第二章 白百合の花詞は (1)
「まったく、肝を潰すかと思ったわ」
と、シルヴィア皇女の居室を出てまもなくパニエラは盛大な溜息と共にそう言い放った。
「心配と迷惑をおかけしまして申し訳ありません。反省しています」
アシャンはそう言って先輩筋にあたるパニエラに頭を下げた。
「また殿下の不興を蒙る覚悟で、私を庇っていただいたこと、申し訳なくも有難く思っています。本当にありがとうございました」
真面目な口調でそう言って低頭したアシャンに、文句を述べる出鼻をくじかれたパニエラは「別に、そういうつもりで言った訳ではないのよ」と途端に声を和らげた。
なんとなればパニエラはこの新入りの侍女を気に入っていた。
寡黙だが真面目で慎ましやかだが、どこか凛とした雰囲気をただよわせるアシャンは、年若い侍女から年配の侍女長にまで好かれる不思議な特質を備えている。
「お前だって入って間もない所で駆り出されたんだもの。ましてや相手があの姫様ではね……何事かありはしないかと心配していたのよ」
「…と、いいますと?」
アシャンは聞いた。
「いえ、ほらね。大きな声ではいえないんだけど…」
とパニエラは回廊を見渡し人の不在を確認すると、それでも声を潜めるようにしてアシャンに身を寄せる。
「お前だって思ったでしょ。シルヴィア様は癇が強いというか、とても気難しい御方なの。私達、侍女を試すような事を言って困ったこちらの反応を見て楽しんだりなさるなんて、しょっちゅうの話だわ。それに、ご自分の気に入らない受け答えをするものには容赦がない。今までにもう何人の侍女が不興をかって宮から追放されたことか……お前にもその人手不足を補うために来てもらったのだけれど」
「パニエラ様は…その、皇女殿下のことがお嫌いなのですか?」
そう問われたパニエラは肩をすくめる。
「嫌いとまでは言わないけど……仕えにくいという事は確かね。あの姫様の前に出るとき皆、ぴりぴりと神経を張り詰めているわ。なにしろ、どんな小さな事を見咎められて難癖つけられるか……お前のことにしたってお顔を傷つけた事だけならいざしらず、出身のことでもあそこまで嫌味たらしく…ねぇ?」
同意を求められたアシャンは困ったように笑って見せた。
「きっと唯一のご自慢である肌を傷つけられて、腹が立ったのよ。なにせ外見にはあまり恵まれなかったようだから」
「…外見? そんなに不美人であったようには思えませんが」
アシャンは脳裏に先程の皇女の姿を思い出す。
美貌…とまでは言わないが、黒目黒髪に薔薇色の唇が陶磁の肌によく映えた、それなりに見栄えのする姫であったような気がする。顔立ちも華美ではないが決して悪くはない。
「それは、お前。妹君様の美貌をご存知ないからそう言えるのよ。ソフィア皇女殿下に比べたら、シルヴィア様は…こういってはなんだけど宝玉の前の石ころほどにも、くすんで見えるわ」
そういってパニエラは声を潜めつつ、いかにソフィア皇女が美しいかを熱のある口調で語った。
「顔立ちもそうだけど、月の光を紡いだかのようなソフィア様の淡い金髪といったらっ…華麗にして品があって…やはり女に生まれてきたからにはああいう容姿でありたいものだわ。それに比べてシルヴィア様の烏のような黒髪黒目の容姿………」
戯曲のように、そこで声を潜め、自分を覗き込むパニエラ。苦笑を隠すのに苦労した。
「それは、まあ、白い肌に良く映えて、なまめかしいというか異国趣味の殿方がそそられるのも分からないではないけれど」
確かにアシャン自身、皇女があそこまで顕著に異国の容貌を表しているとは思わなかった。
皇帝の愛妾であったシルヴィア皇女の母親は、確か東の国の人間だったと聞いている。それも卑しい出自の。
「でもやはり、ああいう色合いは品の良いものではないわね。なんとなれば、あの御方のお母上は異国の踊り子崩れですもの。血筋でいえば仕えている私達の方がずっと良いくらいだわ」
くだらない競争意識ではある。
血筋で劣っている相手に対して、身分ゆえに頭を下げ、膝を折らなければならない事を屈辱と感じる。自分よりも不美人な女が、なぜ男にもてるのか分からないといった心境と、どっこいだ。
人種だとか血統だとか地位だとか、そういったものの中からしか彼我の関係性を計れない。
だがパニエラばかりを責めることは出来ない。貴族に生まれた彼女達は正にそういう尺度を持って判断し、判断されて生きてきたのだから。いまさら生き方を変えろといっても無理な相談だろう。
それに主人の面前ではかしこまっていても、いないところでは侍女など大概はこんなものだ。
ふと、思う。
あの高慢で自意識ばかりは、やたらと高そうなお姫様が、この会話を聞いたら一体どんな顔をするだろうか?
地団駄を踏んで癇癪を起こすだろうか?それとも表面だけは冷静に、自分に恥をかかせた人間達の処刑なり追放なりを命じるだろうか?
あるいは、とも思う。
自分が影でどう言われているか薄々感づいているからこそ、侍女達の慇懃な態度に苛立ちを覚えるのかもしれない。それで、いちいち試すような事をするのだろうか?
だとしたら―――
アシャンは表情もなく笑う。
(なんとも幼稚なことだ)
子供が親に振り向いてもらえず、だだをこねるのと何ら変わりはしない。
「いずれにせよ、アシャン。そういう訳だから、あの姫様に気に入られたようだからといって、安心しては駄目よ。むしろお傍にお仕えする方が大変なのよ。なにせ気紛れなお方だから、いつお気に入りからお払い箱に転落するか」
お喋りで、お節介で、お人よしのパニエラ。
アシャンは微笑を口の端に上らせる。相手に効果的だと分かっている、控えめで純朴そうな微笑を。
「私の身を心配してくださって、ありがとうございます。でも、どうか今後は私を庇って殿下の不興を買うような真似はおやめください。パニエラ様がいなくなられたら、それこそ私は、この右も左も分からぬ宮廷で一体誰を頼りにしたら良いか分からなくなってしまいます」
「まあ、そんなこと。私だってそこまで頼られるほどの人間ではないのよ」
そう言いつつも、まんざらでもなさそうに顔を赤らめるパニエラに向かって微笑みかけながらアシャンは思う。
あながち嘘ではない。自分はパニエラの事を得がたい存在だと思っている。
実際、彼女は使える駒なのだから。
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