第九章 その槍の名は (1)
重々しい軋み音をたてて扉が左右に開くと、目の前にまっすぐに伸びる緋色の道が立ち現れた。
ビロードの一本道に平行して壁の両脇には太い円柱が幾本もならび、玉座へと続く壮大な回廊をつくっている。
外国の使者などを迎える公式の謁見ともなればその道にそって廷臣達がずらりと並び立ち、謁見者に帝国の威光を見せつけ、国力の差を知らしめるまたとない演出となるだろうが、幸い今日の謁見においてそのような無言の槍衾はない。回廊には警護の兵の姿が見えるばかりだ。
今、謁見の間にあって身分のある人間は、玉座に座る皇帝と皇后、さらに二人の脇に控える宮廷顧問官を兼任する侍従長オンジューの三人だけであった。
それでもシルヴィアは、のしかかってくる場の空気に押しつぶされそうな自分を感じていた。
ぴんと張り詰めた場の空気は、無数の細い針となってこの場における異分子−ーつまり、シルヴィアを排除しようと降り注ぐ。
その場にあるべくしてある以外の全ての者をひれ伏させ、威圧せずにはおかない。それが玉座の間である。
「シルヴィア皇女殿下、ご入室にございます」
その声を合図に、シルヴィアは足を踏み出す。
一歩、二歩、三歩。
階上からそそがれているだろう注視のなか、顔をあげて確認することも出来ず、自分の衣擦れの音しか聞こえない。
顎を引き視線を正面に固定することだけに専心して、ただ歩いた。
やがて玉座の下までたどり着くと、シルヴィアは腰をかがめて膝をつく。左手で裾を払い、右手を胸にあてて深く頭を垂れた。
「第十八皇女シルヴィア、ご招請により御前にまかりこしましてございます」
その声は思っていたほどの半分も堂々と響かなかった。喉元にきゅうと締め付けられているような感覚があって、正常な呼吸を維持するだけでも途方もない精神力をようした。
シルヴィアは場の空気に呑まれかけている己を自覚する。自覚しつつ、なおどうする事も出来ない。
焦燥と緊張に支配されて、シルヴィアは階上の声を待った。
「面を上げよ」
やがて上から振ってきたしわぶいた声に、シルヴィアは一つ震える。
記憶にあるその声は、もう何年も前に聞いたきり久しく、それでいて懐かしさとは無縁の……父親の声だった。
「どうしました? 陛下は頭を上げて顔をみせよ、とおっしゃっています」
皇后からの催促も受けて、シルヴィアはようやく頭を持ち上げる。そうして体を起こすと、上から言葉を下すものの姿が良く見えた。
階上の玉座に座るのは、白髪の混じりはじめた髪に目尻の皴が濃い、初老の男だった。
若いころは壮健といわれた体躯は肩幅を一回りせばめ、筋肉質だった体もよる年波に衰えて、いたるところが緩みはじめているように見える。
(これがーー)
この国の皇帝。
カルハリアを滅ぼした、アシャンの標的……自分の、父親。
胸をつく感慨が、どういった種類のものか分からずに、ただシルヴィアは階上の相手の姿を食い入るように見つめる。
それはシルヴィアの記憶の中にある男よりも、少し老い、少しやつれて、一見して見知らぬ赤の他人のようにさえ見えた。ただ一対、うがたれたような灰青の瞳だけが老いをよせつけず、変わらぬ無機質な光をシルヴィアに投げかけている他には。
それは男が白磁宮をおとなっていた頃のままに硬く険しくシルヴィアにそそがれて、古い記憶そのままに彼女を縛る。
このガラス玉のような眼差しを目にするたび、言いようのない不安に襲われて母の背に隠れた幼い日を思い出す。いま同じ感覚に胸をつかまれ、だが隠れるべき母の背はとうにないのだった。
「久しいな」
「……お久しゅう、ございます。皇帝ならびに皇后両陛下におかれましては、お変わりなくご壮健なご様子、真に重畳と存じます」
儀礼を儀礼で返すだけのこと。なのに、声がつかえる。動揺している。
―−何をそんなに脅えている?
そういった女装の侍女は、けっきょく婚約者とやらに会いにいったまま戻ってくることはなかった。間に合うように戻ってきてくれといったシルヴィアに対して、『ああ』とうなずいたにも関わらず。
(……嘘つきアシャン)
訳もなく震える体を感じて、シルヴィアは胸に押しあてた掌を強くした。
■ ■ ■
「シルヴィア殿においては」
声は上座の向かって右側、皇后の座から放たれた。
「少し見ない間にまた一段と美しく成長あさそばされて。まるで在りし日のイン・シァン妃のよう。さきほどから陛下もオンジュー殿も、彼女が墓場からよみがえってきたのではないかと戦々恐々のご様子。このような場に慣れていない貴女に対する気遣いも忘れて、まったく殿方というのものは仕様がありませんわね」
皇后−ーマファルダからむけられた突然の横槍にシルヴィアは戸惑う。
「……いえ、滅相もございません」
とりあえずそう返しておくと、皇后は首を振った。
「いいえ、すべて本当のことですよ。あなたが美しいというのも本当の事。金や茶などの薄い色を見飽きた目にとって、その漆黒の色合いは、やはり新鮮にうつります。白鳩の中のカラスとは良く申したもの。そうは思いませんか?」
「……はい」
皇后の言葉に込められた揶揄をシルヴィアは正確に察知する。
白鳩の中のカラス−ーそれはいかな美しいものであっても周りが同じように美しければ目立ちはしないし、醜いものでも対比によっては美しくなりえる。そういった意味である。
暗喩やたとえ話を駆使しつつ、美辞麗句の下に針をしのばせるのが宮廷流。
皇后は言っている。しょせん黒髪の異国女などキワモノの類でしかない、一時の口直しにすぎないのだと。
母−ーイン・シァン妃もまたこのような蓆の上に座り、そして除除に精神を病んでいったのだろうか。
晩年の彼女は白磁宮にひきこもり、めったに本宮に出て行こうとはしなかった。
「白い肌は同じと申しましても、産地が変われば質感もまたずいぶんと違うもの。ご存知ですか? 下々の間では、おのおのの美しさを並べ比べる唄が流行っているようですよ」
そういって皇后は声に抑揚をあたえ、調子をつくる。
「西方の産は、遠目にも輝く大理石のごとく、近寄れば硝子のごとき透明さ、指を伸ばして触れれば天使の羽に祝福されるがごとし。対して東方の産はといえば……」
ふふ、と皇后は優雅な笑みを口端に浮かべ、残りの詩を読む。
「遠くにあっても匂いたつ柔肌、近寄ればしっとりと男の指を誘うがごとし、ひとたび触れればその肌理に吸い込まれて明け方まで放せない……ふふ、市井の言葉遊びには通じませんがきっと、とても魅力的な肌という意味ですわね」
明け方まで放せない……一夜を過ごさずにはいられない、とでも言った意味だ。
その肌理に吸い込まれて。これもやはり性的な暗喩だ。
東方の女は床上手というのが、皇帝がイン・シァン妃を見初めて以来の俗説だった。皇后が引用してみせた唄も、おそらく同じ流れをくむものだろう。
この国でもっとも高貴な女性から出る、明け透けなまでの侮蔑に、シルヴィアは青ざめた。
良くは思われていないだろうと思っていたが、まさかここまで疎んぜられていようとは……
皇后は、シルヴィアの知る限り皇帝の房中事情に対して必用以上の関与は避けてきた。後宮の長として必要最低限の手綱をにぎるかたわら、それ以外の点においては我関せずの態度をとってきたはずだ。
それだけに、いま皇后が面前でちらつかせる悪意の矛先は予想外だった。
だがそれも考えようによっては別段不思議なことではなかったかもしれない。
生前のイン・シァン妃は、皇帝の寵姫というただでさえ難しい立場にあったにも関わらず、他の愛妾……皇后に対してさえ、なんら心配りを示す事がなかった。
その理由はもっぱら気弱で引っ込みじあんな性格にあったとはいえ、ただでさえ『卑賤な生業の女』に皇帝の寵を独占されたと思っている彼女達の神経を逆撫でしたことは想像にかたくない。
そう、マファルダ皇后にとっては、寵姫の存在が面白いか面白くないか以前の問題として、後宮の和を乱す頭痛の種であったはずだ。
挨拶一つしに来ないイン・シァン妃の態度も、皇帝の寵をかさにきて高貴な生まれの姫たちをないがしろにする奢り高ぶった女という印象を植え付けたに違いない。
礼をわきまえず、慣習を冒涜する、卑しい血筋の成り上がり者。
しかもその成り上がり者は皇帝の庇護の下、公式の場に出てくることは滅多になく、死ぬまで白磁宮の中で守られていた。
そして今、その女の娘がこうして目の前にあらわれたのだ。晴れ晴れしい婚姻の知らせを受け取りに。
悪意が、ないはずがなかった。
しかし皇后はどんな腹のうちがあるにせよ、それをおくびに出すことなく、あくまで宮廷人にふさわしい流儀でシルヴィアに追いつめる。
「さて、かように魅力的な東方の肌地。果たしてラバウル公におかれましては、その匂いたつ様に魅せられたのか、あるいは潤いに誘われたのか、はたまた吸い込まれてしまったのか……と、宮廷ではもっぱらの論争なのですよ」
その肌は、遠くにあったか、近くにあったか、それともじかに触れたのか。
それはシルヴィアとラバウル公の関係を邪推する……端的にいえば『どうせあの女がラバウル公を誘惑したのだろう』という趣旨の陰口である。
「この上はご当人であるシルヴィア殿に不毛な論争の終止符を打っていただこう、というのが宮廷の皆様がたの総意でございまして」
典雅さをまとった刺すような嘲笑。
マファルダ皇后は、いとも優雅に悪意の矛を取り上げ、ゆったりとその切っ先をシルヴィアに向けた。
「さてシルヴィア殿、はたして答えはいずれでござりましょうか?」
|