第十四章 手紙が宛てられたのは (2)
「アシャン、私の味方はお前だけよ」
とシルヴィアはその両頬をおおって接吻をほどこす。相手はいやいやするようにシルヴィアから逃れようとするが、そこは主人の権限で構わずに抱きしめてみた。
「そんなに嫌がらないで。私はこんなにもお前を愛しているのだから」
「おい」
「本当に全部お前のおかげよ。いつも支えてくれてありがとう」
「そんな事をして楽しいか?」
「大好きよアシャン」ともう一度、口付け。
「だから、そんな子供じみた嫌がらせが楽しいかと聞いている。後その猫の名前は『アシャン』じゃない。勝手に縮めるな」
窓辺のシルヴィアは腕の中の仔猫と一緒に、アシャンを振りかえる。
「あらいやだ、見なさい『白いアシャン』。偶然お前と同じ名前を持つ人間がご機嫌ななめよ。いやね、自分に言われたとでも思ったのかしら? 自意識過剰って言葉を知らないのかしらね?」
ナァと返事をする仔猫と、そんなひそひそ話をしてみせるのが最近のシルヴィアの日課だった。名付け親はシルヴィアであり、その命名にフィオラが多大の賛意をあらわしたことは言うまでもない。
実はただの『アシャン』にしてやろうかとも思ったのだが、流石に紛らわしいので自粛した。それで仔猫の名前は『アシャン・ビアンカ』――すなわち『白いアシャン』。
妥協はしたものの、シルヴィアをはじめとする女衆が『アシャンや、白いアシャンや』と仔猫を|弄≪いじ≫るときの彼の表情は、十分にシルヴィアを笑わしてくれる。まったくもって、この名前にして良かったと思う。
「それとも何、この子の名前を変えて欲しいの? ミャア、と可愛く鳴いて頼まれたなら一考してあげても良くってよ、腹黒アシャン」
「そんな事よりも手紙がもう一通残っているだろう」
「ああ」とシルヴィアは、仔猫を絨毯の上におろして、忘れかけていたもう一通のほうを手にとってみる。
ソフィア皇女が何を思って数いる庶出の異母姉妹のなかでも自分ばかりを気にするのか分からないが、こんな風に手紙をもらうのは初めてではない。
そしてその中身が読むに値するものだった試しはなく、開封があまり気乗りしない手紙ではあった。
「まさかとは思うがマファルダ皇后からという線もあるだろう。いちおう開けてみろ」
金木犀の香りをつけられた封書は通常のものより重量感があった。それもそのはずで振ってみると、かさかさと音がする。中に何かが入れられているのだ。
そこにいたって流麗な草書体で書かれた宛名が目に入り、シルヴィアは一つの過ちに気づいて、口うるさい同席者に手紙を押し付けた。
「間違いなく皇女からのもので、しかもお前宛よ。いつかの返礼として中に薄刃でもしこんであるのではないかしら?」
宛名は「私の指輪を許可なく拾った無礼者へ」とあった。
果たしてアシャンがペーパーナイフで封蝋をやぶると、真っ先に転がり出てきたのは指輪だった。しかも台座の石が見事に割れた、いや、割られただろう指輪。
「孔雀石の指輪だな。おそらくはあの時のものだろう」
まるで人事のような感想をのべてアシャンは手の上で封書を振る。壊れた孔雀石の欠片が数片と共に、掌におさまるほどの大きさの紙が一枚すべりでる。
透かし彫りの花紋を四方の隅に散らした長方形の中央。美しい筆跡とは対照的にどこか幼い印象をぬぐえない文体で、たった一文こう書かれていた。
――お前が壊れた孔雀石の代わりになりなさい。
■
シルヴィアは動悸が早くなるのを自覚した。
手紙自体は、なんら強制性を帯びてはいない。
その手紙はアシャンに向けられたものであって、シルヴィアに対してではない。
侍女には仕える主人を変える権利はない以上、仮にその侍女に自ら望んだところでシルヴィアの承諾がなければ話は進まない。
シルヴィアの頭を飛びこえて表向きには選択権のないアシャンに宛てられた以上、その高飛車な文面に反してこれは命令ではない。
言うなれば、これはソフィア皇女がアシャンに宛てた恋文なのだ。
シルヴィアにとってこの手紙が強制性を帯びるとしたら、それはアシャンが彼女の求愛を受け入れる場合。
そしてアシャンの目的にとってみれば、シルヴィアなどという形ばかりの皇女の側にいるよりも、皇后の娘であるソフィア皇女の側付であるほうが、どれだけ都合がいいか知れない。
カルハリア人ということで、はみ出し者の皇女であるシルヴィアの下に配属されただけで、アシャンとて本当は最初から本宮の人間に仕えたかったに違いないのだ。
「どうやらソフィア殿下はお前をご所望のようよ。良かったではないの」
シルヴィアは努めて明るい声を出した。
「孔雀石の代わりに自分の身代わりとなって砕け散って欲しいのですって」
「ああ、そのようだな」
「……ソフィア付なら陛下と直にせっする機会もあるかもしれなくてよ。少なくとも私よりは多いはずだわ」
「そうだな」
いい加減な相槌を打つアシャンは、シルヴィアを見ていない。淡緑の瞳は手元の紙にそそがれ、冷静にその価値を計っているようだった。
自分をみないアシャンに、シルヴィアは一層あかるい調子で語りかける。
「喜ぶべきなのでしょうね、私は……実を言えば、すこし拍子ぬけしてしまったのだけれど」
アシャンにとって朗報であるばかりではない。
それはシルヴィアにとってこそ吉報と呼べるのではないか?
アシャンがソフィアの側付となれば、この関係も終わる。
書かされた表明文を忘れているわけではないが、それはアシャンにとって白磁宮を去った後もシルヴィアが彼を売らないという保障にもなるのだから、それこそアシャンにしてみれば気兼ねなく去れようというものだ。
そしてもしそうなれば抑止力として以上に表明文が使われることはない。
そんな気がした。
シルヴィアが彼の利に反して動かないかぎり、アシャンという人間は最低限の信義は守る。自分がおとなしく口をつぐんでいるかぎりは、この少年はもののついでとばかりにシルヴィアの裏切りの証拠をも冥府まで持っていってくれるだろう。
そんな曖昧な、しかし忌々しいくらいの確信がある。一体いつからそんな確信が自分のうちに根付いてしまったのか分からないが、とにかくそれは厳然とそこにあった。
所在なく胸のまえに合わせた掌に、汗が溜まっていく。
売れるのか?
とシルヴィアは自問する。
そんなアシャンを迷いなく売れるのか? おそらくは皇帝暗殺という以外、彼の目的や真意を計りかねている自分が。
それにもうアシャンを売ることはシルヴィアの不利にしかならないのだった。
彼を告発した場合、シルヴィアは彼の正体を知るに至った経緯を語らねばならず、そこに表明文がでてくれば、嫌疑をかけられるのは免れない。
アシャンを売ることで、失うものは多く、保障されるものは何もない。
代わりにこのまま何も見なかったフリをすれば安泰なのだ。
皇帝暗殺が実行された場合、シルヴィアはせいぜい『元』主人としての取調べを受けるくらいで、責任を追及されるにしても最低限にとどまるだろう。
実行犯として女装のカルハリア人。
黒幕として元カルハリアの重臣だったランク卿。
二人の渡り役として『ヘザル』という名の侍女アシャンの婚約者。
多少、奇天烈な取り合わせだが役者は間に合っていて、シルヴィアの名前は最初から蛇足だった。
そもそも一体、何を惜しむことがある?
もう何かを強制されることもなければ、喉元に刃をつきつけられる事もない。その一挙一動に振り回されることもなければ、穴倉のような図書館で無味乾燥な資料の発掘を手伝わされることもなくなる。
馬鹿にされたくない一心ではじめた猛勉強。
嫁入り修行にかこつけて政治や地理や歴史の教師を手配させ、輿入れ準備をかいくぐって授業を受けて、衣装の採寸などの間に頭の中で復習して、アシャンや侍女たちの前では『教師が仕事熱心で困る』『やっと解放された』などと言い訳をわすれない。
そんな虚勢も必要なくなるのだ。
いつかは追いつき追い抜くのだと自分で自分を発奮させて、床についたよう見せかけたあと一人寝台を抜け出して、こっそり続けている深夜の自習も。
見つかって小言をくわないようにと、光がもれない厚手の冬物に代えさせたカーテン。それを隙間なく閉じるために格闘することも、いまだに勝手のつかめない灯火具や点火器具の取り扱いに一人で四苦八苦することも、もう。
絡まりあっていた何かが急速にほつれていくのをシルヴィアは感じていた。
「ソフィアには気の毒だけれど、何だったらこちらから紹介状を書いてあげるわよ。だから今度は……」
一つ息をのんで、シルヴィアは声を立てて笑った。
「男だとばれないようにしなさいね」
試したのかもしれない。
逡巡を見せて欲しかったのかもしれない。
しかし、ちらりと顔を上げた淡緑の瞳は平素と変わらない色でこう応えた。
「ああ。今の時点で皮算用をするのもなんだが悪い話ではないな。次に皇女からあなたに直接話があった場合は、せいぜい返事を出し渋って、焦らしておいてくれ。こういう手合いはあっさり手に入れたものは、あっさり飽きる」
がんじがらめに自分を縛っていた糸がほどけていく。
食い込むほどに痛かった拘束は、もはやシルヴィアを繋ぎとめない。未練もなく一方的にほどけていく。
シルヴィアは枷≪かせ≫をはずされて自由になる気がした。元通り、何もない自由に。
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