第十四章 手紙が宛てられたのは (9)
――ガリッ
とありえない音がした。
唇に衝撃、一拍おくれて激痛。
考えるよりも先に相手を突き飛ばしていた。
「……ぐっ、は……ああ、う」
崩れ落ちた男は、覆った掌の下でくぐもった悲鳴を上げる。指の間からだばだばと血が流れ落ち、床に落ちていった。
口腔に膨れ上がった血の臭気に、火のついたような痛み、さらに覆った掌の下の奇妙な感触ーー本来あるべき部分の欠落。
頭上でものを吐き出される音がして、それが男の鼻先に落ちた。
赤い、小指の先ほどの肉片――月明かりに濡れ、唾液と血にてらてらと光る、かつて男の一部だったもの。男の下唇。その半分。
さきほど皇女に噛まれ、そして今しがたこの相手に――
その事実を理解したとき、男は絶叫した。正確には絶叫しかけた。
「あ、ああ――!!」
ガン、と側頭部に横殴りの打撃がはじけ、悲鳴は途中で途切れ、男は床を転がった。脳震盪にゆれ真っ赤に染まった世界の中、蹴り飛ばされたのだと知る。
床に手をついて半身を起き上がろうとするも、利き手を短靴の底で踏みつけられた。悲鳴を上げそうな痛みに耐え残った左手で腰をまさぐるもそこに佩いていた長剣はない。短剣もあわせて二本、腰のものがなくなっていた。
「お探しのものはこれか?」
と背後から伸びてきた長剣の腹が男の顔を打った。一体いつ――と思いかけて先ほどの接吻を思い出す。
侍女は長剣を部屋の隅に投げ捨てると、男の腕を取って、うつ伏せに引き倒し、肩を支点に逆手にひねり上げた。
ゴキ、という音と共に激痛が走り、悶絶する。悲鳴が喉を駆け上がって、口腔からほとばしる。
「鳴くな。間接を外しただけだ」
上方から振ってくる場違いなほどに平坦な声。
「なるほど。この部屋の壁は厚く外に声が漏れる事はないが、貴様の無様な鳴き声で殿下がお目覚めになってしまわれては何とする?」
そして、もう片方の腕も取り上げられ、同様に外される。やはりゴキ、と総毛立つような音と共に、疼痛が二倍に膨れ上がった。
開いた毛穴からだらだらと脂汗が噴出して、背中をはりつかせていく。
両肩より下を無力化された男は、今度は仰向けにされる。馬乗りにのしかかってくる相手は、かつて男のものだった短剣を握っていた。
やがて上方から刃が垂直に降りてくる。動かないよう固定された男の顔ーー口に向かって。
「どうした? 口を開けろ。さっきまでは聞かれもしない事までべらべらと得意げに喋っていただろう?」
男は抵抗をやめ口を閉じたが、それでも下降してくる剣先の速度は変わらない。
ゆっくりと、しかし、なめらかな動きの等速で刃は下降をつづけ、男の欠損した唇の隙間にすべりこみ、歯にあたって止まった。
動けば切れる、そんな恐怖があって全神経を集中して体の震えをとめようとするが、それは叶わない。震えは止めようとすればするほど、かえって大きくなっていくようだった。
あてがわれた剣先の下、歯と鉄が擦れ合う音がカチカチと響く。頭蓋骨に響く悪夢のような音。
「口を開けろ」
再度、淡緑の瞳の主は命令する。
「大人しく口を開ければ大した怪我はしない。それとも間違って舌まで切り取って欲しいのか?」
いわれたところで開けられようはずもない。
仮に意思の力でそうしようと思っても、唇の間に刃をさしこまれ、歯の根のあわない歯列を凶器で小突かれながら、口を開けというのは無理な相談だった。
「自分では開けられない、か?」
感慨のない声と共に相手は短剣をくるりと返して、柄で男の口を打った。正面横の歯が二三本折れ、鮮血があふれて、男の口腔と周辺部位をぬらした。
さらに顎間接を指でつかまれ、無理やり口を開かされる。
そうして出来た開口部に短剣が、すべって入ってくる。口の中に広がる、血の味とはまた異なる鉄臭い臭気。
進入を果たした異物は、口内の内壁を探るようにゆっくりと動く。その過程、口の中のそこかしこに鉄刃が食いこんでは、時折ぴりと破れていった。
「意外と大丈夫なものだろう? こうしている分にはそんなに大怪我はしない。普段から手入れを怠っている鈍では尚更のこと、切れ味も悪い。
だがそれも時間の問題だ。こうして口を開いたままでは口内に溜まったものを上手く嚥下できない。そうして一定量の唾液と血が溜まり気管支に流れ込めば、咳き込む。刃を口にくわえたままそうなった日にはどうなるか、想像がつくだろう?」
叫びだしたくとも、許しを請いたくとも、口にものをくわえさせられていてはそうする事も叶わない。
男の開いた口には血泡がたまり、見開いた目からは涙が滂沱とあふれ出し耳の横に流れていった。頭上の人間は顔色一つ変えることもなく、そんな男を見下ろしている。
「昔こういう遊びがお気に入りの人間がいてな。そいつはこれを『血の噴水』と呼んでいた。なんでも耐え切れずに咳き込んだ人間が血泡を吹き出しながら悶絶するからなんだそうだ。
剣は古今東西、権力や力の象徴。そして男根の象徴でもある。
悪趣味な見立てが好きな人間でな、刃を口内に挿入するのが第一段階、さらにくわえさせられた人間が舌を使って奉仕するのが第二段階。そして最終段階がさきほど言ったとおりの血の噴水。何をどれに見立てているかは説明するまでもないな。
だが安心しろ。発声機能に損傷を受けるとしてもこれで死んだヤツはいない。せいぜい舌が切れたり、唇が欠けたり、少しばかり口が大きくなったりするだけの話だ。それもコツさえつかめてくれば、だいたい回避できる。まあ運もあるがな」
刃を口にふくんだまま、目だけで恐怖を訴える男を、淡緑の瞳は覗き込む。
「どうした? 薄い反応だな。せっかく貴様の大好きな無理矢理というやつを演出してやっているんだ。少しくらい抵抗して見せてくれなければ、こちらとしても張り合いがない……殿下とてそうして見せたのだろう? 男の貴様が震えるしか出来ないでどうする?」
「……ぅ、あ」
「これが貴様の言う合意の上の行為だ。抵抗してみせても合意。口頭で拒絶するのも合意。手首に痣が残るほど強く押さえつけても合意。ならば抵抗もされず、口頭でも拒絶されないこれは合意も合意だ。違うか?」
口に差し込まれた刃の向こうで、淡緑の瞳が一対、静かに男を観察していた。
「自覚がないようだから言っておくが貴様は童貞以下だ。おおかた娼婦以外の女を抱いた事もなければ、金で抱いた女を悦ばせてやった経験もない。娼婦相手に己の性癖を強要し、客商売用の媚態を見ては相手が悦んでいると勘違いする。
舌をいれれば口付けになるとでも思っているのか? 体をまさぐりさえすれば相手が感じるとでも思っているのか? この下種野郎が」
刃の腹がべったりと舌につけられた。それが少しづつ返され、刃先が立ち上がってくる。ピリと刃先が舌に食い込む感覚と共に男は大きく震えた。
もう持たない。
口の中では血と唾液が洪水になっていて、なのに喉の痙攣が止まらない。この均衡が決壊すればどうなるか。さきほど相手が言及した『血の噴水』とその末路が脳裏をちらつく。限界は近い。
「……は、うぁ……は」
「いい声だ。得意気に貴様自身の自慰行為を語っていた頃よりもよほどいい。もっと鳴いてみろ。殿下が貴様にそうしたように」
「ふ、うぐ、げほっ」
喉の圧迫が決壊する寸前、見越していたかのように短剣が口内から引き抜かれた。男は顔を横にして唾液と血の交じり合った液体を吐き出し、咳き込んだ。
「意外ともたなかったな。頑丈そうに見えるのは体だけか」
ぞっとするほど平坦な声が降ってくる。
|