第十二章 それぞれの (9)
「ひどいな。心外の極みだ」
と主人はあまり心外そうには聞こえない調子で言った。
「こう見えても私は私なりにシルヴィアを愛している。身代わりであろうとなかろうと、私にとって彼女は『特別』なんだ。おかげで他の女が目に入らなくて困っている」
その割には愛人関連の支出の額は増える一方だが……
気づけば主人はベルトテゼランに背を向けて、ちょうど露台の下を通りかかった侍女の一団に手を振っているところだった。
怒鳴りつけてやりたい衝動を抑えるのに多大な精神力をようした。
若さの盛りを過ぎたとはいえ、容姿、血統、身分、財力、権力に恵まれたこの主人は自他とも認める恋おおき男である。ありていに言うと女にだらしない。
放っておいても向こうから寄ってくる上に、自分からも追いかけているのだから、その数が減らないのも無理からぬ事だろう。
なお頭の痛いことにこの男、一度縁をむすんだ女を自分から切ることはしない。愛人としての関係がなくなった後も何くれとなく援助し、気くばりを示すのだから、ベルトテゼランの雑務は増える一方だった。
「だいたい陰間でもない君に女の心境が分かるのか? 誰かの代わりに抱いたり抱かれたりするのも、それはそれで刺激的なものだと思うがね。
それに潔癖な君には想像もつかないだろうけど、誰かの身代わりに抱かれる事を許す、あるいは許さなければならないという時の女の顔は、それはそれは慈愛や自己憐憫に満ちていて良いものだよ。もっともシルヴィアの場合はどちらかというと嫌悪がまさっていたがね」
ベルトテゼランは吃驚した。
「まさかもう抱いたのですか!?」
「君もぞんがい無粋な男だな。そんなに大声で女性の貞操のことを質すものではないよ。失礼じゃないか」
「では抱いたんですね!? まさか散歩と称して出て行ったあの時ですか」
我が主人ながら、見下げ果てた男だ。
シルヴィア皇女が、宮廷でどのような噂をされているか知らぬ主人ではあるまい。また『娼婦の娘』というぬぐえない蔑称を背負った彼女が、正式な結婚の前に無理矢理そんな風に花を散らされてしまえば、一体どんな風に感じてしまうか……
上下関係がなければ、この年の離れた乳兄弟を思い切り殴りつけているところだ。
「君はいったい私をなんだと思っているんだ? みさかいない漁色家か? こらえ性のない色情魔か?」
「そのようなものです。で抱いたんですね?」
「いや盛りのついた犬ではあるまいし、そうそう気軽に野合になど及びはしないよ。だいたいそんなに事を急いては勿体ないじゃないか。
せっかくの初物なのだから時間をかけて段階を踏んで……時にはままごとに付き合うのも楽しいし、まあ待つのには慣れているしね。いちおう初夜の夜までは取っておくつもりだよ。味見くらいはするかもしれないけど」
「しないで下さい! 婚姻の夜まで指一本触れないでください。半径三歩以内に近寄らないでください。
どうせあなた様には黙って立っていても向こうからしなだれかかってくる相手が、掃いて集めて海に捨てるほどいるじゃないですか。遊ぶのでしたら戯事にはきちんと戯事でかえせる女人にしてください。
あの姫君はあなた様なんかが玩具にしていい相手ではないんです」
一気にまくしたてると、主人は驚いたような顔で自分を見返していた。
「……感心するよ。自分のことでもないのに、よくもまぁそんなに熱くなれるものだ。気をつけたほうがいい。東の国では人の恋路に口を出す人間は馬に蹴られて死んでしまうそうだぞ。それとも何かい? シルヴィアに惚れているとでも言うのか?」
「もしそうだったら、どうなさいますか?」
もちろんそんな事はないが、それで主人の困った顔が見れれば願ったり叶ったりである。
シルヴィア皇女に対しては……それはまあ若くて綺麗な娘に感じるくらいの好意は感じているが、身分違いに加えて将来主人の妻になるような相手は最初から対象外だ。
それに一回り近く年が離れている。それを言えば主人とは一回り半はなれているが、自分は彼のような変態ではない。
唯一シルヴィア皇女にたいして通常以上の好意をもてる点があるとすれば、それは彼女がこの男の想い人、ないし婚約者、ないしお気に入りの玩具であるという点。それに対する惜しみない同情心と哀悼の念からだ。
哀悼の念が死者にたむけるものだとかいう細かい事はこの際どうでもいい。
「もし君が彼女の事を好きだったら? それは嬉しいよ。私の気に入ったものを君も気に入ってくれると嬉しい。私は君のことも彼女同様、気に入っているから。だからといって、あげはしないけどね」
しれっと答えられてベルトテゼランは黙り込む。シルヴィア皇女に対する同情心は募るばかりだ。
「まあ実際“あれ”はあれの母親に良く似ている。特に辱めに耐えている表情なんてぞっとするほど艶っぽいし、思わず陛下の側にたつ彼女を思い出してしまうほどだ。
それでも似ていないところもたくさんあるんだよ。
『娼婦の娘』という事を気にしている割に気位が高いところとか、何かにつけ上手をとりたがる所とか、優しくすると際限なくつけあがる所とか、変にませた風に見えるくせに男の生理や心理をまるで分かっていない所とか、それでいて男心を手玉にとる天性の勘がそなわっている所とか、シルヴィアはシルヴィアで可愛いんだ」
たった一つでも褒めているのか、それは?
「ああ見えて頭の回転も早いしね。征服欲をそそられる点では同じだけど、母親よりも気が強くて聡い分、男のプライドを逆撫でするから、どうしても足元に屈服させてみたくなる。泣かせて壊して、もう二度と立ち直れないくらい、めちゃくちゃにしてやりたくなる。
……あれはねベルトテゼラン、まだどんなものでも建てられる更地なんだ。
育て方一つで、名うての娼婦だろうが傾国の悪女だろうが希代の公爵夫人だろうが何にでも化けられるだろう。私としてはあれをどう育てるか考えるだけで楽しみがつきないのだよ」
男は最初は年上の女に育てられ、次に同年代の女と対等の恋を楽しみ、最後に年下の女を育てる喜びを見出すというが……この主人の場合は何というべきか。ただの変態だろう。
「だからこそ男はあの真白の肌を見ていると、つい彼女というキャンバスの上に自分という人間を描いて見たくなる。
自分がこれまで生きてきた人生、存在の証をまるごと刻みつけて、もう決して他には染まりようがないくらい自分だけの色に染め付けてみたくなる……君も男なら彼女を見ていてそういう気持ちにならないかい?」
「なりません」
即答してやると主人は溜息をつき、お気に入りの玩具をけなされたかのように顔をしかめた。
上空を振りあおぐ空色の瞳は、燦燦と照りつける陽射しに細められ、手で陽光を半ばまでさえぎっていた。
やがて光のまぶしすぎる露台から室内に帰ってきてベルトテゼランの横を通りすぎると、元の長椅子に体を沈ませる。
だったら最初から座ったままでいればいいのに、とベルトテゼランは思う。色々な意味で腰のおちつかない男だ。
「それはそうとこの間、白磁宮で野合ならざる散歩に行った時に面白いものを見つけたよ。シルヴィアとは違って、もうこれ以上ないほど何かの色に染まりきったカルハリア産の……新しい侍女だそうだ」
「手を出さないでくださいね。側仕えの侍女なんかに手を出したら愛しのシルヴィア様にもう二度と口を利いてもらえなくなりますよ」
「自重したよ。出したら噛み付かれそうだったからね。とてもいい目をしていた。戦場以外でああいうものを見たのは久しぶりだな。あれは絶望を知っている目だ。汚いものや醜いものをたくさん見てきて、そうする事によって逆に何かを研ぎ澄ましていった口だ」
それはカルハリア人であるならば、それなりの過去を背負っていてもおかしくないし、この男を見る目も優しくはなり得まい。
「世の中にはね、心の贅肉どころか、筋肉だろうが四肢だろうが臓器だろうが問答無用で切り落としていく人間がいるんだよ。
人が人であるために売り渡してはいけないものって色々とあると思うけれど、そういう手合いは、もう何が自分にとってそうなのかなんて見えてやしないんだ。
だから、ためらいもなく切り捨てられる。それがどれだけ自分が自分であるために大事なものだったか気づく頃には、もうすでに自分でなくなっているから心は痛まない。まだまだ切り捨てていける。
人間という生き物は、もともと他者の痛みには鈍感に出来ている。だから自分が自分だと感じられない場合、自分の痛みにも鈍感だ。どれだけにでも残酷に自分自身を殺していける。救われない魂の典型さ。創造主の悪意が感じられるじゃないか。
でもねベルトテゼラン、そんな目はとても醜く爛れている一方で、どうしようもなく一途で……痛々しいくらいに澄んでいるんだ」
「訳が分かりません。その侍女に同情すべきだという点以外は」
「君は分からないほうがいいよ。いや分からないでいて欲しい。
絶望とかそんな感情はね、知るだけ損だ。一度拾ってしまえばその桎梏から逃れられない、死にいたる病のようなものだから。
それは人を強くする一方で、どうしようもなく脆く、危うくしていく。絶望にかかったものはその場で死ぬか、それを糧にして生きていくしかないんだ。壊れながら、人でなくなりながら、人に戻りたいと叫びながら、死という波止場に流れ着くまで足掻きつづけるんだ。
そうして訪れる死には有終の美なんかこれっぽっちもありはしない。あるのは虚無と寂寥、身をきるような孤独だけだ」
なにもそんな風に大仰に決め付けてしまわなくとも、とベルトテゼランは暗い未来を宣告されたその侍女を気の毒に思った。主人の詩人気取りにも困ったものだ。
それに――
「世界の半分は醜くとも、後の半分は美しい。醜いものを知っている分だけ美しいものがより美しく見える。そういうものではないでしょうか?」
それに暗い過去を背負ったものには暗い未来しか用意されていない、というのではあんまりではないか。それでは人間は生まれつき運やめぐり合わせによって差がつき、以降の幸福の量があらかじめ決まってしまっているようにも聞こえる。
それではまるで、いちど不幸の連鎖にはまってしまった人間はもう決して救われないみたいではないか?
主人と違ってベルトテゼランは教会はともかく神への畏敬の念までは捨てていない。
神は全能でなかったとしても、そんなに無慈悲でも不公平でもないはずだ。
仮に判断を誤ることがあったとしても、きっと自らその過ちを正される日がくるだろう。
この世界に満ちるありとあらゆる悪意も、教会の言うような人知の外にある深遠な理由によるものなどではなく、ただ彼の限りある腕から零れ落ちてしまった悲しい出来事だと思いたい。
世界をつくり上げ動かすものは、悪意ではなく善意だと。たとえそれが不完全な善意であったとしても、それでも世界をより良い方向へ導く何かなのだと。
であれば神は与えてくださるだろう。不幸であった人間には幸運になれる機会を、絶望をとらわれた者には希望の芽を、凍えていた心には温もりの掌を、きっと与えずにはおかないだろう。
「ああ、君はそういう人間だよね。半分までつがれた杯をみて、『ああ半分も水が入っている』と、うそぶける人種だ。シルヴィアもそうだな。私や例の侍女は……まあいい。楽観主義は私も好きだよ。未来を信じたくなる」
「信じてください」
と今度は真顔でベルトテゼランは主人につめ寄る。
彼にしたところで、この主人が到底、天国の門に受け入れられないような事をしてきた事はしっているし、自分に許された容喙が彼の表の部分だけであり、影でこそこそ何をしているかまでは知らされていない。いや、知ることを禁じられていると言ったほうが正しいか。
以前それに関してただしたところ『すべてを知られることで君を失いたくないからね』と気持ちの悪いかわし方をされた事を思い出す。
だがそれでも、地獄ゆきは確実で、金で買える教会の免罪符を買うには少々冷笑的にすぎるこの主人をベルトテゼランは大切に思っている。
尊敬や忠誠とは少しばかり違う次元で、この人間が幸せになって欲しいと願うのだ。シルヴィア皇女を手に入れることで、それが叶うなら、彼女の不幸を願わないでもない。
「信じてください。未来でも、神でも、半分の水でもいいですから」
「善処するよ」
と、主人……いや乳兄弟のヴァレリーは、ひらりと手を振った。
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