第九章 その槍の名は (3)
「今日、お前を呼んだのは他でもない、長らく婚約期間にあったお前とラバウル公の正式な婚姻が決まったからだ。九の月、月齢十二の日に、婚約が履行される事となる。それまで挙式にそなえてもろもろの準備をすすめるかたわら、白磁宮を去る用意をととのえるように」
決定事項を最小限の形で告げる声があった。
当然ならが、そこにシルヴィアの意思が介在する余地はない。
シルヴィアは低頭する。
「はい。承知いたしました。このシルヴィア両家の良き橋渡し役となるよう――」
「余計な事は考えずに挙式の日まで周囲の言うことに従い、身を慎んでおればそれで良い。詳細に関してはおって沙汰があるだろう」
シルヴィアは下げた頭の下で、その言葉の意味をかみ締める。
つまり、自分には政治の駒としての役割すら担わされることはないという事、か。
(私は……いったい何を期待していたのというのだろう?)
産まれてこの方、数えるくらいしか会話をしたことのない相手に、いまさら父親としての何かを期待していたとでもいうのか?
白磁宮に母をおとなうこの男は一度だって、自分を膝の上に抱いたことなどないではないか?
――私は皇帝を父に持ち、異人の踊り子を母に持った、ただの庶子だわ。首を狙っているというなら覚えておきなさい。陛下はそういう方なのよ。
かつて誰かに宣言したその言葉をうたがったことなどないというのに。
なのに何故こんなにも泣きたいように思うのか。
いつものように笑いとばすことが出来ないのか。
認めざるを得なかった。
もうすっかり根絶やしにしたとばかり思っていた感情が、まだ心の片隅に残っていたことを。
儀礼でも良かった。
優しい言葉でなくとも良かったのだ。
皇帝として皇女にかける言葉を、政略婚であるならそこに存在するはずの意義を、いま自分がここでこうしている理由を、目の前の男の口から聞かせてほしかった。
両家の架け橋としての期待、あるいは夫となるラバウル公の身辺に目をくばれ、寝首をかけといった種類の期待ですら良かった。
どれほど理不尽であったとしても、そこに意味が、絆が存在しさえすれば、シルヴィアはそれにすがっただろう。
「……一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
皇帝の首肯を受けて、シルヴィアは先を続ける。
「私がいなくなった後の白磁宮は、どなたのものとなるのでありましょうか?」
「それはお前の感知するところではない」
切り捨てるようにいった皇帝の横で、マファルダ皇后は笑みを深くする。
その含みのある視線を受けて、シルヴィアは全身の血が沸くように感じた。
――なるほど。
噂は真実であったという事か。
かつて母のために建てられ、今シルヴィアの住む白磁宮を、マファルダ皇后の愛娘であるソフィア皇女のものとなる、という噂。
白磁宮の佇まいを気に入った皇女が母親にねだり、そして皇后が皇帝に話を通したというその話を、しかしシルヴィアは今この瞬間まで信じてはいなかった。
いかなこの男でも、愛人のために建てた宮を、正妻の娘に払いさげるような恥知らずな真似はすまいだろうと……いや違う。そうではない。もっと主観で考えていた。
本当は心のどこかで思っていた。
この男は、イン・シァン妃を愛していたのではないかと。彼女の記憶がつまった白磁宮を大切に思っているのではないのか、と。
「謁見は以上だ。下がってよい」
見上げた玉座は遠く高く、それはちょうど自分とこの男の距離だ。母とこの男の距離でもあった。
対等ではない。
妻と夫ではない。娘と父親ではない。この関係は、皇帝と、皇帝の寵をうけた女と、そこから生まれた子供。それ以上でも以下でもない。
そうだ。この男は母を殺した。たとえ直接、手を下すことはなかったとしても。
この距離こそが、母を壊し、殺していったものだ。
「聞こえなかったか? 下がって良いと言ったのだ」
シルヴィアは胸元の手を強く握り締めた。
「陛下、白磁宮の花は今年も美しく咲いております」
そして私は――シルヴィアは、わずかに驚いた顔をした階上の男を見上げる。
その白磁宮であなたを殺すという刺客を飼っている。
祖国を滅ぼされ、流された血のあがないを欲してこの地を踏んだ暗殺者。
その怒りはいまだ冷えず、怨みは深く、だからこそその爪と牙は鋭くあなたを襲うでしょう。
そして私は彼を告発してそれを未然にふせぐことも、このまま黙って見ていることも出来ます。彼の目的に協力することさえ、出来るのです。
見上げた先、玉座の皇帝と双剣の紋章。
さきほどオンジュー侍従長が言及した王者の剣が一対、シルヴィアをはるかな高みから睥睨していた。あらん限りの力を込めて、シルヴィアはそれとその持ち主を見すえ返す。
そう、私とて空手ではない。この手に武器を握っている。
それは決して騎士の誉れである剣などではない。馬上の騎士を鞍から落とすためにつくられた雑兵の武器、槍です。
でも、だからこそ私の槍は、長く遠くのびて玉座に座るあなたにもきっと届くでしょう。
そして一度とどけばその槍はあやまたない。
私などとは違って迷いのない、この二年間ただそれだけのために研がれてきた槍だから。
私がその槍を振るえば、あなたは刺し貫かれるかもしれない。
それでも――
シルヴィアは口を開く。その言葉は、まるであらかじめ用意されていたかのように淀みなく滑らかに舌を流れていった。
「今年の夏の花は例年よりも大輪の様子。見る者が少ないまま、朽ちていくには惜しい美しさでございます。
陛下におかれましても、近くに立ち寄った折あらば、是非なつかしい花々を愛でに足をお運びになっていただきたいと存じます。白磁宮に陛下の姿が見えれば亡き母の心も慰められましょうゆえ」
それでも、あなたは今と同じようにしか私を見ることはないのでしょうか? お父様。
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