第十一章 湯殿にて (8)
「そういえばあんたは以前、カルハリアは統治する旨味のない土地だと言ったが実際そのとおりだ。
国土の多くを山岳地帯が占め、開墾できる土地は少なく、地味もまずしい。貿易の拠点としても、代替路として栄えた一昔前ならともかく海路も開けた今となっては魅力の乏しい立地だ。
だがそういう資源にも立地にも恵まれない国でも、どうにかしてそれなりの産業くらいは見出すものだ。たとえばカルハリアには染料と染色加工技術があった。
山間部に自生する独特の植物相、生物相、鉱物層からとれる独自の染料と媒染技術。
鉱山からとれる銅や錫、鉄などの鉱物も純度が低く量もすくなかったが、染料の媒染剤としてはそれで十分だった。
カルハリア産の染物は名こそさほど有名ではないが、品質でいえば他の有名どころにもひけは取らない。いや、取らなかったというべきか。
なかでも七彩虫とよばれる虫から取り出される染料は他には見られないもので、この虫の体液は本来あざやかな赤だが様々なものを触媒に介すことにより色を自在に変化させる。それこそ黒から橙、緑や青まで。特に青色の染料はインディゴ以外には珍しいので珍重されたようだ。
だがこの技術は七彩虫の生態や取り扱い、また七彩虫固有の染色知識と技術を必要とするため、職人の養成にはひどく時間と手間がかかるものだった。
またカルハリアは職人達を保護するかたわら、技術の漏洩をふせぐために彼等を土地に縛り付けていたし、七彩虫の国外持ち出しを厳重に禁じていたこともあり、良くも悪くもこうした技術はカルハリアの外には閉ざされていた。
だからこそ、はるばる南陸のムーラからカルハリア現地に運び込まれて染められていたわけだ。
カルハリア戦役においては……指揮系統の乱れか、最初からそういう方針だったのか、本来はまっさきに保護されてしかるべき技術者たちですら戦禍をまぬがれることはなかった。結果として職人の多くが殺されるか四散するかして、七彩虫の染色技術も壊滅的な打撃をうけた。
だからその布は、まだ市場に出回っている昔のカルハリアのものだろうが……今は帝国の復興政策のもと手工業が重点的に後押しされているようだから、そのうち七彩染めの技術も取り戻され、そうした布も、もっと多く見かけるようになるかもしれない。今度はカルハリア産ではなく帝国領ルーヴァ産として」
不思議とその言葉は淡々としていて、予想していたような憎悪や怒りは感じ取れなかった。祖国滅亡の戦に言及するカルハリア人の目はただ静かにシルヴィアを映している。
シルヴィアは、自分の体を覆って余りある鮮やかな薄緑の浴布に視線を落とした。
その布は確かに上物で肌に柔らかく、ちょうど目の前のカルハリア人の瞳と同じ色をしていた。帝国に滅ぼされた国の失われかけた色彩。
シルヴィアは浴布の端を握り締める。
「……それで? お前が花言葉や石言葉、ついでに染物の知識にまで精通しているのはよく分かったわ。最初は造園師の息子だと思ったけど今は染物師の息子だと思ってるくらいよ」
「ご存知、綿はこの大陸では産しない。
南陸ムーラからラスマー、ラスマーからカルハリア、カルハリアから帝都へ。移動のたびに関税、人を介すたびに利潤が上乗せされる。そんな風に我々が世界と呼ぶ領域の半分以上をまたいで旅をしてきた布地を、濡れた体を拭くことなどに使える者はこの帝都でもそう多くはいない」
そういってアシャンはシルヴィアの前に膝を折り、浴布からのぞく真白の首筋に触れ、なぜた。しかしシルヴィアが身を引いて避けるとそれ以上は追ってこない。
「あんたの肌もこの布と同じだ。同じように遠い異国からやってきて触れた指に良く馴染む……膨大な金と時間、人の手がかかっている」
シルヴィアは浴布をずり上げて首まで隠れた。
「その黒絹のような髪の一本一本も、爪の先まで磨き上げられた傷一つない体も同じこと。それがあんた自身の美しさではなく、数限りない他者の手によって作り上げられたものだと分かっているか?」
美しい、という言葉を賞賛ではなく糾弾として言われるのは初めてだった。
「皇族とは、貴族とは、血統や階級によってなるものではない。
そうして己自身の手では何ひとつ作り出さず、ただ他者の生産したものを飲み、喰らい、消費して来た者のことを言うんだ。
あんたはその布を自分で作り上げたのでもなければ、手に入れるために正当な対価を支払ったわけでもない。あんたの口にはいるもの、肌にかけるもの、髪をすくもの、耳を楽しませるもの、目にうつるもの、みなそうだ。
この浴布も、そこに転がっている香油も香料も、この浴槽に張った湯を沸かせた薪でさえも、遠い旅をしその間わたる手を何度となく変えて、あんた一人のために取り揃えられた。
あんた自身は、何ひとつその手で作り上げなかった。生まれながらに既得のものだった。なんら努力することなく全てを、いながらにして与えられてきた。生かされてきた。侍女に、侍従に、衛兵に、料理番に、下働きに、兵士に、手工業者に、金貸しに、商人に、市民に、奴隷に、農民に。
なら、あなたは皇女だ。その髪の一筋、肉の一片、血の一滴までもが、どうしようもなく皇女だ。いまさら違うものになどなれやしない」
まるで、取り返しのつかない過ちのように、どうにもならない事実のように、アシャンは語る。彼にとって問題なのはシルヴィアが皇女か否かではなく、おそらくはシルヴィアが皇女であることを起点に派生する問いかけの方だった。
アシャンはただこれまでのように一貫して言い続けているだけだ。皇女だから、と。皇女のくせに、と。
「税と賦役。日々の営みと徴兵。平時と戦時。血と汗と涙と喜怒哀楽。この国を構成してきたものは、あなたを構成するものでもある。
彼等があなたに様々なものを提供し、頭を下げるのは――その本質的な意味においては――あなたを尊敬しているからでも、ましてやその身に流れる高貴な血とやらのためでもない。単純に見返りを求めているからだ。彼らがあなたに提供した以上のものが、将来あなたによって支払われる事を望んでいるからだ。
ささげられたものは物品であれ忠誠であれ、見返りを求める。あなたが産まれてこのかた数かぎりなく人に与えられてきたものは決して無償ではない。
受け取るだけ受け取っておいた今になって、それをなかった事にするというのなら彼らがあなたを許さない。取り返しがつかないくらいにたまった負債は支払いを求めている。そしてその要求に撤回はない。
だから返すしかない。あなたの能力の限り、命の限り返すしかない。あなたは皇族で、他の誰よりもその義務を負っている。それはカルハリア戦役に関しても同じことだ。どのような見方をするにしろ目をそらすことは許されない。あれもまた、あなたとあなたの国の一部なのだから。
だからもう二度と自分に関係がないような口をきくな。間違っても自分に責任がないなどと思うな。皇女ではない、などともう一度でも言ってみろ。俺が真っ先にあなたを殺す」
それは否定のようでもあり承認のようでもあった。承認であったとしたら、これほどまで呪詛に似た承認もなかっただろう。
呪いと同じように強制的で有無をいわせない言葉。彼の持ちえる、もっとも強い感情でアシャンはシルヴィアを皇女だと認めた。
それは憎しみと同義で、だからこそ嘘偽りのない承認だった。
シルヴィアは掻き合わせた浴布を、きつく握り締める。
なぜ他の誰も……自分自身でさえ与えられなかったものが、よりにもよってこの相手にもたらされるのか。
帝国の皇女である自分が欠落しているものを、なぜこのカルハリア人が持っているのか、空っぽの自分に有無を言わさず押し付けてくるのか、刻みつけるのか、満たしてくれるのか。
嫉妬のようにシルヴィアは思う。不公平だと。
この世界はとても不公平に出来ている。
「あなたには、おそらく……」
とアシャンはそのまま立てた膝を崩し、シルヴィアと同じ目線に座り込むと言った。
「人の上に立つ人間として、いちばん大切なものが欠けている」
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