第十三章 羊皮紙に埋もれて (3)
古い羊皮紙と埃の匂い。採光窓から伸びてくる光の柱の中で舞い上がった埃がワルツを踊っている。数千年という時間の記録を内包し、外界の時間から隔絶された知の殿堂。
その中で場違いなまでに軽やかな笑い声が反響する。
「これって何かものすごく間違ってやしないかしら」
「ああ間違ってるな……それにまだ食事の部分が残っている」
「食事は卓の下ではなく、上でするものよ」
とまたも笑い出すシルヴィアの唇をふさぐ。
性急なのは最初だけ。
一度、二度、三度。角度を変え、加減を変えて、何度もついばむような接吻をした。つけては浮かし、浮かしてはまたつける。薄紅色の唇がみずから弛みはじめ、迎え入れられるまで。
そうして開きかけた唇を割り、侵入を果たすや否や、
「――っ」
驚いてシルヴィアから身を離した。じわり、と口内に金錆びた味が広がっていく。異変の元凶はしてやったりとでも言いたげな表情で黒眼をくるくるさせる。
「間違えないで、アシャン」
舌を噛まれたのではない。唇を噛まれたのだ。本気ではないにしても、とても甘噛みとは呼べない強さで噛まれた。
触れて確認しようとするも、つないだ手がアシャンをその場に押しとどめた。
今度はシルヴィアの方から顔を近づけてくる。そしてアシャンの口の端、滲んだ血をぺろりと舌で舐めとった。
「食事をするのは私よ。お前じゃないわ」
何かを言おうとすると今度は本当に唇をふさがれ、上から体がのしかかってくる。
軽い、しかし確かに人一人分の体の重みでアシャンを床に倒すと、シルヴィアはさらに深く身をかがませて己がつけた噛み跡を吸った。ちり、と針のような痛みが走る。
接吻ならぬ食事に応えようとすると、喉元に手をあてがわれて制された。かつてアシャンが彼女にそうしたように喉仏に指を押し当て圧迫してくる。
そうして組み伏せた姿のままシルヴィアは咬傷を嬲りつづけた。裂くように舌で傷口を押し広げ、あるいは歯を立ててさらに出血を強い、そうして傷跡の血を全て吸い取っていった。
「ごちそうさま」
薄闇のなかで煌めく金色の光彩が、アシャンを見下ろしている。じっとこちらを注視してくる黒と金の瞳を見上げながら、こんな角度から彼女を見るのは初めてなのだと気づく。
自分を睥睨するシルヴィアは綺麗だった。
帳のように落ちてくる直ぐな黒髪も、飽食にあいた肉食獣さながらチロリと血の付着した赤唇をなぞる、その動きさえ。
はじめて彼女のことを美しいと思う。背筋が凍るほど美しいと。
■
完全に意表をつかれた事に、どう返礼したものか考えていたころ。
「……不味い」
やおら彼女は口元を押さえた。
「血なんて美味しいものじゃないわね。どうやら私は吸血鬼にはなれないみたいだわ。若い男の生き血を吸ったり血風呂で湯浴みすれば美しくなると聞くけれど。残念だわ」
上に乗っかったまま、臆面もなく感想を述べたてる女がいた。
やや捻じ曲がった吸血鬼像を引き合いにだすシルヴィアをどかし、アシャンは起き上がる。上手く間合いを外された気がした。
「噛み付くのも結構だが、次からは人の目につかない場所にしてくれ」
妙なことを教え込んでしまったのは自分という気もしないではなかったが、性懲りもなくこの女の行動に振り回されている自分が忌々しい。
手が触れただけで顔を赤らめる女は平気で男の唇を噛む。いまだにこの女の基準がわからない。
「あらどうして? また婚約者にやられたとでも言っておけばいいじゃない……ねぇアシャン、そのヘザルという男ともこういう事をしたの?」
軽口を気取りながらもふいに真面目な顔になったシルヴィアを無視して、アシャンはすべての発端となった三折りの羊皮紙を回収し、卓の下を出る。
くだんの紙は二人の下敷きにされていたせいで少し皺になってしまっている。
「『ベルトテゼラン』とは? 会っているんでしょう? ラバウル公の従者と」
果たして注進におよんだのはフィオラかパニエラか。心配とも猜疑ともつかぬ表情で彼女は言った。
「男心をもてあそぶのは感心しないわよ」
「そういうあなたも今度からは自分の婚約者のほうに噛み付いてくれ」
「それくらいだったらその従者のほうに噛み付くわよ。お前の二股行為についてでも語り合いながらね……なにそれ?」
遅ればせら気づいたようにシルヴィアの視線がアシャンの手元の羊皮紙に向かう。
資料室の本とは紙質がことなる羊皮紙はやはり乱丁などではなく、第三者によって持ち込まれたものであるらしかった。
指でなでてみると上等な紙であることがわかる。厚みがあって表面をけずって再利用できる型のものだ。
「どこかの資料の間に挟まっていたのだろう。覚書きか何かだと思うが」
開くと、畳まれた羊皮紙にこもっていた匂いがふわりと浮き立った。古い紙の匂いだけではなく、微量ながら変質した香料の匂いが嗅ぎ取った気がした。
黒いインクが少しにじんだ長い文字列が目に入る。しかし――
「なんて書いてあるの?」
「わからない」
知らない言語というわけではない。
見覚えのある字面からして、おそらくそれは大陸公用語で書かれたものだった。ただその文字の配列が意味をなしていない。アルファベットを無作為に並べたような体裁だ。
「……おそらくは暗号化されているのだろう。学者や研究者の間ではそう珍しい事でもない。しかしまたずいぶんとお粗末な筆跡だな」
「まあ暗号。錬金術師の論文か何かかしら? 死者をよみがえらせる法でも書いてあったりして」
覗きこんできたシルヴィアに紙を手渡す。今度は顔が赤められることはなく、注意はもっぱら初めて目にする『暗号文』に向けられ、興味津々でとりまわしている。
しかしその文字列を眺めるほどに彼女の顔から笑みが消え、みるみる強張っていった。
「どうした?」
「これ……母様の筆跡だわ」
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