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暗殺者と姫君
作:ばいばるす



第十一章 湯殿にて (7)


 「……ゆ、びわ…?」

 最初なにを言われたのか理解できなかった。これから行われようとしていた事と指輪と、一体なんの関係があるのか。

 「あの時ソフィア皇女の前で膝をおり指輪を拾おうとしただろう。名を呼び捨てにされ、『拾え』と、命ぜられた事を命ぜられたままに。まるであの女の下女ででもあるかのように」

 アシャンの声は怒っているようにも聞こえ、シルヴィアをすくませた。顔をそらそうとすると、また引き戻される。
 
 「答えろ」
 今度はしっかり抱え込まれた。覗き込んでくる淡緑の眼差しは、強くシルヴィアを捉え逃げることを許さない。
 心の底を射抜くような目に、ついにシルヴィアは屈した。

 「………『紛い物の皇族』、だから」
 
 それは言葉に出してみると尚更、ひどく情けない、いじけた答えに聞こえた。
 案の定、頭上のアシャンはこれみよがしな溜息をついていた。
 度しがたい人間だ、とでも言いたげだった。

 「まったく……かしづき共には主人面して命令している人間が……
 こんな無駄に広い浴場で、溢れるような湯水に季節外れの薔薇の花びらを浮かべ、一瓶で庶民なら数年は遊んで暮らせるような値の香油を棚一杯に常備して湯浴みしている人間が皇女ではない……なら本物の皇女様とやらは天国であろうが東の桃源郷であろうが満足はできないだろうな」

 なぜ話が以前のものに戻っているのか、まだよく分からなかった。

 「……でもお前も言ったわ。大筋では間違ってないって。それに多分」
 とめどもなく表情が歪んでいく。
 「お前がいったことは正しい。私の父親は誰だかわからない。誰であろうと証明する手立てなどないし、もしも陛下でなかったとしたら私の身分はそれこそ平民以下よ。本来ならこの宮の侍女たちにだって仕えられない身分の、本来だったら……」

 シルヴィアはごくり、と喉をならし、頭に浮かんだ言葉をそのまま口に載せた。

 「娼婦になるくらいしか生き様のなかった人間かもしれない」

 「そうだな」
 
 見下ろす視線が先を促す。
 
 「誰も、パニエラ達だって、望んで私に仕えているわけではない。ただ選択肢がないから、お前の言ったとおりに心ならずも頭を下げている。彼らが私に平伏する理由は私を皇女として認めているからでも尊敬しているからでもない……そんな事くらい私にだって分かってる」

 「だから? だから私は皇女ではない? そうなるわけか? あんたの頭では。
 語るに落ちたな。人がそういったからだと? あんたはそうやって自分が誰であるかの責任までも他者になすりつけるのか? 
 あんたがあんたである原因はすべてあんたをそんな風に産んだ母親か、無視してきた父親のせい、あるいはあんたを軽んじた妹や侍女達のせいか?」

 真っ向から向けられる言葉に、シルヴィアは怒ることも否定することも出来ない。なぜアシャンは突然、行為を中断してこんなことを話はじめたのだろう。
 なじるように、突き詰めるように、苛立ちと怒りを隠そうともせずに。

 「俺はソフィアやパニエラや、ましてやあんたの父親や母親に聞いてるわけじゃない。あんたに聞いてるんだ。皇帝がとか、俺がとか、侍女がとか、そんな言葉を逃げに使うな。
 自分が何者であるかの判断を他者に委ねるな。自分の頭で考え、自分の言葉で語れ。自分が誰であるかくらい自分一人で決めてみろ」

 突き詰めて突き詰めて、シルヴィアの心の奥の一番ふれられたくない部分に正面から押しいってくる。

 


 「同じよ」
 問われて肯定することしか出来ない自分がいた。
 「誰の言葉であろうと、私の言葉であろうと変わらない。私は皇女じゃない、皇女なんかじゃないわ」

 宣言すると、体から力が抜けていった。
 今までの馬鹿みたいなこだわりも、もどかしさも虚勢も怒りも、と同時にたしかにシルヴィアの一部であったものたちが、体から抜けていった。ごっそりと抜けていった。

 その空洞を見つめてシルヴィアは気づく。
 産まれてこのかた紛い物の皇女として生きてきた自分は、その偽の称号をはぎとられてしまえば、何も残されてはいないのだった。
 踊り子の娘という負の称号でさえも、その文脈のなかで語られてきた。怒りも苦しみも、嫉妬も腹立ちも、孤独もやるせなさも愛おしさも、全てその名前の下にあった。
 
 皇女でなくなったシルヴィアはがらんどうで、覗き込んでも覗き込んでも、そこには誰もいない。
 父である皇帝も、母であるイン・シァン妃も、マファルダ皇后も婚約者のラバウル公も、妹のソフィアも乳母のセシーラも、パニエラもフィオラも、もっと多くの自分に頭を下げてきた人間たちの誰も……ただのシルヴィアを定義してくれる人間はどこにもいないのだった。
 そこには誰もいない。帝国の皇女として自分を憎んでいるこのカルハリア人の少年でさえも。

 シルヴィアという個人には関係性も記憶もなく、愛してくれる相手も憎んでくれる相手もいないのだ。ただのシルヴィアは抜け殻も同然だった。

 「そうよ、皇女じゃない。でも、だったら変よ。おかしいじゃない……」
 
 憎かった。
 こんなことに気づかせた相手が殺してやりたいほど憎らしかった。
  
 「ならどうしてお前は私を憎むの? どうして責めるの? どうして皇女だって、皇女だからって、皇女のくせにって言い続けるの? 
 恨む相手なら他にもいくらだっているじゃない。父様でもソフィアでも、私より、もっとずっとふさわしい人間ならごまんといるっ。責めるなら、恨むなら、彼らにすればいい。
 踊り子の娘などではない、疑いようもなく青い血をひいた彼等に、間違っても娼婦などではない人間にすればいいっ!」
 
 ずるい。そして醜い。
 これ以上ないほど汚い言葉を吐いている。そして、それこそが自分の本音であったという事に吐き気がする。心底、吐き気がする。
 嫉妬と憎悪で頭がおかしくなりそうだ。

 「見当違いよ、お前のしてる事はとんでもない見当違いだわ、だってお前が私に向ける感情、それは私に向けられるべきものじゃない。私のものじゃないっ、私のものなんかじゃ……な、い」

 定まらない歯の根を、ぎり、と喰いしばってシルヴィアは落ちてくる視線を睨み返す。
 「大嫌い」

 仮面を引き剥がされ、虚勢を暴かれ、醜いものを残らず引きずり出されてしまった今、もうシルヴィアには何も残っていなかった。何もかも、このカルハリア人が奪いとっていったのだ。

 「お前が私を嫌うよりも、もっとずっと私はお前が嫌いだわ。お前なんか嫌いよ、殺してやりたいくらい嫌い、大嫌いっ」

 こんな事なら体を奪われたほうが、よほどましだった。自分を望んでいない人間の愛撫や、嫌悪されながら抱かれることのほうが、どんなにか。
 なのに彼はさらけ出すだけさらけ出させたその後で、シルヴィアを放置するのだ。 
 これ以上の侮辱はない。これ以上の辱めはない。復讐だというなら、これこそがなによりもの復讐だ。
 なのに、

 「また急に……」
 アシャンは少し笑った。
 「ずいぶんと威勢が良くなったものだな。さっきまでは何をされようと人形のように寝転がっていたくせに……まるで毛を逆立てた猫だ」
 
 相手は憎憎しいほど平然とした顔でそういってのけ、もう興味はなくしたとばかりにシルヴィアの上から退いた。 
 そうして部屋の隅から幅広の浴布をとってくると、毛を逆立てた猫よろしく睨み上げるシルヴィアに放って投げた。体にかけろ、という事らしい。
 
 「上等な布地だ。綿はもとより肌触りと吸湿性にすぐれた素材で決して安くはないが、繊維の長い極細糸ばかりをよって織り上げられたその高級綿布は、質も値もそこいらの絹の比ではない。綿の産地は南陸のムーラ、紡績はラスマー、染めと織りはカルハリアだ」
 と彼は口を開く。

 







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