第十一章 湯殿にて (2)
シルヴィアは、無心に手前の湯をすくうことを繰り返していた。
生気がなく単調な動きを繰り返すばかりの無表情に、つかの間のその精神状態をうたがったが、それも彼女が自分の姿を認めるまでだった。
「長湯は体に毒ですよ」
唖然として自分を見返すばかりの相手に、そう声をかけた。
見開かれた黒眼をおおう驚愕はほどなくして認識へ、次に狼狽へ、さらには冷ややかな敵意へと切り替わる。
「ここで何をしてるの?」
立ち込める湯煙も凝結するほどの冷たい声に、アシャンは答える。
「話せば長くなりますが、端的にいえばあなたが湯殿係の者をみな追い出してしまったせいですね。外の者は、みな何をしてあなたの不興をかったのかと戦々恐々でした」
皇女は聞いていなかった。口調を強くして言う。
「下がりなさい、今すぐに」
アシャンはそんなシルヴィアを横目に、パニエラに渡された籠を小卓の上において、香油の瓶を抜き取り、もてあそぶ。
パニエラが持っていたそのラベンダー・ベースの香油には、気持ちを穏やかにして鎮めてくれる効果がある。ついでにいえばラベンダー、別名、薫衣草は安眠効果でも有名だ。
籐の籠の中は、その他にも鎮静効果や催眠作用のあるもので一杯で、中にはどういうわけか猫科をならす、またたびの香り袋まであった。一体あの侍女は主人を何だと思っているのか。
「あなたも、もうすこし自分に仕える人間の気持ちを察したほうがいい。湯殿係にしろ、かれ等に与えられた仕事はここであなたの世話をすることなのだから、その仕事をとりあげるなら、きちんと心をつくして理由を説明してやるべきだ。でないと……」
アシャンは肩をすくめ、両腕を広げた。
「こういう事になる」
「こういう事って――」
冷えた怒りをよそおう黒眼がたじろぎ、その底が透けて見えた。羞恥と屈辱と、そして、ひるみ。
アシャンが浴槽へと歩みよる一歩ごとに、そのひるみは大きくなっていくが、そうすることが敗北だとでも思っているのか、体を覆ったり、しりぞいたりすることはない。
唇を引き結び、頬をひきつらせながらも、一歩もひかず自尊心と羞恥心の間で踏みとどまっている。
「下がりなさい。それ以上、寄ると声を出して人を呼ぶわよ」
あくまでも命令する側の立場で。
「残念ながら、ここからでは聞こえませんよ」
「いいから下がりなさい」
「相手を従わせられない命令は、するだけ損ですよ。肝心な時にその効力を失ってしまいます……それに確か主従関係は逆転したはずだったと思いますが。おかしいですね。あなたはまだ私に命令している」
脅し半分、侍女の口調半分で相手を黙らせると、アシャンはあらためて湯の中の女に視線をやった。
湯煙たちこめる半透明の視界の中で、白い裸体がゆらゆらと揺れている。湯に流れ同心円状にひろがった黒髪に埋もれるようにして覗く女の上半身。
薄い肩と、折れそうな鎖骨と。
上気してほんのりと薄紅色にいろづく肌。濡れた黒髪が幾房かその白い肌地にからみついて流紋を描いている。
それは女というよりはまだ少女の体であったが、奇妙な艶かしさがあった。
当人が好むと好まざるとにかかわらず、おそらくこの皇女は東方の出身である母親の血を色濃く受け継いでいる。その肌も髪も、やはりこちらの人間とは違う。
あの時は笑ったが『男心をとろかすような』といったヘザルの言葉も五年後にはまんざら的外れではなくなっているかもしれない。
いたいけなまでにか細い骨格と、匂いたつような仄白い肌には、女とも少女ともつかぬ、あやうい色香がある。それは踏みしだく足をさそう新雪のような、一種禁欲的な色香であったが……
不完全の美。未完成の蠱惑。
異母妹のソフィア皇女の彫刻のような完全な容姿に、こういう種類の危うさはなかった。
どちらがより美しいかといえば無論ソフィアのほうだろうが、指を誘うような、見てはならぬものを見ているような背徳的な香りは、ある種の人間にとっては何にも変えがたい好餌だ。
――なるほど。これがあの男の好みか。
アシャンは一人ごちる。
いずれは目前の花を散らすだろう男の顔を思い浮かべて。
母親のほうを望んだ皇帝とは血縁だけあって、女の好みまで似ているらしかった。
「いい加減にして」
無遠慮な品定めの視線を睨みかえしながら、湯の中のシルヴィアは再度聞いた。
「こんな所まで押しかけてきて、何かの嫌がらせのつもり?」
「パニエラにあなたの体を洗ってほぐし香油を塗ってこいと言われました」
「それで?」冷ややかな声が先をうながす。
「役得ですね」
絶句し、一気に耳まで赤くなったシルヴィアに、アシャンは苦笑した。弄んでいた香油をシルヴィアの横、浴槽の脇に置く。
「そうでなければ湯殿係とあなたとの間をとりもてという事でしたが」
「分かったわ」
コケにされたと感じたのだろう。懸命に怒りを抑えているだろう声がいう。
「彼女たちを呼び戻してお前は下がりなさい。それでいいわね?」
ずいぶんと恩着せがましい口ぶりだった。自分では最大限の譲歩をしたとでも思っているのか。
「彼女たちを追い出したのはあなただ。呼び戻したいのなら、どうぞそれもご自分でご自由に」
「な――」
「もっとも、ここからでは声を出しても聞こえないでしょうから、畏れおおくも皇女殿下におかれましては、御自らお召し物に袖をとおされたのち、やはり御みずから湯殿をご動座あそばし、外のかしづきどもに御声をかけていただく次第とあいなりますが」
「面白いわね。お前に冗談が言えるとは思わなかったわ」
「べつに冗談ではありませんよ。ただ皇女殿下はどうにも私の手は借りたくないご様子なので代替案を申し上げたまでです」
「いいわ」
慇懃無礼以外の何物でもないアシャンの口調に、シルヴィアは叩きつけるような声をかえす。
「自分でするわ。そこをどきなさい。パニエラやお前がどう思っているのか知らないけど、私だって服の一着や二着くらい自分で着ることができるのよ」
「ではどうぞ」
アシャンは体を開き道を開ける。
「もうお前に用はないわ」
「はい」
「……まさかずっとそこに突っ立っているつもり? 湯を出て布をとらなければならないのよ」
「お気づかいなく。女の裸など見飽きてますから………どうしたのです? 出て行かないのですか?」
浴槽の中の女は、射殺さんばかりの視線でこちらを睨み上げている。
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