第九章 その槍の名は (2)
「申し訳、ありません……」
喉が、かわく。
それはきっとこんなにも、じっとりと汗ばんでいるからだろう、とシルヴィアは思った。
額の脇を流れていく冷たい汗は、頬をつたい、顎からパタパタと落ちて緋の絨毯の上に染みをつくった。
こんな事ならもっと水を飲んでおくんだった、と訳の分からない方向に思考がかたむいていく。
「このシルヴィア、白磁宮でひきこもったきり時事にうとい身の上にて、宮中の噂についてもこれが初耳。事宜をわきまえぬ返答では皆様がたの期待に添うどころか、白けさせるばかりの結果となりましょう」
そうかわすが、皇后は尚もからんでくる。
「あら、“あなたの口から”少しばかり珍妙な答えが出たからといって一々笑いものにするほど、宮廷の者の心は狭くありませんわ。変にこちらの流儀に合わせようとなぞなさらずに、あなたはあなたの流儀でお答えくだされば、それで良いのですよ。なんとなれば白鳥の羽をカラスにまとわせてみても、それは詮なきこと」
結局、シルヴィアに救い舟をだしたのはオンジュー侍従長だった。
「白鳥にカラスに鳩ですか。いや、まったく女性というものはすべからく鳥にございますな。捕まえようとした途端、ぱっと枝を飛び立って、一瞬あとにはもう届かない。世の男は、大空を飛びまわる彼女たちが翼を休めに地に降り立つ瞬間を今か今かと待ち受ける狐のようなもの。いやはや、地を這う身の上は真につらい」
そこでオンジュー侍従長は一人、謁見の間に白々しい笑い声をひびかせた。
「では狐は早晩、飢え死にしてしまいますわね」
話の腰を折られて面白くなさそうなマファルダ皇后に、侍従長はそつのない笑みを向ける。
「それがこの狐、ただの狐ではありません。その狐には悪知恵がそなわっておりまして、彼等とてただ指をくわえて翼ある彼女達が地に降り立つのを待っていたわけではありません。より効率よく鳥を狩る方法はないものかと様々な工夫を重ねたのでございます」
「さて、それはいかような?」
「彼等はまず、はじめに石を投げ、そしてそうする内に弓を作り上げました。また木の枝で休む彼女たちをよく狙えるよう、邪魔な枝葉をはらう道具をつくるうちに槍を発見しました」
「あらあら、早速お話が苦しくなって参りましたわね」と皇后。
「いえいえ、一般にいわれるように槍は歩兵が騎兵に立ち向かうために発展した武器などというもっともらしい講釈、あれは後世の男達が体面を気にして作り上げた与太話です。本来は馬上の騎士などではなく、頭上にある木の枝を払うためのもの、長い柄をもつナタなのでございます。それもこれも鳥を射とめんとした苦心のたまもの」
そこで皇后がやれやれとばかりに首を振るが、その表情は若干やわらいでいるようだった。
「といいましても一番の発明は、そのような道具を作っている間の時間も無駄にせずにすむよう、その場にいなくとも鳥を捕まえることの出来るすばらしい仕掛け、罠でした。
罠の発明は、道具を作る以外にもさまざまな余暇を狐にあたえ、そしてその余暇はさらなる技術の発明、研鑽、蓄積へと使われました。
言語、文字、農耕、灌漑、算術、天文、建築……数え上げれば枚挙にいとまがございません。
次々と偉大な発明がなされました。そうして彼等は一度とらえた鳥がまた空へと逃げてゆかぬよう、ついに巨大な鳥籠を地上に作り上げたのにございます。これが今日、われわれが国家と呼ぶものにございます。
さて、翼ある彼女達を残らず大空から奪い去り鳥かごの中に入れてしまった後、狐たちはどうしたかお分かりでしょうか?」
「いいえ。ちっとも」
「簡単な話です。互いに鳥籠を奪い合ったのです。今までつちかった技術を駆使して」
「そして戦が産まれた、というわけですわね。まったく殿方という生き物はどうしてこう何もかもを血なまぐさい方向へと結び付けてしまわれるのかしら。戦だの武器だのと」
「いえ、それでは因果が逆さにございます。鳥の存在があったからこそ、血が流されたのです。すべての男の産みの親が女性であるのと同様に、戦と文明の起源もまた女性にあるということ。いやまったく、教会の申すとおり女性とはまこと業深き存在と申せましょう。人類最初の血も、おそらく女性によって流されたに違いありますまい。人類最初の男性に生を与えたその時に」
マファルダ皇后は笑いを懸命にこらえつつも、異議を挟むのを忘れなかった。
「あら、最初の女人はたしか殿方の肋骨から生まれたのだと記憶しておりますが。そしてその二人に生をお与えになった神もやはり殿方。神書によれば人類最初の男性に生を与えたのは殿方ということになっておりまするがオンジュー殿、これはいかに?」
「では、翼のある殿方ということで」
、
そこで皇后はついに噴きだし、あとはオンジュー侍従長の独壇場となった。
場を完全に掌握した侍従長は、いよいよ舌を滑らかにする。
「そして剣は」
とオンジューはそれまで話の外におかれていた皇帝へと向きなおる。
皇帝の背後にある、皇家の紋章、交差する双剣を視界におさめつつ。
「その籠の奪い合いのさ中に産まれたもの。弓や槍といった本来は他の目的のために発展していった道具はしょせん雑兵の武器にすぎません。
引き換え、剣の刃はもっぱら戦いという純粋な用途のために産声を上げた代物。他の武器とは明らかに一線を画します。それが証拠に、騎士は剣に誓いをたて、叙任式においては剣の背に首をあずけます。誓いをささげる対象。神聖なる刃。王者の象徴は古代より剣であって、弓や槍ではない理由がよくお分かりの事と思います」
弓や槍は狩猟でも使われるが、刀剣は純粋に人が人を殺すためのものという点で一線を画する。洋の東西をとわず刀剣は、権力、権威、王権の象徴としてたっとばれてきた。
オンジューはそこで一端言葉を切り、皇帝とその背後の双剣の紋章に向かって頭をたれる。
「そしてわが親愛なる皇帝陛下におかれましては、その王者の剣を生まれながらに二振りも頭上に抱かれているご様子。わが国の鳥籠がかように大きいのも無理からぬ事にございましょう」
鳥篭は、国家と後宮の両方をかけているのか。
話の内容はともかく、なかなかに見事な手腕といえた。
この小話の間にオンジュー侍従長は、シルヴィアを助けて恩を売り、皇后の機嫌をとりなし、さらに皇帝の顔を立てるのも忘れない。
一つの石で、三羽の鳥を落とした狐。
味方にすれば頼もしいが、敵にすれば怖い相手となるだろう。
さすがに水面下で宮廷を掌握する影の実力者といわれるだけのことはある。
そしてこの男、政敵とはいわないまでも、シルヴィアの婚約者のラバウル公とは微妙な関係にあったはずだ。
救い舟を出されたところを見ると徹底的な悪感情は抱かれていないようだが。
自分はこの先、この男を相手に公爵夫人として一体どう振舞っていけばいいのか……
シルヴィアは侍従長の手腕に舌を巻きつつ、のしかかってくる重圧を意識せざるを得なかった。
皇帝は、微苦笑を浮かべると浅く息をついた。
「まったくお前は昔から口が、ことに屁理屈がうまいな」
「恐れ入ります。それのみが特技でございますゆえ。しかし、剣のくだりは事実のみしか並べておりませぬ。それを屁理屈とおっしゃられては心外のきわみ」
「それが上手いというのだ」
侍従長はかしこまって、一礼する。
「長々とお耳汚しを失礼いたしました。実は今しがた気づいたのですが、あらためて見回してみると、どうやらここは私のサロンではない様子。いやはや、年のせいでいささか耄碌したようにござります。場所をわきまえぬ度を越した一人語り、お恥ずかしい限り。両陛下殿下におかれましては何卒ご寛恕のほどを。
そしてどうかこの先はこの老骨めを脇において、本来の謁見を再開なされますよう。シルヴィア殿とて、年寄りの繰言を聞くためにこの場にいらした訳ではありませんでしょうから」
「ああ、そうであったな」
皇帝は鷹揚にうなずく。
そこで、緩みかけた場の空気は再び硬くなる。
皇妃の視線に棘がもどり、皇帝の表情からも、わずかな苦笑が消えた。
ゆるくその唇が開閉し、シルヴィアの名を刻む。
「シルヴィア=ディ=フォルトナート」
これから下されるだろう言葉の内容を十分に理解し、また受け入れているにも関わらず、シルヴィアは瞬間的に体を硬くした。
胸に当てた掌の下、心臓の早鐘を止めるすべもない。
|