第十章 夏が終り秋がきても (3)
永遠とも思えた時間はおそらく、実際には数秒に満たなかったのだろう。
長いあいだ自分の足元に転がった指輪をじっと見つめていたシルヴィアだったが、やがてその硬直がとける時が来た。
人形のようにぎこちない動作で上体がかたむき、視線と腕が、床に落ちた孔雀石の指輪へと向かう。命ぜられたままに。
それを見下ろすソフィアの顔に満面の笑顔がひろがっていき――
「アシャン……」
屈みかけたところを制され、シルヴィアは自分の前に立ちふさがった者の姿を呆気にとられて見つめた。
アシャンは、そんなシルヴィアに無言の一瞥をかえした後、しゃがんで床に転がった指輪を拾い上げた。
そのまま指輪を手のひらに収めて、呆然と立ち尽くすソフィア皇女の前まで歩み寄る。
その足下に膝まづいた。
「だ、誰がお前に拾えと――」
「この孔雀石よりもはるかにお美しいソフィア皇女殿下」
抗議の声など聞かなかったようにアシャンは、ソフィアの手をさらった。
動揺して振りほどこうとする相手の手を、やんわりと、かつ強引に制して、指輪をゆっくりとはめ戻す。
手と手、指と指の間。ゆっくりと、これ以上ないほど丁重に。
「どうかお気をつけくださいますよう。
ご存知ですか? 孔雀石は主人の危地においては身代わりに割れるという、真に忠誠心かたき石。そのような石をうっかり落として自らの手で割ってしまえば、一体どのような災厄が降りかかることか」
「お前――」
「どうか今後はこの指輪がもう二度とうっかり抜けてしまう事などないように、殿下の細指に合わせて設え直していただき、かかる災厄を未然にふせがれますよう。心より注進もうしあげます。
ただでさえ孔雀石はやわらかく、もろい貴石。
幸い今回は無事ですが、次回以降は……落とされた石がどう振舞うものやら、誰にも見当がつきませんゆえ」
視線に力をこめて、ほほえむ。
脅迫と媚を等分にふくませて。
ソフィア皇女は、何かを叫びかえそうとして口を開くも、青くなるやら赤くなるやらで、結局なにも口にすることは出来なかった。
ただ指ばかりが、勝手に触れられ指輪をはめられた薬指をもてあそぶ。
いましがた自分が感じた身震いの正体が、恐怖なのか怒りなのか、それ以外のものなのかも分からず、己の意向をきれいさっぱり無視した侍女の無礼を咎めることもかなわなかった。
アシャンはソフィア皇女に一礼すると、後ろのシルヴィアを振り返った。
打たれたように立ち尽くし、ただこちらを見つめ返すばかりの主人に、アシャンは手をさし伸べる。
「それでは白磁宮にもどりましょう。シルヴィア“皇女殿下”」
■
「殿下は?」
「湯殿にいらっしゃるそうよ」
本宮から帰ってきて以来、皇女はアシャンを避けている。
視線をあわせる事すら徹底的に避けているようで、表面上の主従関係の中ではアシャンの方から強引に切り出すことも出来なかった。
「また、かしづきの者が追い払われてね……困った彼女たちに呼ばれて今向かう途中というわけなのよ。まったくあの方にも困ったものだわ」
パニエラは溜息をつく。
「お一人では香油を塗ることや体をほぐす事はおろか、お召し物一つ満足に身につけて出てくることは出来ないというのに……ああしてつむじを曲げるたびに人を追い出す癖はいい加減どうにかして欲しいものだわ……まあ今日は確かにいろいろとあったから、お気持ちは察しますけどね」
アシャンは笑いをかみ殺す。
なんのかのと言いながらこの侍女は……
「パニエラ様は、本当に殿下のことを『嫌いではない』と思ってらっしゃるのですね。本宮でソフィア皇女を相手に殿下をかばわれたときは、正直すこし意外にも思いましたが……」
パニエラは、両手にかかえもった洗材やら香料やらの後ろで肩をすくめる。
「お前ほどじゃないわよ。今日のお前は……そうね、侍女というよりは殿下をお守りする騎士のようだったわ。フィオラがむくれていたわよ。せいぜい後で機嫌をとりなしておくことね」
「……なにやら、誤解があるようですが」
「別にいいのよ、間違いが起こらない限り。そういう気持ちの上での息抜きもね、必要なときもあるでしょう。特に、あの子はさいきん恋人をなくしたばかりでね……ああ、相手はちゃんと男だったから安心なさい。あの子に、本当の意味でのそっちの趣味はないと思うわ」
「……」
「ただね、誰だって心の弱っているときは、安心して触れられる人肌の温もりとか笑顔とかが欲しくなるものなのよ。むだな警戒心を抱かなくてすむ分、中性的な同性は都合がいい相手というだけ……たぶん、シルヴィア様もね」
「はぁ」
『そういうことで』とパニエラは手にもっていた香料等をアシャンに押し付けた。
「頼むわね、考えてみれば私よりお前のほうが、はるかに適任だったわ。きっとお前が行った方がシルヴィア様も喜ぶでしょう」
アシャンは聞き返す。
「湯殿に、ですか?」
「ええ。お前が一人でお世話するなり、機嫌をとりなして湯殿係に世話をさせるなり、どちらでも好きなように。シルヴィア様の操縦はお手のものでしょう?」
「……湯浴みのお世話は、今までした事がないのですが」
「なら、ご機嫌の方をどうにかすることね。ついでに避けられている理由も聞いてみたらどうかしら? 騎士さん」
パニエラは片目をつむってアシャンの背中をたたくと、笑いながら立ち去っていった。
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