り、あなたと相手の秘密は守られるというわけだ。ここまでは分かるな?」
シルヴィアはうなずいた。
「ではここで確認がてらの質問だ。アルファベットをずらす方式を使う場合、そのずらし方は何とおりあるか?」
「二十五とおり」
「ご名答。故にこの『ずらし方式』は、暗号として強度が低い。もし暗号化に使われたのがずらし方式だとあたりをつけた場合、解読するためには、たった二十五通りの入れ替えを試すだけで良いのだから。
では各アルファベットをランダムに入れ替える方式では何とおりか?」
流石の相手もこれには詰まり、早々に回答を投げ出した。
「分からないわ。でもきっと気が遠くなるような数になると思う」
「あきらめて正解だ。数が大きすぎて計算してみようという気も起きないが、何でも4の後に零を26個並べたよりも大きな数だそうだ。これはそのまま暗号の強度ともいえる。
たとえこの国の人間全員を動員して不眠不休で全ての通りを試してみようとても、何千年、何万年たってもまだ終わりすら見えない……それくらい大きな数だ。
ゆえに入れ替え方式は長い間、暗号利用者にとって安全とされてきた。何文字ずらす等の見え見えの鍵さえ使わなければ、その強度は4かける10の26乗よりもまだ大きく、故に鍵を知らない第三者による解読は不可能だと。
……まぁ、大抵は覚えやすい鍵語などを使って鍵をつくるから、強度は若干おとるがそれでも膨大な数の候補があると言うことは分かるだろう」
「母様が使った暗号は?」
「一般的な換字方式暗号……今まで話していた入れ替え方式だ」
「ではどうやって解読するの? まさか『解読できませんでした』と言い訳するために今まで講義していた訳ではないでしょう?」
明るい笑顔のシルヴィアが軽口をたたく。いつものように。
アシャンは口を開く。いつものように。
「では今度はあなたが第三者だ。あなたは悪意ある第三者で、偶然手におちた政敵の手紙を握っている。その手紙にはどうやら政敵の重大な秘密が書かれているらしいのだが、暗号化されていて読めない。愚直に全ての入れ替え方式を試すのは無駄だと分かっている。だがどうしても解読したい。そういう思考と必要の果てに、登場したのが頻度解析だ」
顔を上げた拍子に百合の香りが鼻腔をかすめた。
視線を流すと窓辺の花瓶に大輪の白百合。折からの強風に振るえながらも、惜しげもなく花弁を広げてさらす真白の花は、夏の陽光を吸ってまばゆいまでに咲き誇っていた。
アシャンはその脇を通り過ぎて書棚へ向かう。
「暗号の基本が換字式であるのと同様に、暗号破りの基本は頻度解析だ。言語には文字がある。そして言語の特徴によって、使用される文字の頻度には偏りがある……と言ってもいまいち実感がつかめないだろうから試しに少し書き出してみるといい」
アシャンは適当に一冊の本を取り出し、やはり適当に頁を開いて、一項を指し示し、そこで使われているアルファベットの頻度をそれぞれ書き出して見るよう、シルヴィアに渡した。
シルヴィアは『上記のような理由から財産的評価が不可能な資産については……』ではじまる構文を構成する文字群をにらみ、文中につかわれているアルファベットを一文字一文字数え上げていく。
Aは何回使われたか、Bは何回使われたかと言った具合に二十六文字すべての使用回数を書き出していった。
A-16
B−3
C−6
D−8
E−26
…
T−18
U−6
Vー1
W−4
X−0
Y−3
Z−0
「ああ、なるほどね」
とシルヴィアは手元の紙をながめやり、嘆息する。
「分かった気がするわ」
「気づいたことは?」
「EやT、それにAが多く使われ、XやZはあまり使われない。つまり、ある文字は良く使われ、他の文字はあまり使われない。文章をつくる文字には、おのおの個性的な性格があるということ」
「そのとおり。使用頻度のばらつきは、言語によってそれぞれ特徴的だ。そして大陸公用語ではEが飛びぬけて多く使われ、 Xなどが使われる回数は目だって少ない。
また連続してつかわれるアルファベットとしてSSやTTやLLやPPなどが上げられるし、逆に母音が二回立て続けに使われることは少なく、また子音の連なりにもGHTなどといったお決まりの配列がある。またTHEやANといった良く使われる冠詞も足がかりとなりえる。
暗号文の解析とはつまり、そうした使用頻度のばらつき、または言語上の特色を使って暗号文を平文に戻す作業。
アルファベットを一対一でおきかえる単純な換字式暗号であれば、頻度解析だけでもほぼ解ける」
たとえば暗号文中でFの使用頻度が一番おおいのなら、試しにそこにEを代入してみる。また連続して使われるのがQQだとすれば、そこにSSやTTやLL、またはPPなどを代入してみる。
暗号文中に繰り返し使われる配列を見つけたならば、それは一つの語句だと考えていい。そうして試行錯誤を繰り返し、分かるものから穴を埋めていく。
たとえば、BQQMF → ?PP?E とまで分かればAPPLEという単語が浮かんできてもおかしくない。
となると、B→A M→L という事になり、これを暗号の全文中にあてはめてみて、おかしくなければその類推はあたっていたと仮定して解読を進めていく。
そんな風にしてある程度まで文字の正体が分かれば、あとは虫食いの文章を難なく埋めるように、するすると解けていく。
「無論、暗号利用者のほうは頻度解析によるばらつきを少なくするために、さまざまな手練手管をつかう。
たとえば、一番おおく使われるEには二つの暗号アルファベットをあてがい代わる代わる使ったり、TTやSSなどの繰り返しのアルファベットを一文字で省略したり、あるいはわざと何の意味も持たない暗号文字をいれたりする。
暗号を破る方は破る方で、それを念頭にいれたうえで悪知恵をはたらかし、さらに効率の良い暗号破りの技術を開発していくわけだ。
暗号は、暗号を作る側と破る側、双方の絶え間ないいたちごっこの上に発展してきた。数学や統計学、言語学などを土台として」
そこで言葉を切り、相手の表情をうかがう。シルヴィアの目線が手元の羊皮紙ではなく、その手前の空間をただよっていると気づいたからだ。
「……何か質問は?」
「え? ああ質問、質問ね」
シルヴィアは打たれたように顔を上げ、落ちてくるアシャンの視線に微笑みかえし、なお一層明るい調子で声を張り上げる。
「考えていたのよ。お前は数学者の息子か、統計学者の息子か、それとも言語学者の息子なのかしらって」
「……」
「昨今の暗殺者は大変ね。花言葉や石言葉だけでなく、数学や言語学にも通じてなければならないなんて。お前のつくる暗号文はどれくらいひねくれているか見物ね。差し支えなければ一度見せて欲しいものだわ」
「……」
「でもきっと、それだけ色んな事が出来れば暗殺者を廃業になっても転職先には苦労しないわよ。お前だったらきっとどこでも雇ってくれるわ。それでもやっぱり一番向いている職業は侍女だと思うの。だってお前ってば――」
「シルヴィア」
そこで彼女は開きかけた口から言葉をなくし、沈黙に転落する。何度か口を開く気配はあったが、そこから言葉が這い上がってこないようだった。
伏せた視線は手元の羊皮紙にはりついたまま、その肩が呼吸と共に浮き沈みする。平素の間隔をよそおいながらも、それよりもわずかに早く、わずかに硬い呼吸。
「シルヴィア、俺は――」
「この間の夜」
制して、シルヴィアはゆったりと顔を上げる。
「そういえばこの間の夜のお礼を言いそびれていたわね。寝室まで送ってくれたのはお前でしょう? ああでも勝手に着替えさせたのも、きっとお前ね」
彼女は片目をつむって見せる。
「朝起きたら違う寝巻きに代わっていてびっくりしたわ。でも仕方がないわね。なんだか私もお前にずいぶんと迷惑をかけてしまったようだから。
実を言えば、酔っ払っていて良く覚えていないの。お酒って美味しいけれど怖いわね。これにこりて少しは節度ある飲酒を心がける事とするわ」
アシャンの視線をやんわりと受け止めて、シルヴィアはおどけた表情で笑っている。
彼女は泣かない。彼女はなじらない。代わりに笑う。何もなかったかのような顔で笑っている。喋っている。あれからずっと。
「それで? さっきはなんて言おうとしたのかしら? 勝手に着替えさせてごめんなさい?」
「……いや、いい」
ほぼ完璧に等しい笑顔の仮面を見つめながら、アシャンは発しかけた言葉の先を呑みこんだ。
彼女が"何もなかった″事にしておきたいといなら、それもいい。いや、きっとその方がいいのだろう。本来ならば一番見たくないだろう顔に、日常的に顔をあわせ話さなければならない立場にあって、なおかつそんな風に自分を遇する彼女の気持ちを無下にしてまで伝えられる言葉など、アシャンにはない。
あの男と同じこと、いや確実にそれ以上のことを自分は彼女に強いた。
相手が無垢だと知っていて、いやむしろそれにいっそう煽られるようにして、爛れた欲望の捌け口とした。愛情もなければ、一片の気遣いもなく、劣情のおもむくまま相手を性の玩具として取り扱い恥じなかった。
結局、とアシャンは諦観とともに思う。ついた染みが落ちることはないのだ。一度覚えた習性を忘れることはなく、それは拭いがたくアシャンの一部となっていた。
むりやり体を開かせて、恐怖を植えつけるように嬲って、脅える彼女の顔に暗い愉悦を覚えた。犯したいと願った。自分の手で穢されて、泣き叫ぶ彼女の姿が見たかった。
初めて抱きたいと切望した女の体が無垢だったのは、おそらく偶然ではない。なぜなら、それは暴力の威力と、刻み付ける傷の深さを保障してくれる。
ベルトテゼランのような人間であれば大切に慈しみ育むだろう蕾を、アシャンのような人間は蹴散らし踏みにじり、無残に散らす。何かの代償行為のように、そうすることで渇望を紛らわすのだ。
思う。人間は一体どれだけ醜くなれるのか?
堕ちても堕ちても、底などないとでも言う風にまだまだ堕ちていく。かつて屈辱と激痛の淵で受け入れた行為がいつしか快楽を根付かせていったように、冷笑と侮蔑の対象だった人間達がそのまま自分となっていく。
彼女がそれを忘れてくれるというなら、否やはない。そうやってあの夜の記憶ごとアシャンという存在を切り落としていくといい。今はまだフリであっても、それはいつか完全な忘却に成功するかもしれないのだから。
彼女にあんな記憶は必要ない。醜さも、さもしさも、醜怪であったすべてはアシャン自身が覚えておけば事足りる。
それにもう、とアシャンは手を伸ばせば触れられる距離にいるシルヴィアを見た。いつものように笑う笑顔。いつものように振舞う彼女。だがもう彼女は自分に触れない。この先もきっとそうだろう。
人肌の温もりを渇望していた彼女は、もうアシャンを求めない。温もりのある抱擁や幼い求愛が自分に押し付けられることはもうないだろう。それらは近づくたびに強張る体と、硬くなる呼吸に置き換えられた。アシャンが置き換えた。
ひどく遠い場所にある笑顔を見つめながら、アシャンはまた一つ記憶を殺していく。この数ヶ月という間、白磁宮という夢のような場所で与えられた温もりと安らぎの記憶、その手触りの一切を消していく。
最後までの時間、彼女を見つめ続け、騙しとおすには、それが必要だった。
やがてアシャンと名乗るカルハリア人は懐から紙幅を取り出し、シルヴィアという名の帝国の皇女の前に置く。
「解読済みのイン・シァン妃の暗号文……いや手紙だ。気を落ち着かせてから読むといい。何が書いてあっても動じぬよう」
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