第八章 虚と実と (6)
振り下ろされた二度目の拳は、アシャンの鼻先で止まった。
「糞!」
そのまま目の前の子面憎い餓鬼の顔を、粉砕してやることが出来れば、どんなに気が晴れたか。
だが。
−−それが俺の最期と同時にあんたの主人の命日になる。
さきほど放たれ、いま深く突き刺さった矢がヘザルを呪縛し、その手を止めた。それが相手の術中だと分かっているだけに忌々しさは倍増する。
ヘザルは行き場をうしなった拳を、アシャンの背後の木にたたきつけた。
「二年前の落城がどうした!? ああ、ひどかったんだろうさ。たくさん人が死んだんだろうさ。だがな、そいつはもう過去だ。死んだやつはもう二度と生き返っちゃこない。生きてる奴は、これからも生きていかなくちゃならない」
腹の底から、喉の奥から、込み上げてきてやまない衝動は、吐き気によく似ていた。嘔吐のように、ヘザルはそれをまき散らす。
「何がカルハリアだ。そんな国もうありはしない。とっくに滅んだんだよ。カルハリア人なんて連中も同じだ。ありもしねぇ国に、いもしねぇ奴等の記憶をひきずって何をするっていうんだ、何のためにっ!?」
一部をのぞいた駐屯部隊の撤退、穏健統治と復興政策の施行、その敷衍と共に、かつてのカルハリアを取り巻く環境はひと頃と比べて格段によくなった。
旧カルハリア人の対帝国感情も日々うすらいでいると聞く。
そして、その動きはこの先も加速されていくだろう。
古い傷跡はそこここに残るものの、街には活気が、人々の顔には笑顔が取り戻された。遺恨は過去のものとなりつつある。
いや、むしろ帝国の経済圏に組みこまれた事で交易や通商は活性化し、人々の生活は確実に上を向きはじめている。
そうしてこの先、五年、十年、三十年、いつしか戦は過去の記憶となり、帝国の支配が支配ではなくなる時が来るだろう。
そして、それはカルハリアという国が本当の意味で滅びる時でもある。
だとすれば、こいつのやってる事に一体どんな意味があるというのか?
国はもう当に滅びたというのに、なお復讐にしがみつくことの意味は。
「俺はあのときの卿の決断が間違っているとは思っちゃいない。徹底抗戦でこりかたまった宮廷で、被害を最小限に食い止め、戦争の早期終結のためには、誰かが汚れ役を引き受ける必要があった。あのときは"ああ"することが最善の方法だった」
それが結果を伴わない行動であったとしても。
予想に反して女装の少年は反論も否定もしなかった。変わらない薄緑の瞳は、ただ一つ二つまばたきしてヘザルに聞いたのみだ。
「なら、どうしてあんたはここにいる? 反対しつつも、こうして曲りなりにも協力しているのはなぜだ。伯爵への忠誠だけが理由ではないだろう」
「……」
かつて故郷であった場所は、瓦礫の山と化していた。
焼け跡にばらばらと死体が転がっている。
なかば炭化した焼死体と、刀傷で絶命したものと、腐乱して死因の特定のかなわないもの。
死体にむらがり、金品をあさるのは生者たちだった。
戦火のあと、生きるすべを求めて同胞のなきがらにたかるカルハリア人の姿。それを追い散らしに時折、帝国兵がやってくる。
毒を投げ込まれた井戸は使用不可能となり、制圧を果たした後となっては、それはカルハリア人のみならず帝国側の首をも絞めた。
各地で抵抗をつづけるカルハリアの残党勢力は、焦土作戦と称して田畑を焼き、かつて帝国側にそうされたように、今度は自分たちの手で井戸や河川を汚していった。
糧秣の補給が届くまでの間、首都に残された食料・飲料水には限りがあり、カルハリア人はもちろんの事、末端の帝国兵達にも満足に配給がいきわたらない有様だった。首都市街地は飢えと、それ以上の乾きにあえいでいた。
腐乱死体や汚物で汚染された川水や、泥水をすすり腹をこわすもの、家畜の肉や自らの腕を切り裂き、その血をすする者。闇市では人肉、時には生きた赤子までもが取引されていたと聞く。
占領から三週間経過した首都は、なお地獄絵図で、それまで戦地を転々としてきたヘザルでさえも吐き気をもよおすような異臭と光景だった。
帝国側の人間として当地に立ったランク卿は『なぜこんなことになってしまったのか』と膝をつき、涙を流した。
そしてヘザルは−ー
なぜ、ここにいるのか?
ヘザルは浅く息を吐く。
「逃げるさ。いよいよ、やばくなった時にはな。いくら卿のためとはいえ心中するつもりはない。お前みたいに犬死する趣味もだ」
主人の行動が誤っていたとは思わない。それは今でも自信をもって言い切れる。
だが、だとしたら一体なにが間違っていたのだろう?
「だからそれまでは、お前がこれ以上、卿を裏切るような真似をしないよう目を光らせている事とするさ」
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