第十四章 手紙が宛てられたのは (5)
赤銅の水差しを傾けて、杯に水をそそいでいく。七分でとめて水差しを卓の上に戻し、しばらくその波紋がおさまるのを見つめていた。
「水を飲んで酒を薄めろ。少し頭を冷やせ」
シルヴィアは杯を受け取ると、自分の唇に運ぶかわりにアシャンの顔にぶちまけた。水はアシャンの顔となく髪となく濡らし、顎から床にしたたりおちていく。
「頭を冷やすのはお前よ。抱けと言ったのが聞こえなかったの?」
『誘っている』といわれただけで別に『抱け』と言われた覚えはないが。
アシャンはずぶぬれになった顔をぬぐう。
「……念のために言っておくがこんな事をしても俺は――」
「馬鹿じゃないの!?」
はじかれたようにシルヴィアは叫んだ。
「馬鹿じゃないのっ!? 自惚れないでよっ!? そんな訳ないじゃない。それに私が何をしたって、それでお前の気が変わるわけでもないじゃない。そんなの……まるで無意味じゃない」
それはそうだが、なら今夜の錯乱ぶりはなんなのか? ただの酒乱なのか?
「ただ私はもうすぐ結婚するから、そうしたら当然、夜の勤めだって果たさなくちゃならないでしょう?
そういう時にあの男に遅れをとるのは嫌なの。いいように扱われるのだけは絶対に嫌なの。何も知らない小娘みたいに取り回されるのは我慢ならないの……実は私」
シルヴィアは驚くべき秘密を打ち明けるかのように言いよどんだ。
「経験ないのよ。その、男女の」
「……」
ここは驚いて見せてやるべきところなのか。
「だからこの際お前みたいな女男でも我慢してあげると言っているのよ。十七歳の生誕祝いってことでもいいじゃない。どうせもうすぐいなくなるんだしお互い後腐れもないでしょう? せんべつ代りって事でもいいわ」
アシャンは困惑した。
なんだろう? この女にとって処女は恥なのか? 道端の犬にくれてやる感覚なのか?
それは既婚者ならそういう風に感じるのも分からなくはないが、未来の夫に初夜で遅れをとりたくない? なんだ、それは?
それに相手は三十も大台の百戦錬磨の中年男、普通にいってシルヴィアの年齢で渡り合うのは無理な相談だ。それこそ生娘であろうがなかろうが。
「……知っているか? 初夜の夜には成婚の証として、花嫁が初婚の場合は破瓜の血を証拠として示さなければならない。
カルハリアにはそんな野蛮な風習はなかったが、とにかくこちらではそうでないと不味いわけだ。つまりあなたには処女である必要がある」
大真面目でそんな事を言ってきかせている自分がひどい間抜けに思えた。
「そんなのその筋の産婆をやとうなり血詰めの袋を仕込むなり、いくらでもやりようがあるじゃない。
だいたい最近では初婚であろうがなかろうが花嫁が処女であるほうが珍しいくらいなのよ。心遣いとして初夜のベッド脇には、赤ワインの小瓶がおいてあると聞くわ。だから全く問題ないわ。
大体お前、湯殿で私を抱こうととしたわよね? まさか『不能』という訳ではないでしょう?」
頭痛を感じた。
なるほど。耳年増で、しかも偏った知識ばかりが豊富なようだ。
もうこれ以上の会話は無駄だと思い、アシャンは箪笥から自分の着替え一式と体を拭く厚手の布を取り出して、寝台の上のシルヴィアに放り投げた。
「悪いが、酒と泥にまみれた女を抱く趣味はない。そっちのたらいに水がある。体を拭いて着替えろ。少し大きいかも知れないが今のままよりはましだろう」
「……自分で着るの?」
「服の一着や二着なら着脱自由なんだろう? 湯殿でそう言った」
「脱ぐのは多分。でも着るのは……」
自信なさそうに言いよどむシルヴィアを無視して、アシャンは机の前に座って背をむける。
頼まれても着替えさせてやる気など毛頭なかった。
それで今度こそ風邪をひいたところで自分の知ったことではない。大体あれだけ酒で血行がよくなっていれば、すぐには風邪を引くこともないだろう。
なぜそんなにも自分が不機嫌なのか分からなかったが、とにかくアシャンは不機嫌だった。今夜のシルヴィアの何もかもが不愉快で、我慢ならなかった。
こんな夜更けに、突然部屋に押しかけられた事も、彼女の行動の軽率さも寝室を抜け出すためにとった手法も、珍妙な理屈をこねくりまわして抱けと迫ってくるのも、その挑発的な言動の数々、生娘とは思えぬほどのあざとい誘惑の手法も、そんな彼女に多少ならず煽られている自分も、一連の奇行の原因がどうやら自分にあるらしいということも、何もかもが吐き気がするほど忌々しい。
何かがおかしい。何かが変だ。はたして歯車が狂っているのはシルヴィアか、それともアシャンか。
ここしばらく胸のうちに沈んでいた、どす黒い染みが浮かびあがってきていて、それがどんどん広がっていくような気がした。
後ろから衣擦れの音が聞こえてくる。
気配から察するところ、どうやら前をはずしているようだが、苛立たしいくらい手間取っている。もたもたもたもた、釦≪ぼたん≫の五個や十個に一体いつまでかかるのか。
「今日のお前は髪を縛っているのね。いつもの薄化粧もしていないし……それでも女に見えるあたりが腹が立つけど、紅顔の美少年に見えなくもなくてよ。なんだか可愛いわ」
「髪を縛っているのはさっきまで書き物をしていたせいで、夜に化粧を落とすのは普通のことだ。特別なことのように言うな」
処女だと打ち明けたと思ったら、こんどは年上気取りか。
今までずっと、それは何でもない事だったはずなのに、今夜はそんな些細なことに神経を逆撫でされて仕方ない。
その余裕気な態度も、年上ぶった話し振りも、『紅顔の美少年』などと言う虫唾がはしる言い回しも……もう二度とそんな口がきけなくなるような目に合わせてやりたくなる。
「明日からは髪を縛っておいでなさないな。そんな無造作な縛り方ではなく、もっと綺麗に編み込んだ髪型がいいわ。ソフィアにもその方が受けがいいと思うわよ」
「着替えろ。それ以上無駄口を叩くと、そのままの姿で放り出す」
攻撃的な気分は募るばかりだった。
当初、感じていたような静謐は、当の昔にどこかの酔っ払いに土足で踏みにじられていた。文字通り泥だらけの素足で。
そうえいえば一体全体どうやってここまでやってきたのだ?
地図であたりをつけていたにしろ侍女部屋まで来るのも初めてだっただろうし、昼と夜とでは勝手が違う。迷いはしなかっただろうか?
足に泥がついているのは人目につかないように中庭を突っ切ったせいか? 最初から裸足だったのか、途中で履物をなくしたのか? そもそも、夏とはいえ夜ともなれば肌寒いのにショールも何も羽織っていないとは、どうしたことだ?
いくら自分の宮とはいえ、あんな薄布一枚きりでうろついて間違った人間に捕まったらどうするつもりだったのか? 世の中、理性的に行動する人間ばかりではないし、シルヴィアのように酔っていないとも限らない。
そもそもくだんの衛兵は一体、なにを考えている。
職を失いたくないなら、最初から唇など拒めばいいのだ。男女の膂力の差があれば、いくらだって拒めるはずだ。人を呼んだっていい。
大体、二人一組で任にあたっていたはずだ。もう一方はどうした? まさか両方とも口付けで買収したのか?
なにをそうまでして今夜にこだわった? 話があるなら明日の朝を待てば良かったではないか?
それをこんな訳の分からない事を言い出すまで酔っ払って、裸足でここまでかけてきて、その理由といえば『抱け』と命令するためだと? ふざけるな。
アシャンは机の端を神経質に指で叩いている自分を発見する。広がっていく黒いなにか。それを掌ごと握りつぶして、アシャンは正体不明の焦燥を馴らそうとした。
どのみち、その馬鹿どもは罷免だ。
明日一番で、その一人なり二人なりは白磁宮のみならず、この皇宮から永久追放される。
だからこの先、もう二度とその下手糞がシルヴィアの視界に入ることもなければ、下手糞の視界にシルヴィアが入ることもない。永遠に。アシャンと同様、永遠に。
それで終わり。きっとそれでもう自分の役目は終わりだ。
たとえいま彼女が自分相手にどれだけ執着をみせようと、そんなものはいずれは時の経過とともに薄らいでいくに違いない。酒に酔ったようなものだ。まわった酔いは、いつかは醒める。
所詮、この女は自分がどいう人間なのか知りもしないで、分かった風な気になっているだけだ。
ただアシャンが作った仮面のなかに、自分の求める偶像を投影しているだけ。自分より年下の『不幸』なカルハリア人に同情している事もあるだろう。
慈善気分であたたかいものを施して、惜しみなく笑顔を振りまいて、優しい手を与えて、救えるなどと聖女気取りの自己陶酔を恋愛感情に置き換える。自分で作り出した偶像に恋をして、となれば処女をくれてやるのは美々しい自己犠牲の一環か。
シルヴィアはきっと自分を愛しはじめている。それはそうだろう。人間はいつだって己よりも不幸なもの、劣等したものを愛するものだから。
この女は自分の望むものをアシャンに求めて、押し付けて、アシャンもまたそれに良く応えてやった。計画的に、だ。計画的に演じた。何を、誰を演じていたのかは今となっては分からないが、兎にも角にも演じた。彼女を愛している誰かを。必死に。
自分自身ですら時折信じてしまいそうなほど心をこめて、演じた。必要だったから。ただ必要だったから。それだけだ。それだけのはずだ。
なぜならその演技はいつだって、まるで見知らぬ他人になりきるように難しく、不得手な感情を必要とした。苦痛だった。ずっと苦痛だった。首を絞めるほうがよほど簡単で、自分らしかった。
それに、彼女にしたところで渇望を満たしてくれる相手なら誰でも良かったのだ。その間隙に乗じたのが自分というだけで、何一つ自分でなければならない理由はなかった。
「アシャン、お願い」
酒の匂いで存在を主張して、背後から腕が伸びてくる。首筋にまわった手がアシャンの詰襟をほどきはじめた。少しだけ震えている指の感触。それを止めようとすると泣くような声が耳元におちた。
「お願い、拒まないで」
シルヴィアはまだ着替え終えてはいなかった。
酒に濡れ、上半分の釦がはずされ前が開いた寝巻き姿、双丘の頂ちかくまで露になった体が、明り取りの光に揺れて陰影を刻んでいる。
振り向いたアシャンの頬を指で手繰り寄せて、シルヴィアは上から覆いかぶさるように口付けた。アシャンが教え、アシャンが騙し、アシャンを好きだといった女の口付け。
熱い舌が割り込んできて、それに応えると、どす黒い何かがまた一段と黒さを増した。耐えられなかった。
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