第十四章 手紙が宛てられたのは (11)
――まどろみの間中、ずっと誰かが側についていてくれたような気がする。
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「パニエラ様っ!」
血相を変えて飛び込んでくる相手の様子から、おおかたの予想はついていた。
めずらしい、とパニエラは思う。一月も前であれば「またか」と思ったところであろうが、最近では、こういう事はすっかり影を潜めていた。
「皇女様が、皇女殿下がですね――」
「はいはい。シルヴィア様がまたいずこかへ、こもられたのですね。まあとりあえずお前も少し気を落ち着かせなさい。
私も最近わかってきたのだけれど、あの方のあれは言ってみれば蝸牛や亀の習性みたいなものですから、そうそうこの世の終わりのように取り乱す必要はありませんよ。さあ息を深く吸って吐いて、心の中でゆっくり十まで数えて、それから口を開きなさい」
と息をせき切らしている侍女をいなしながら、いっそ面倒事はアシャンに押し付けてしまおうかと思ったところで、当の本人が不在なのを思い出した。なにやら昨晩兵士の一人が宮の物品に手をつけて出奔したとかで、その参考人として侍女長に呼び出されているのだ。
無論そのような不祥事は内々に処理され、関係者には緘口令がしかれるのだろうが、アシャンが戻ってきたならば、その詳細を問いただしたい所ではある。
今朝の皇女の目覚めはめずらしく遅かった。
日は中天を過ぎているというのに寝台から起き出して来ようとはせず、よってパニエラ達は昼餉の時間になっても朝餉が用意できずにいた。
アシャンが残していった備考によれば、昨晩はずいぶんとお酒を召されたようだから今朝は二日酔い。朝餉には胃に負担をかけないものを、また当人が起き出してくるまではなるべくそっとしておいた方が良いとの事だったが。
それがさっきようやく起きだしたと思ったら、さっそくの一騒動と来た。アシャンがいない以上、自分一人では少々心もとない。フィオラでも連れていくとしようか。
「それで今度は一体どうなされたのですか?」
「それがお召し物のお代えしている最中に突然――」
と侍女は事の顛末を語った。
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「あらあらまあまあ、シルヴィア様。そのようなお姿ではお風邪を召してしまわれますよ」
「あらパニエラ様、一概にそうとは言い切れませんわ。最近では健康のためにわざと戸外を裸ですごすという健康法も流行っています」
全裸のシルヴィアは部屋の隅にうずくまったまま、二人の声を聞いていた。
「用意したご衣裳がお気に召さないのであれば、別のものをご用意いたしましょう。兎にも角にもそのお姿では――」
パシンと反射的に肩にかけられた手を振り払ってすぐ、伏せた顔の下でシルヴィアは取り繕う。
「ごめんなさい。怒っている訳ではないの。皆にも怒っているわけではないのだと伝えておいて……ただ少し気が落ち着かなくて、だからいま人に体を触られるのが嫌なの。それだけだから……さいきん衣装の採寸とかで着せ替えられてばかりで、多分きっとそのせいだわ」
「泣いてらっしゃるのですか?」
「これ、フィオラ」
とパニエラは無神経な侍女のすそを引っ張るも、フィオラは「泣きたい時に泣くのは普通のことではありませんか。何も無理して強がられることは――」
「お前は少し黙ってらっしゃい」
パニエラは部屋を渉猟して体を覆うものをとってくると、遠慮がちにシルヴィアの正面に膝をつき「失礼します」とシルヴィアの体を布で覆って正面を閉じた。
「でもフィオラの言うとおりですわ。最近は色々と立て込んでいることですし、結婚を間近にすればお気持ちの整理がつかない事もあるでしょう。シルヴィア様とて皇女であられる前にまず妙齢の女性ですもの、そういう心の揺れを恥ずかしく思うことはありませんわ」
「……結婚」
シルヴィアは口の中でその語句を転がす。
「早くしたいわ。ずっと嫌だったけれど……今は二月も待ちたくない。明日が二月後ならいいのに」
「まあそれは何よりですわ。そのお言葉を聴いたらラバウル公もさぞかしお喜びになることでしょう。そういえばまた大輪の白百合が届いていますが、今度はお目につくところに飾りましょうか」
「そうね。そうして頂戴。部屋に飾ってかまわないわ。いえ、部屋に飾ってちょうだい。きっと戒めになる」
パニエラの顔が曇る。
「やはり政略婚というのが気にかかっておられますか? ですが公爵閣下はきっとシルヴィア様のことを大切に思ってらっしゃると思いますよ」
「相手にとってなんの益のない結婚を、政略婚と呼べるのかどうかは分からないけれど」
と自嘲の笑いをシルヴィアは立てる。
「今はあの男で良かったと思ってるわ。だって私あの男が嫌いなんですもの。嫌いな相手ならば嫌われても軽蔑されても怖くはないもの。期待倒れとがっかりされれば、かえって腹立ち紛れに頑張れるというものだわ」
「はぁ」
とパニエラは返事をなくす。
それでもう緘口令は解けたとばかりフィオラが後を引き受けた。
「シルヴィア様には公爵様以外で、愛しく思う殿方はいらっしゃらないのですか?」
「……いないわ、そんなの。いたとしてもどうせ結婚するのだから、そんなのまるで不毛だし無意味だわ」
「人が人を好きになるのに意味は必要ありませんわ。不毛でもないと思います。たとえ思いが成就しなくとも残るものはございます、きっと」
とフィオラは唇をかむ。
「それは、しない方が楽だという気持ちになる事もありますけど。誰かの幸せを願ったり、出会えた事に感謝したり……恋は人の心を豊かにします」
「そうかしら?」
シルヴィアは呟く。
「私は愛だの恋だのは人を愚かしく醜悪にすると思うわ。お前だったら違うのかも知れないけれど、私だったらきっとそう。
自分の気持ちを強引に押し付けるだろうし、きっと相手の全部が欲しくなる。その手も目も唇も、髪の毛一筋さえも私のものでなければ気がすまないわ。それを誰か別の人間がいじったのかと思うと、その顔も知らない相手をくびり殺してやりたくなるの。一人残らず」
「……シルヴィア様?」
「全部、全部、独占しなければ気がすまないの。自分のものにして、側において、好きといわせて、相手が嫌だといっても聞かないで、困らせて苦しめて、傷口をえぐって、そこに私を刻み込んで、もう二度と忘れられないようにするわ……出会えたことに感謝なんてできない。私の側にいない人間の幸せなんて願ってやらない。私を拒絶するというのなら、もっともっと不幸になればいい。同情や罪悪感だけだったというのなら許さない。絶対に許さない。そんな下らない理由で優しくしたのも、今になって本当の事を告白する相手も、それでもいいと縋り付いた自分も、全部まとめて許さない。そんな惨めな関係が欲しかったわけじゃない。あんな風に傷つけたかったわけじゃない。あんな顔をさせたかった訳じゃないのに。あんな……」
苦しくてたまらないというような顔。慙愧の念。まるで罪の在り処でも見るようにシルヴィアを見て、顔をゆがませ、拒絶した。手を振り払った。理性によるものではなく、どうしても受け付けないものを前にした時の生理的拒絶。
抱きしめてくれとすがり付いて懇願すると、その顔は絶望のようになった。脅えのようでもあった。あんな表情のアシャンを見たのは、はじめてだった。
結局、彼にしたところで自分で思っているほど割り切れてはいなかったのだ。なぜならあれは確かに良心の呵責だった。体で心で全身全霊で応えられないと叫んでいた。
もうこれ以上は苦痛だと。嘘をつくのはずっと苦痛だったと。シルヴィアを抱きしめるのは『嘘』で、だから『苦痛』だと。
拒絶された。だが先に拒絶したのはシルヴィアだ。聞かれ、そして答えられなかった。嫌だといった。耐えられないといった。否定した。
けしかけ、焚きつけ、その古傷をえぐり、塩をなすりこんで、無理矢理のように抱かせるよう仕向けたのは自分なのに、途中で怖くなって腰が引けた。手放した。逃げた。加害者から被害者の位置に逃げ込んで、相手一人を置き去りにした。シルヴィアが耐えられなかったその場所に。
結局、覚悟などなかった自分がうらめしい。だがそれ以上に、今になって罪の意識に怖気づき、残酷な優しさで嘘をひるがえした相手が殺してやりたいほど恨めしい。
……本当は好かれている自信など最初からありはしなかった。だがそれでも自分が望めば抱くくらいの事はしてくれると思っていた。心が手に入らないのなら、せめて体だけでも欲しかった。たった一度でもいい。自分のものにしてしまいたかった。
だがそれすらも重荷だと拒絶されればどうすればいい? 傷つけたのなら……?
「もう頭がおかしくなりそう。いっそ毒でも盛って、この手で殺して全部終わりにしてしまいたい」
「待ってください、シルヴィア様。ひょっとしてどなたかに――」
「なんて」
シルヴィアは顔を上げ、明るい笑顔をのぞかせる。そこに涙の跡はなく、てっきり泣いているとばかり思っていたパニエラとフィオラは顔を見合わせた。
「真に迫ってた? でもね本当に恋をしたら、きっとそんな風に思うとおもうのよね。ほら、芝居や劇でも、登場人物が恋だの愛だのに狂って道を踏み外すという設定はお定まりでしょう? だったら私は恋なんてしない」
恋などしない。恋などした事はない。この先もしない。
これはただの執着だ。現にシルヴィアは応えられなかった。多分、一番応えなければならない時に応えられなかった。
「傷つけあうだけの非生産的な関係なんて真っ平御免だわ。惨めなだけの気持ちなんていらない。でも恋愛は必要に応じてするわ。狂わされるのではなく、相手を狂わせる立場でね。きっと私そちらの才能があると思うのよ。なんていうのかしら? 娼婦の血?」
「シルヴィア様! ご自身の事をそのように――」
「別に卑下して言っているんじゃないわ」
とシルヴィアはぴしゃりと遮る。
「言葉を取り繕ったところで意味が変わるわけではない。だいたいお前だって私の事を絶対にそう思っていないと言い切れる?」
とシルヴィアは表情を引きつらせるパニエラの頬に指をかけ、その輪郭を撫でた。
「ごめんなさい。意地悪なことを言っているわね。でも言わせてちょうだい。私、お前にそんな顔で同情される言われはないわ。
私はもう、自分の血や母様の出自にこだわるのはやめにする。母様は母様、私は私、皇女は皇女、娼婦は娼婦だわ。
娼婦云々が問題なのではない。人が私を娼婦の娘として見、扱うのは私自身が考慮に入れなければならないことだけれども、それ自体が問題なのではない。問題なのは私自身がそう扱わせるに任せている現状。お前たちを含め、部下に己を主人だと認めさせられないでいるという事。それも当然だわ。私はまだ私自身の主にすら成り得てはいないのだから。
あなどられ、言いようにされ、そこで上位者の仮面をかなぐり捨てて泣き叫ぶしか能がない小娘に戻るようならば、それこそ私は娼婦でも皇女でもなく、何の取得もないただの小娘になりさがってしまうわ」
「私は……」
とパニエラは消え入りそうな声で言った。
「さきほどシルヴィア様に問われた事を、恥ずかしながら否定できませんでした。ですがこれまでシルヴィア様にお仕えする事が嫌だと思ったことは一度もございません。僭越ながら楽しいと。最近はそのようにも思っているのです……本当に僭越な物言いで申し訳ないのですが」
「私に言わせれば、お前はもう少し僭越になってくれたほうが丁度いいわ。あんまり堅苦しくされると息がつまるのよ。それに私ね、本当はお前のそういう正直なところが気にいっていたのよ。無理して世辞を言っても顔を見ればすぐに分かってしまうところがね」
クスクスとシルヴィアの口から笑いが漏れる。声帯を震わせ、口からこぼれ、床に落ちて散らばっていく。何かの残骸のように。
「シルヴィア様」
と、この局面と雰囲気にあっては何らかの発言を強制されているように感じたのか、フィオラもまた声をあげる。
「私もシルヴィア様のことを嫌いだと思った事は一度もありません。むしろ好きなのかもしれません。少し羨ましいと思うこともあります。はじめてお目にかかった時も、今も、多分これからもです」
多分というところが秀逸だと思い、シルヴィアは素直な侍女の素直な言葉に目を細めた。フィオラは輝くばかりに美しい侍女だ。
その容姿は言うに及ばず、内面の自信が滲み出るような表情や姿勢。明るく素直で、決して己を卑下しない性格。時として腹立たしいくらいに真っ直ぐな言辞。おそらくその恋も同様なのだろう。
彼女はシルヴィアが少し羨ましいと言った。シルヴィアの方はずっと少しばかりでなく羨ましいと思っていた。
「……いやだわ、私。お前達とだったら恋をしてしまいそう」
ぎょっと目を丸くするパニエラと、わずかに身を引くフィオラを、抱きしめて口付けたい衝動をこらえてシルヴィアは笑った。
「そこでといったら何だけれど二三つまらないお願いがあるの。どれも本当につまらない事なのだけれどね」
「なんなりとお申し付けくださいませ」とパニエラ。フィオラは少し逡巡を見せてから「私に出来ることならば」と言う。
シルヴィアが立ち上がる。
体を覆っていた布が肌を流れて床に落ち、夏の陽光の下に白い裸身をさらけだす。シルヴィアは悠然と顎をひき、侍女二人を見わたした。
「ではまず着替えを。出来ればいずれは私一人でも出来るよう、どうやって着るかもいっしょに教えてくれると有難いわ」
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