幕間 姫君とぺリドットの瞳の仔猫 (2)
パニエラとフィオラが部屋を辞してもシルヴィアは窓を向いていた。
首が痛くならないのか、微動だにせずに格子窓をむき、アシャンはおろか部屋に残された仔猫のほうを見ることもしない。ほとんど意地になっているようだ。
不機嫌な皇女にかける第一声をアシャンは迷った。
「猫は嫌いか?」
「大嫌いよ」
「……体のほうはもういいのか?」
「聞いての通りよ。どうせパニエラから事細かく聞いているんでしょう?」
そこで会話が途切れる。
白々とした空気の間を、白々とした猫が渡り歩いていく。二人の侍女の拘束から解放された今、自由を満喫している仔猫は恐る恐る、かつ、もの珍しげにシルヴィアの寝室を探索していた。
アシャンは再び聞く。
「首が痛くならないか?」
そこで始めてシルヴィアがキッとこちらを振り向いた。
なるほど。すこし扱い方の要領が飲みこめてきた。
「そんなくだらない事を聞くために、あの二人をわざわあざ追い出したの? 王立図書館の件だったら手続きはしておいたから心配ないわ。
いい加減、人をせかすのはやめて頂戴。約束は守ると言ったでしょう。疑心暗鬼で粘着質な男は嫌われるわよ」
「ひょっとして……」
とアシャンは、ためらいつつも口にする。
「気が立っているのか?」
飛んできた枕が答えだった。失言をしたらしい。
「何しに来たのよっ!?」
と常にない錯乱ぶりだ。つい先日、大好きだと抱きついてきたのと同じ人間とは思えない。やはり情緒不安定なのか。
「あの男の従者からの伝言だ。『もしよろしければ一度、贈られたドレスや白百合を身に着けて主人を出迎えて見てください。ひょっとしたら贈り物攻勢がやむやもしれません』とのことだ」
「……どういう意味?」
「さあな」
とアシャンは答える。
実をいえば彼はそれを聞いたとき何となく話の全貌が見えてしまったのだが、それをそのままシルヴィア皇女に伝えることは、そうでなくとも情緒不安定気味の彼女をさらに錯乱させるくらいのものだろう。
――ベルトテゼラン。
とアシャンは先ほどのやり取りを思い出す。
主人に似て、べらべらと良く喋る男だった。
もっとも話している内容の大半はどうでもいい話ばかりで、そのうえ失言の嵐だったが、この先もあの調子で、どうでもよくない内容にまで緩い舌を回してくれればとアシャンは心ひそかに期待している。
なんとなく、その辺りの口は堅そうだという気がしないでもなかったが、別段それでもかまわない。あの分だと程なくして、二度三度と花が贈られてきたのち舞踏会への招待状が贈られてくるだろう。
あと二三度、顔を会わせて老人交友会並の恋愛ごっこに付き合えば良いだけの話だ。ああいう人種は同意なしには女に手が出せない。
唯一の懸念といえば、不確定要素として出現したヘザルの存在が知れることくらいだ。
「で、その男がそこの猫をよこしてきたわけだ。時期的にみても少し早い生誕祝いの品のつもりなのだろう。あの男どういう訳かあなたに喜んでもらおうと妙に必死だった」
「生誕祝いの贈り物なんて……」
とシルヴィアは散策中の猫に視線をちらりと走らせ、唇をかみ締める。それは彼女が迷っているときによく見せる表情の一つである。
「女が年をとるのに喜ばしいことなんて一つもありはしないわ。祝う必要も……何がおかしいの?」
「いえ別に」
「いま笑ったでしょう」
「いえ全く」
すました顔を作ったアシャンをシルヴィアは睨みつける。
「まさかお前、“それ”の嘆願のために居残ったとか言わないでしょうね? だったら笑えるわ。孤高の暗殺者さんは猫がお好き?」
「あなたは生き物を飼った事がないだろう?」
「人間以外はね」
ほう、それは面白い。
「でも白磁宮で飼われていた事はあるわ。猫ではなく鳥だったけど。だから情操教育の必要はないわ。ちゃんと生物の生き死にについては分かっているつもりよ。その猫が……人間用の愛玩動物に特化した生き物で、人に飼われずには暮らしていけないという事もね」
自然にかえれずとも、人間社会に寄生して生きていくことなら出来るのだが……
いずれにせよ皮肉っぽい口調は変わらずだが『それ』ではなく『その猫』と呼ぶようになった。大した進歩だ。
「つまりその鳥が死んだのか?」
「今ここにいないんだから己ずとそういう結論が導かれるでしょうね」
ひねくれた肯定をして、シルヴィアは息をつく。
「生き物は簡単に死ぬから嫌いよ。人間と寿命が近いオウムですら、あんなに呆気なく死ぬのですもの。それにその猫にしたところで短い死までの時間を共にする相手に、生き物が嫌いな人間を選ぶ必要性はないと思うわ」
つまりその長々しい説明を要約すると、もう二度と情をうつした動物と死に別れたくないという実に感受性豊かな答えになる。
「そのオウムを可愛がっていたのか?」
「全然」
シルヴィアは首を振る。
「可愛がっていたのは母様よ。同じ籠の鳥ということで親近感がわいたのではないかしら? あれは唯一、陛下が贈られたものの中で母様に喜ばれたものだったわ。母様はいつもあのオウムに語りかけていて、だからオウムのしゃべる言葉はもっぱらオウム自身の名前ばかりだったわ。
いちど私が籠から出して外に逃がそうとしたんだけど、そのオウムは逃げようとはしなかったの。庭に出して飛ばしたのに私の頭の上に戻ってきて言うの……繰り返すのよ。母様がその生き物につけた名前を。他の名前は出ないの。馬鹿みたいに自分の名前だけ……
私あの鳥が嫌いだったわ。まるで母様みたいだった」
一通り部屋の探索をはたして足元にすりよってくる猫をアシャンは抱きあげた。シルヴィアはその様子を眺めながら細い吐息のように言葉を重ねる。
「その鳥、死んだの。ある日ナイフか何かでズタズタに切り裂かれた姿で籠の中に落ちていたわ。血まみれのズタ袋みたいで、とても鳥には見えなかった」
「……」
「侍女の誰かの仕業だと思う。たぶん母様をよく思っていなかった他の愛妾の差し金でしょうね」
「……猫の逃げ足は速い」
「え?」
「籠の鳥と違って逃げ場がないという事はない。いつでも好きな時に外に出て行ける。自身が望めば飼い主の下に帰ってくる必要もない。死期を悟れば自分から勝手に出て行く動物だ。
おとなしく可愛がられているのも、せいぜい己の気が向いている間だけ。だから何もこちらから逃がしてやる必要はない。むしろひっかかれて逃げられないよう見張っている必要がある」
見開かれ、猫のように丸くなった黒眼をアシャンは見返す。
「イン・シァン妃ではなく、あなたに似ている」
「……」
長い長い無言の末にシルヴィアは噴き出した。
それはもう盛大に噴き出し、前かがみになって肩を震わせ、両手でシーツを握り締めながら、苦しそうに笑っていた。
やがて眦の笑い涙を吹き、顔を上げる。
「知ってたけど、お前って本当に女たらしだったのね。好きになってしまいそう」
なら何故わらうのか?
「その手で今まで何人おとしたの? フィオラには兎に似ているって言ったの?」
と、また噛み殺せない笑いに肩を震わしはじめる。なにをそんなに笑う事があるのか、まったくもって理解できない。
アシャンは腕の中の生き物を、まだ笑い収まらないシルヴィアの前に置いてみる。
白い毛並みの美しい仔猫は、体温のある人の腕から突如、無機質な場所に下ろされて、寝台の上の人肌めざしてフカフカの羽毛布団を、こけつまろびつしていた。
「猫は嫌いか?」
「大嫌いよ」
と勢いよく答えて、シルヴィアは手を伸ばす。
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