第十二章 それぞれの (2)
そう、その話は教えてくれた人間が言っていたとおり本当に馬鹿みたいな話だったのだ。
底の抜けた椀では水はすくえないが、二つに割った後の脇の窪みを使えば水は溜まる。
何のことはない。一種の頓知だ。
「アシャン」
腕の中の人間が不機嫌なのは、こちらを見ずともわかっていた。でも別にそれでいい。いずれによ彼はいつだって不機嫌なのだ。
いつの間にか体温の差は逆転していた。
すこし寒気を覚えはじめた体に、相手の温もりが心地いい。抱きしめた手の平からつたわってくる心音に心が和らいでいく。
こうして体中に誰かの存在を感じたのはいつ以来だろうか。
シルヴィアは目の前の背中に額を押し付け、深くうずめた。
「ありがとう」
ああ、きっとまた不機嫌になった。
まったくもっておかしな少年だった。この少年はシルヴィアが礼を言うたびに不機嫌になる。
だからシルヴィアはもう一度、今度はつま先立ちに背伸びしてアシャンの耳元にささやく。
「大好きよ」
肩越しに覗き込むとアシャンはなんとも言えぬ表情を浮かべていて、案の定、不機嫌そうだった。それが面白くてシルヴィアはさらにもう一度言った。
「聞こえなかった? お前が大好きと言ったのよ」
「……ついさきほど殺してやりたいほど嫌いだと言われたばかりですが」
「あれは撤回するわ。やっぱり私、お前が好きみたい。侍女の衣装が誰よりも似合っているお前が好き。なまじの女より清楚で可愛らしいお前が好きよ」
眉根が寄せられ、眉間の皺がどんどん増えていく様子が面白い。それをもっと見たい一心でシルヴィアは言葉を重ねる。
「気づいてる? お前けっこう人気があるのよ。フィオラなどの侍女ばかりでなく、侍従や衛兵たちにもね。彼らの目つきをみれば分かるもの。
ラバウル公にしたところでお前が私の侍女でなければきっと口説いていたと思うわ。でももしそうなっていたとしたら私はいったい誰に嫉妬したらいいのかしら? お前? それとも公?」
「戯言はその辺りにして、いい加減、手をはなして下さいませんか?」
「戯言なんかじゃないわ。こういう時に限って侍女の口調にもどるお前が大好きよ」
「……」
もっともっと不機嫌な顔をしてほしい。
「お前、今まで人に好きって言われたことはある?」
「いくらでも」と可愛げのない返答がかえってくる。
「なら人に好きって言ったことは?」
「いくらでも」
と、これまた可愛げのない即答。
「じゃあ言って。好きだって。私の事が好きだって」
虚をつかれたような相手の顔がおかしい。シルヴィアは小首を傾げてみせる。
「駄目?」
「あなたは、いつも人にこういう事をしているのか?」
「まあ、照れてるの?」
「そういう問題では――」
「気持ちがなくても抱けるんでしょう? だったら気持ちがなくても言えるはずじゃない」
なじるように言うと相手は黙った。無愛想な表情にすこし険が混じっている。あるいは、やりすぎたかとも思う。
しばらくして盛大な溜息が吐き出された。
「一つ確認したいが、抱くの抱かれるのという以前にあなたは本当にその意味が分かっているのか? 耳年増もけっこうだが、まさかさっきまでやっていた事が全てだとでも思ってるんじゃないだろうな」
「分かっているわよ。乳母が必要な知識だからと教えてくれたし、それに陛下は毎夜のように母をおとなっていたのよ。侍女や私の目のあるところで接吻なんて珍しいことでもなかったし……母様はそれが嫌で良く私に愚痴をこぼしていたわ。接吻ばかりでなく寝所のことを色々とね。だから口付けの仕方だって、その先のことだって、ずっと昔から知っていたわ。母様に助言をしていたくらいよ」
相手の目に浮かぶ光の色が解せない。淡緑の眼は、さきほどより険を増したようにも見える。なぜだろう?
なんとなくアシャンが先ほどの成り行きを後悔している気がして、その気持ちが少しでも軽くなればと、わざわざこんな事を話しているというのに。
「それにお前の方が良く知っているでしょうけど、侍女や下働き達ってけっこう口さがないのよ。ほら、部屋を掃除するにしろ、渡りをつけるにしろ、貴族や皇族の情事には彼らの協力が必要不可欠でしょう?
主人の閨房事情なんて彼らにしてみれば格好の話の種だし、皇女の前といっても子供相手なら聞こえても分かりはしまいと思うのでしょうね。お陰で小さい頃から刺激的な話題には事欠かなかったわ」
だからね、とシルヴィアは笑いかける。
「本当にちゃんと全部分かっているわ。お前が途中でやめてくれた事とか、それがそう簡単でない事とかね」
茶目っ気たっぷりにそう言うと、相手はまた一つ溜息を追加する。次いで叩きつけるように言葉を吐いた。
「あなたが好きだ。これで満足か?」
「全然よ。まるで駄目よ。まったくなってないわ」
三度、駄目だししてシルヴィアは再度、要求する。
「もっと、ちゃんと感情を込めて言って」
そこまで言うと、今までにないほど不機嫌そうな表情で腕を振りほどかれた。
シルヴィアが再び捕まえようと腕を伸ばした頃にはもう遅く、正面に向き直ったアシャンに両手首を拘束されていた。
中空に両手を取り上げたままアシャンはシルヴィアに屈みこんできた。
肩口に顔がうずめられたかと思うや、耳に触れるか触れないかの唇の開閉。そうして吐息のように掠れた声が一言、シルヴィアの耳元にささやかれた。
それは最初のものと変わらずに性急で、無理強いに耐えるような口調ではあったが……
「茶番はここまでだ」
気づけば掴まれていた手首はもう放されていて、相手の顔と体は遠くにあった。
そしてその顔はもはや不機嫌でも無愛想でもない、ひたすらの無表情で。
「……茶番?」とシルヴィアは聞いた。
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