第十二章 それぞれの (7)
「お母様」
気づけば鏡の中にソフィアが立っていた。
「侍女がちゃんと扉の外からお伺いを立てていたのに全然お返事がないんですもの。勝手に入ってきてしまったわ」
知らぬ間に握り締めていた柘植の櫛をマファルダは、鏡台の上にもどす。
今まで自分が鏡の前でつくっていた表情を――たとえ己の娘であっても――見られてしまったやもしれぬという動揺と憤怒を胸の底に沈め、マファルダは静かに後ろに向き直った。
「ではお前とその侍女に厳しく言い聞かせておかねばなりませんね。返事が得られぬ場合、相手が誰であろうと勝手に扉を開けぬように。それで? こんな夜更けに何の用ですか?」
「今日、本宮であの女をみかけたの。婚姻の日取りが決まったそうね。ずいぶんと得意気な顔で侍女を引き連れて歩いていたわ」
少し鼻にかかる舌ったらずな声。
普段は透明にすんだ声は、こういう風に人にものをねだる響きをおびるほどに、雑音を交えて甘くなる。
しかし、それにしても……
とマファルダは、目の前に立つ少女に目を向けた。
白地に金糸の刺繍をほどこしたドレスの上に、浅黄色のモスリンのショールを羽織った姿は、生来の清らかな美貌をきわだて、妖精もかくやという風情だ。
細かな花を散らした半透明の薄衣からすんなりと伸びる、細くしなやかな腕。
腕輪や指輪といった装飾品がはずされている今、かえってそれ自体芸術品である体の造詣美がきわだつ。透けて見える二の腕の輪郭から指の先まで……本当にこの娘は美しい。
とても血を分けた我が子とは思えない。
確かにこの腹をいためて産んだ娘であるにも関わらず、この化け物じみた美しさは何だろう。
まるで容貌にめぐまれなかったマファルダに対する一級の皮肉ででもあるかのように、愛とも美とも無縁の女から産まれた娘は、生まれながらにそれらを約束されていた。
だがそんな美しい娘でも男に振られる事はあるらしい。
実をいえばマファルダはこの娘をラバウル公の妃にと思い、実際に動いたことがあったのだった。
もっともソフィアは『そんな年増男の妻になるのは死んでも嫌だ』と、あまり気乗りしない様子で『政略婚の犠牲になるくらいなら、いっそ清い体のまま命を絶つわ』と出来もしない事を宣言していたが、マファルダが内々に進めていた婚約話が破談になったのは無論そんな馬鹿な理由ではない。
相手方が断ってきたのだ。
しかもその断り方というのがふるっていて、
『ソフィア皇女のように美しく、何より若すぎる乙女を自分のような男が娶ってしまうのでは、あまりにも皇女が不憫というもの。そのような酷な事は出来ません』
という普段の彼の行状からすれば悪い冗談のようにしか聞こえぬ言葉だった。
そして、それからそう時をおかずとしてソフィアと二歳も離れていないシルヴィアとの婚約をみずから望んだという話だ。マファルダは侮辱されたと感じる以前に首をひねったものだ。
もともとこの話は、当時十を幾つも過ぎていなかった二人の皇女の容色だの才覚だのという話ではない。
何の後ろ盾もない愛妾の娘と、皇后の娘であり唯一の嫡出子である皇女と、どちらが魅力的であるかという話で、そしてその答えは誰の目にも明らかだ。
嫡出の男子のいない次期皇帝戦において二大勢力の一つを率いるラバウル公にしてみれば、中立の立場にあるマファルダを引き込んでおいて損はないはずだった。
マファルダはこの話を皇帝に納得させるための根回しに腐心しこそすれ、よもや当の花婿候補に断られるとは予想すらしていなかったのだ。
この宮廷には幾つもの二極図がある。
その筆頭は、時期皇帝の最有力候補である庶出の二人の皇子。
一人で侍従長オンジューが支持する年長であり、母親の身分がそう高くなく閨閥支配の恐れがすくないカルロ皇子。
もう一人はダルタヴィッラ家当主のラバウル公の近しい血縁の女から産まれた、血筋的に申し分ない若干十二歳のエーリオ皇子。
後見人、後ろ盾、血筋、年齢、実績の総合点で二人の候補者は拮抗する。
エーリオ皇子の擁立者であるラバウル公としてみれば、そこにマファルダの支持が欲しくない筈がなかった。
今もって自分たち母子が振られた理由は定かではない。
マファルダの心算、つまりどちらの陣営にも気のある素振りをとって値を吊り上げようとしていた事が気に入らなかったのか。あるいは他になにか自分の気づいていない要因があるのか。
「ねえ、お母様、私あの女に恥をかかされたの」
思考を中断されてマファルダは鼻白む。
中断される価値がないと最初から分かっている話で中断されたと思うと、人はなぜこうも腹ただしく思うのだろう。
「正確にはあの女の侍女だけれど、あの女に入れ知恵されて仕込まれたに違いないわ。そうでなければあんな事するはずがないもの」
……考えてみれば不憫なことだ。
この娘は愛と美の女神に溺愛された代わりに、知恵や品性の神々からは見向きもされなかったのだから。
美しい。憐れなほどに美しい観賞用の人形。イン・シァンのように寝台用の愛玩具になれるかどうかすら心もとない。
「たしか『アシャン』って言っていたかしら? すこし印象的な薄緑の目をした侍女よ。今まで見たことのない顔だからきっと新顔だと思うの。とても綺麗な侍女だったから、もういちど見ればすぐに分かるわ」
それは面白い。このソフィアをして綺麗と感嘆せしめる人間がこの世に存在するとは思わなかった。
「なにも器量のことじゃなくて、表情とか雰囲気とかがね。水面のように静かで、でもとても冷たくて鋭いの。氷……じゃないわね。むしろナイフの刃先に近い。金さびた鉄の匂いがする……」
「それで?」
とマファルダはわずらわしげに先をうながす。正直マファルダは先ほどから目の前の娘が話していることを半分と聞いていなかった。
夜更かしはなにも美容の敵であるばかりでない。健康な肉体と思考に対する怨敵である。それをこれ以上、そんな聞くだに下らなさそうな話のせいで強要されたくはなかった。
「私すぐに分かってしまったの。その娘があの女のお気に入りだって」
「ソフィア、頭の中で人をどう呼ぼうとお前の自由だけれど、侍女や人目があるところではシルヴィアのことはお姉様とお呼びなさい。私の前でもです」
「だってお母様――」
「それがけじめというものです。そうでなければお前の品性のほうに傷がつくでしょう」
より率直に言えば、この娘の『あの女』という言いまわしが気に入らない。甘ったるく、軽薄で、しかも下品だ。
「どうして? 品性がないのはあの女の方でしょう? 娼婦よ。踊り子よ。授かり婚よ。それって神様と誓った以外の相手と子供を願ったって事なんでしょ。同じ空気を吸う事すらけがわらしい女よ。許せないじゃない」
ああ、一々説明するのもわずらわしい。
それにこの娘はおそらく娼婦という言葉の意味を半分も理解できてはいないのだ。ただ周りから注ぎ込まれる言葉をオウムのように繰り返しているだけだろう。
確認する気も起きないが、ひょっとしたらまだ赤ん坊というものが神なり鳥なりによって女の腹に運ばれてくると思っているのではあるまいか?
「ソフィア、品性などというものはお前が決めるものではない。人が決めるものです。そしてそれは品性に限らない。
どんな血筋のどんな人間であろうと他者に価値を認めてもらえなかったら、それは価値がないということだし、反対に認めてもらえば、それは歴とした価値と言えます。少なくともその認めてくれた人間には幾ばくかの影響力があったという事なのだから。
たとえ神や血によって権威づけられていても、役に立たなければそれは価値ではない。価値の指標は、どれだけの人間にそれを認めさせることが出来るか、その一点のみです」
「もういいわ」
と母親の長話に辟易したソフィアが言った。
「あの女のことはお姉さまと呼ぶわ。それでいいでしょう?
それよりその侍女の事なのだけれど、そんなにお気に入りの侍女を私のものにしたらあの女……お姉さまは一体どんな顔をするかしら? 想像するだけで楽しいとは思わない? お母様からの命令ならお姉さまも嫌とは言えないはずよ」
この娘を見ていると、マファルダはイン・シァン妃の時とはまた異なる意味で造物主の悪意を確信する。
つまらないと思ったシルヴィアもこの娘に比べれば、ずいぶんとマシに思えてくるのだから不思議だった。
あれは少なくとも場の空気を読もうと神経を張り巡らせ、嫌味や暗喩にも瞬時にして顔を青ざめさせるほど迅速に反応し、どうかわせば切り抜けられるか必死に頭をめぐらせているようだった。
とはいえ及第点には遠いが、目の前のこれは落第点以下……暗愚だ。
確かに白磁宮のことではソフィアのねだるとおりに話を通してやった。
マファルダ自身も白磁宮には少しばかり個人的な因縁があったことだし、それをしてシルヴィアがどんな顔をするか見てみたいという心理もあったが、やはり最大の要因はあの男の反応がみたかったからだろう。
それが案外あっさりとソフィアに下げ渡すことを承諾されて物足りなく感じたほどだ。
いずれにせよ、あの宮がシルヴィア以外の人間のものになる事は疑いなかったのだ。それをささやかな鬱憤晴らしに使わせてもらっただけの話。
この話とはまるで次元が違う。
「ソフィア、その侍女はお前が本当に欲しいと望むものですか?」
「そうよ。欲しいわ。心の底からよ」
この娘には心の底から欲しいものが星の数ほどもあるようだ。
「なら人の手を借りるのではなく自分で頭を働かせ、自分の手でシルヴィアから奪ってごらんなさい。同じ皇女として表立っては上からものを命令できない立場でね。意趣返しとはそうしてこそ意味のあるものなのですから」
言い捨てて「分かったらもう出て行きなさい」と有無を言わせぬ口調で命令すると、膨れっ面をぷいとそらして出て行くソフィアの姿があった。
その後姿を見送りながら、神のなさりようはまったくもって酷だとマファルダは溜息をつく。こんな娘でもやはり自分は可愛いと感じてしまうのだから……
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