第十一章 湯殿にて (1)
ぱちゃん。
ぱちゃん。
すくっては落ち、落ちてはすくう。
シルヴィアは湯殿に一人。湯遊びに興じている。
しかしその目は虚ろで、少しも己のしている事を楽しんでいる風ではない。
白い両手を合わせて椀の形にし、シルヴィアは湯殿の水をすくう。
定型のないものをすくう。
すると、当然ながらこぼれる。
手と手、指と指のつぎ合わせのわずかな隙間を見つけては、水はあっという間にするすると滑り落ちていく。
こぼれてしまった後は、四方に広がる浴槽のどの部分がさっきすくったものなのか、見分けることも不可能だ。
すくった状態をどれだけ維持しようと努めてみても、水が逃げていくのを幾分か遅らせることはできても、やはり落下現象それ自体は止めるべくもない。
人間の掌は水をすくうには不向きなようだった。
湯の上には色とりどりの薔薇の花びらが浮いている。たまに花びらが流れてきては、掌につくった椀の中におさまる。
赤、白、黄、紫、……
それぞれの花言葉はなんだっただろう?
赤、愛情。
白、尊敬。
黄、嫉妬。
紫、誇り。
ここにない黒は、憎悪。
水が流れて掌の上に残る花言葉は何かどれも違う気がして、シルヴィアはそのうち、するつもりもない花占いを強制する花びら達を、湯からつまみ出すようになった。
花をすくっているつもりはなかった。
だが、なら、いったい何をすくっているのだろう?
ずっと昔に聞いた、底の抜けた椀で水をすくう男の話を思い出した。
ある旅人が通りかかり湖ぎわで底の抜けた椀を手にした男に、何をしているのかと尋ねる。
男は答えていわく、
『この椀で湖の水を一滴のこらず、すくい上げねばならぬのだよ。そのためだけに俺はここでこうしているのだ』
事情をきけば、最愛の女に求婚をしたところ条件を出されたのだという。その条件というのが、底の抜けた椀で湖の水を全部すくって空にする事が出来たなら結婚してやる、というものだった。
以来、男そこでそうやって十年、女がくれた底抜け椀で、湖の水をすくい続けているが水嵩はいっこうに減る様子もないそうだ。
話を聞き終わった旅人は聞く。
――君はそれで本当に湖を干上げることが出来ると思っているのかね?
男は答える。
――いいや。でもこうしているうちは諦めなくてすむからね。
旅人は重ねて聞く。
――何を諦めたくないのだね? 結婚を? 彼女を?
男は答える。
――いいや。底の抜けた椀で水をすくうことを。
その物語を語って聞かせてくれた人間は、手段が目的にすげかわってしまう馬鹿馬鹿しい寓話だと教えてくれたが、シルヴィアは笑えなかった。
物語はそこで終りではない。
旅人は男から底の抜けた椀を取り上げ、地面に叩きつけ割ってしまうとこう言った。
――約束から十年。あなたの最愛の女は、もう当の昔に他の男の妻となり、二人の子の母となった。
彼女は十年前に交わしたあなたとの約束を悔い、私に言った。行って、もしまだ湖をすくい続けているようなら真実をつげて欲しい。そしてこの十年の間、あなたに為した残酷な仕打ちについて許しを乞うてきてくれと。私が彼女の夫だ。
それを聞いたとき、男は一声、つんざくような叫び声を上げた。そして旅人に掴みかかり、気が違ったかのように、ありとあらゆる呪詛を浴びせかけ、声の限りにののしった。
旅人が去っていくまで、そうした。
男は旅人が去ったのを見届けると、その場に膝まづき二つに割れてしまった椀の前で涙した。
女が結婚したと知ったから泣いたのではなく、もう底の抜けた椀で水をすくう事ができなくなってしまったから泣いたのだ。
物語にはまだ少し続きがあったような気がするが、記憶がおぼろげで、もう良くは思い出せない。
覚えているのは……
たとえ底が抜けていても水がすくえなくとも男にとって、その椀はとても大事なもので、その椀で水をすくうという行為もやはりとても大事なことだったのだ、という事だ。すくなくとも男にとっては、きっとそうだった。
その椀を男から奪った旅人はとてもひどい事をしたのだと、話を聞いた幼いシルヴィアは思ったものだ。
今はこう思う。
一生、湖でくめどもつきぬ水をすくい続けるのと、椀を壊されて現実に立ち帰されるのと、男にとっては一体どちらが幸せだったのだろう? あるいは不幸せだったのだろう?
椀をたたき割られた男は、その後どうしたのだろう?
旅人は聞いた。
――何を諦めたくないのだね?
シルヴィアはまた、穴だらけの両手の椀で浴槽の水をすくう。やはり水は、底の抜けた椀にくまれたように足早に落ちていく。指の間をすりぬけていく。シルヴィアの掌は、水をすくうには不向きなのだ。
――何を諦めたくないのだね?
浅く息をつくと、その呼気は湯煙に混じって天井にのぼっていった。
空になった両手を前に、ぼんやりとしてしばらく、背後に気配を感じた。
「パニエラ? 別に私は怒って皆を追い出したわけじゃないわ。ただ一人にしてと言――」
振り返ったシルヴィアは、そこで言葉を失った。
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