第十三章 羊皮紙に埋もれて (1)
「こちらが建築時の資料、あちらがその閲覧室となっておりますが、なにぶんにも古いものが多く年代順に整理がなされていなくて、お探しの資料が見つかるかどうか……しかし珍しいですね。シルヴィア殿下がこちらにおこしになられるのは」
壮年の司書は、別段うたがう風もなく素朴な疑問を口にした。
「ええ、実は私が嫁いだ後の白磁宮はソフィア殿下のお住まいとなるのでございます。となれば不守備でもあれば一大事。
恐れ多くも異母姉の立場にある私としては、過去の記録をさかのぼって普請の具合から庭の土の質まで、微にいり細にいり調べつくて白磁宮という建造物を良く理解した後、傷んだ箇所を補強し、完璧に手入れを施して、お譲りしたいのでございます。そう手入れをつくして、でございます」
とシルヴィアは強調して続ける。
「元気に良くのたうつ、土壌にあった地竜もたくさん集めて土を肥えさせておかねばなりませんし、柱の透かし彫り一つにとったところで、陛下が母のために選んだその意匠の意味を由来も含めて、丹念に書き付けを残してお渡しするつもりですの……この気持ち、司書殿にもお分かりいただけますでしょうか?」
典雅な微笑でシルヴィアは長広舌を締めくくった。
さきほどまでは初めて目にする黒髪の皇女に好奇の目を向けていた壮年の司書は、そこでシルヴィアの毒にあてられたように顔をひくつかせる。
「ああ、はい。それはそうですね、心中はお察ししますとも。この度は真に……なんと申せましょうか、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
とシルヴィアが作り笑いを濃くすると、司書は焦ったように方向転換をはかった。
「そういえばイン・シァン様も、よくこちらを訪れて、東方の書物を閲覧なされておりました。こちらの資料室のほうにも人が来なくて落ち着くとおっしゃっては、閲覧室でひとり物思いにふけられているご様子でした」
「そうですね。どのような虫がどのような土の質に合うか物思いにふけるには、ぴたりにございます。
東方につたわる蠱毒という虫についても、多少は興味もあることですし、後で東方文献のほうへも足を伸ばしてみようかしら? その時はまた御手をわずらわせるかもしれませんが、今はまだ物思いにふけりたい気分ですので、どうぞ司書殿は私達にお構いなく元のお仕事にお戻りいただけますよう」
「……で、ではごゆっくり。私は写本室のほうにいますが。御用の際があれば何なりとお申し付けくださいませ」
と司書は資料室を逃げるように辞した。
■
はたして司書の申告どおり、いやそれ以上に、建築資料室の資料は時系列順に整理されていなかった。
まともに整理されているのはせいぜいここ五年分くらいなもので、それ以前になるとお手上げである。一度全部取り出して、しっちゃかめっちゃかに掻き混ぜて戻したのでもなければこうはならないのではと疑いなくなるような状態だ。
司書の職分はこうした事態を避けるために存在しているのではないか、とアシャンは憤慨する。とんだ棒給泥棒である。
羊皮紙の山をその紙の痛み具合から大まかに選り分けて、個室になった閲覧室の長卓いっぱいに広げ、あるいは積み上げながらアシャンがいった。
「ずいぶんと乱暴な言い訳だったな」
「そう?」
とシルヴィアは長卓と羊皮紙の束の向こうで相槌を打つ。
「どうせ私はああいう人間だと思われているのよ。噂に忠実に振舞っただけだわ。人々の期待に答えるのは皇族の義務でなくて?」
「偽悪的なのは感心しない。あれでまた新しい噂が立つぞ」
黒髪の皇女は東方の呪術『蠱毒』を使うとか何とか、燎原の熾火のごとく広がるのは目に見えている。
「あら心配してくれているの? それはどうもありがとう……別に本当にミミズを仕掛けるのもやぶさかではないのだけれど、私自身が虫が嫌いだから。間違っても自分が被害をこうむるのは御免だわ。
本当はね、虫を寄せる花も嫌いなのよ。ついでに花言葉に通じている人間も好きではないわ。口があるのだったら花などに意味を託さないで面と向かって言えばいいのよ」
身も蓋もない。
周りの人間は頭からシルヴィアが花好きだと決めてかかり、その前提で世話をしているが、言われてみれば彼女が花に寄せる思いにはいつも敵愾心のようなものが含まれていたな、アシャンは考える。
紅あざみ然り、白百合然り、白磁宮の庭園に咲く取り取りの花も彼女の顔を曇らせることはあっても、その逆は見かけたことがない。
最近では猫を遊ばせによく戸外に出るようになって、それ自体はいい傾向なのだが、彼女が愛でるのは花などではなく、もっぱらその花を踏みしだいて庭園を駆けめぐる成長期の仔猫のほうだった。
その割に彼女自身がよく花言葉を解するのは、やはり母親の影響だろうか。別にアシャンとて好きで花言葉に通じているわけではないのだが、何も花に八つ当たりする必要はないと思う。
「イン・シァン妃はよくここに来ていたのか?」
「そうみたいね。良く白磁宮を抜ける言い訳にしていたわ。図書館だったら本宮とも離れているし大義名分のたつ理由だったのではないかしら?
でも笑えるわ。資料室なんて……こちらの文字の読み書きにも不自由していたくせに、二桁以上の数字を足したり引いたりなんて出来たのかどうかも疑わしいわ」
イン・シァン妃は異国人である。
高級娼婦であったなら初歩的な読み書きはできただろうが、文献にあたって調べ物をするほどの学があったとは思えない。それは大陸公用語だけでなく彼女の母語語にしたところで同じことのはずだった。
だから閲覧していた東方の文献にしたところで、たんに挿絵や見覚えのある文字列を眺めて思い出をしのんでいたのだろう。
「あなたは算術は? 体系だった教育をうけたのか?」
「最初の質問は肯定。次のは否定。この国では女子の教育は読み書きが出来て、一般教養があれば良しとされるわ。
そういうわけで私につけられた教育係はもっぱら煩瑣な宮廷作法やダンス、他にも刺繍とか花嫁修行じみたものが多くて、しかも公爵夫人としてはあまり役に立たなさそうなものばかりだったわ」
「ではなぜ出来る?」
と先ほどから数字の羅列をにらんでいる彼女に尋ねる。まさか得体の知れぬものを今まで睨んでいたわけではあるまい。
「ダンスを教えていた教育係が変人だったの。あなたは筋がいいと言って算術をはじめとして色々なことを教えてくれたわ。ダンスのステップの代わりに、いつもチョークで床に数字とか式とかを書いていたの」
それは確かに変人だ。
過去への追想にシルヴィアはくすくすと忍び笑いをはじめ、頁をめくる手が止まる。
「とくにアビラア数字の偉大さについて語り出すと止まらなかった。あれは複雑な演算を可能にした世紀の大発明だといって、現行のマーロ表記を蛇蝎のごとく忌み嫌っていたわ。彼によると今の煩瑣な表記の仕方は、数字という宇宙の真理と語り合う行為にたいする冒涜行為で、神のもうけたもうた悪意ある最初の関門なのですって」
「アビラア数字は位取り記数法だからな。マーロ数字には位取りと零の概念がない」
覚える数字もアビラア数字が零から九までの十種類であり、理論的にはどのような数字であってもその十種類で書き表せるのに大して、マーロは数が大きくなるごとに新しい記号をつくりださなければならない。
大体アレで除法や乗法をやれというのは、無理な相談だ。そういえば小数点や分数すらない。
「へえ、そういう風に言うの。そういえば彼の信望する神は、数字の零なのだとこっそり教えてくれたわ。教会には内緒ですよって……そんなことばかりしていたから程なくお役目御免にされたけど。
お陰で算術は一通り出来る。二桁までの四則演算だったら即答できるわ。まず頭の中でアビラア数字に変換しないといけないのが煩雑だけれど」
「それはなまじの商人以上だな」
双方、資料に埋もれながらの会話である。
「今更だけれどお前も出来るのよね。カルハリアの貴族の子弟さん」
「商人の息子という線は考えないのか?」
「取り扱っていたのは花や綿花に布織物? それだったら大体、説明がつくわね。それでその商人の息子はどこで帝王学を習ったのかしら?……ああやっと合った年代のものを見つけた。こうぐちゃぐちゃだと分けるだけで大変ね」
「帝王学を学んだ者は、こんなせせこましい真似はしない……長丁場になりそうだな。こっちは右翼棟の資料だ。重ねておけ」
「まあ裏口から人の家に盗みに入るような真似をしている自覚はあるのね。大体わたしに手伝わせるのはまずいのではないの?……ひどいわこれ乱丁しているわ」
「猫の手でも無い手よりはましと言う東方の諺を知っているか?……こっちのこれは単なる水増し請求だろうがまあ一応より分けておくか」
皇女の手を借りるのは最初のとっかかりを得るまでだ。得られれば後は自分だけで調査をすすめればいい。
正直、予想以上に資料が膨大かつ乱雑すぎて、読み書きと算術双方に達者な協力者の手を借りられるのはありがたい。
「お前はどこまで出来るの? 算術……あっ、この頃の貨幣は違うのよね。道理で何かおかしいと思ったわ」
「算術というか、初歩的な幾何や放物線の軌道計算くらいまでは出来る。だが暗算はあなたほど得意ではない……この頃の公式書類ではすべてラリ貨幣換算だが、当時じっさいに流通していたのはマロニーやリン貨幣の類だ。交換比率はラリ対マロニーで2:5、ラリ対リンで3:17と考えておけ」
「私、幾何学はやった事ないのよね……じゃあマロニー対リンで15:34ね、当時の購買力ってどのくらいだったのかしら?」
「幾何学はあなたにあっているかも知れないな……当時の購買力なんて目の前のものを見てればわかるだろう? それは帳簿だ」
「なら今度、教わってあげてもいいわ幾何学……でも木材一本分の値段で何が買えるかなんて見当がつかないんですもの。この首飾りは買えるかしら? 林檎一個は買える?」
ちょいと胸元の、金剛石の星を散らした白銀のペンダントをいじって見せる女は、当時の貨幣価値云々よりも現在の購買力……というか金銭感覚全般を学ぶのが先だろう。
この女の頭のなかでは金剛石の首飾りと林檎一個が等価なのだ。
やがて一刻とたたずシルヴィアが根を上げる。
「もう耐えられないわ。窓がないし暗いし空気が悪いし、どこが物思いにはぴたりの場所よ。外はあんなに天気がいいのに、どうしてこんな穴倉でランタンの明かりのもと陰気に書類を発掘しなければならないのよ。死体穴掘り人にでもなった気分だわ」
「日光は紙の大敵だ。それに資料室はともかくこの閲覧室には曲りなりにも採光窓があるだろう。
大体これだけ立派な装丁つきの羊皮紙の本に埋もれられるのは、まさしく貴族王族の特権だ。享受しろ。今では大分安価になったとはいえこの頃の羊皮紙と言えば――」
「ああもう事あるごとに薀蓄はやめてちょうだい。前から思っていたけど、お前ってすこし生真面目すぎるわ。侍女として猫をかぶっている時もそうだし、きっと性格なのね。変えられない性格という奴だわ、絶対よ」
と決め付けて長卓の上に顔を伏す。
その様子を一瞥し、だが何も言わずにアシャンは手元の羊皮紙に視線を戻す。
それがかえって勘にさわったのか、シルヴィアは突っ伏した体勢のまま手近な本を引き寄せ資料をあさる振りをしはじめた。
「お前の両親もそんな風に生真面目だったの?」
「……」
「……これも聞いてはいけない事だった?」
「いいかげん黙って手元のものに集中しろ」
「殺されたの? 私達に」
顔を上げると、うず高くつもった羊皮紙の山の間から硬い黒眼がこちらを見返していた。
|