第八章 虚と実と (5)
「っつ――!」
ヘザルはアシャンを突き飛ばして、飛びのいた。
抑えた口からぽたぽたと赤いものがつたって下生えに斑点を作る。
放り出されたアシャンは体勢を立て直すと、さっきまでと比べればずいぶんと遠くなったヘザルの顔を見た。
「反応して欲しかったんだろ?」
「て、めぇ」
激昂した相手の顔に胸がすく。
アシャンは自分のものではない血の混じった唾を吐き捨て、口をぬぐった。
「噛み切らなかっただけ感謝しろ」
「なめた真似をしやがって、この女装野郎」
舌を噛んでやったのに、よく喋る。
本当に食いちぎるつもりでやっても良かったか。
しかし、暫定的優位は根本的な劣勢をくつがえせない。
伸びてきた手をアシャンははじいて流し、そのまま相手の外側に逃げよううとした瞬間。
「馬鹿が」
足が回らず、膝が落ちた。
さきほどの攻撃はフェイントで、それと同時に膝頭に蹴りを入れられたのだと気づいたときにはもう遅い。
前のめりになった体勢を待ち構えていたかのような、みぞおちへの強打。もろに入った。
体がわずかに浮き上がり、また地についたとき、ぐっと衝撃に頭がつまる。内臓がよじれるような痛みが噴出し、意識がぶれた。
そのまま沈まなかったのは、相手に襟首を捕まれ、ひきずりあげられたからだ。
ダン、と再び木の幹にたたきつけられ、つかみあげられた襟首を引き絞られる。
ぶれる視界の斜め上方、振りかぶられる拳があった。
「顔はやめ――」
ガン、と鈍い音が頬骨に炸裂した。
拘束の中で顔をのけぞらし衝撃を受け流したはずだったが、それでも威力は十分だった。割れるような痛みが脳内を満たす。
ずきずきと脈うつ左半分が暗い視界の中、アシャンは信じられないといった視線をヘザルに振向ける。
「正気か?」
仮にこの男が自分をどれだけ疎んじていたとしても、よもや潜入した刺客の顔に蒼痣をつけるほどの馬鹿だとは思わなかった。
「うるせえ! 俺の知った事じゃねぇんだよ。てめぇの顔がどうなろうが、それで、てめぇの正体がばれようが」
「自分が何をしにきたのか忘れたのか? こんな真似をして、俺の正体がばれれば、あんたもあんたの主も−ー」
「黙れ。本気で犯すぞ」
どこをどう読み間違えたか。
この男、一見、粗野で軽薄なようだがランク卿にはそれなりに忠実であったはずだ。
「同じなんだよ」
アシャンの疑問に答えるように、ヘザルは短く言い捨てた。
おそらくは、彼がアシャンに向ける悪感情の大元の理由を。
「お前が失敗しようが成功しようが。どちらにしたところで卿の身の破滅は変わらない。お前がそう仕向けたんだ」
皇帝暗殺。
未遂であろうと、実際に成功しようと、実行犯――つまりアシャンのことだ――の後見人として、おおっぴらに名を連ねているランク卿を待ち受けているものは一つかない。
死。
その前に拷問と同義の尋問、形ばかりの裁判、領地の接収などが待っているにせよ、最終的には処刑されることは動かないだろう。
ヘザルは、アシャンが彼の主人にその道を選ばせたのだと思っている。
全ての元凶は、半年ほど前に自分達の前に忽然と現れたカルハリアの生き残り、首都陥落戦の亡霊だと。
「だったら、いっそこのままお前をくびり殺して、全てをなかった事にしてしまえばいい。そのほうが卿のためにもなる」
恫喝の意味合いが半分、後の半分は本気だった。
だがヘザルが掴みかかっている相手は、皇女の話でからかった時ほどにも動揺を見せなかった。
「……何かと思えば」
アシャンは薄く笑った。
「一度は乗った船を逃げ出す算段か。見苦しいな」
「なんだと?」
「あの主にして、この部下ありということか。主人思いなのは結構なことだが、あんたはこの期に及んで現状がまったく見えていない。
分からないか? あんたらにはもう手を引くなんて選択肢は残されてないんだ。俺がこの宮に女装して入った時点で」
「……どういうことだ?」
首を絞めるヘザルの手から力が抜けていき、それに反比例するようにアシャンの言葉は淀みなく流れていった。
「俺の正体は遅かれ早かればれる。成功しようとしまいと。あんたらの手で殺されようと死体が残るなら同じこと。
そうなったとき、俺がただの男だったならば誤魔化しようもあるだろうが、侍女の死体が実は女装の男だったとなれば話は別だ。この女装は後見人であるランク卿の情状酌量の余地をなくし、反逆行為のよい証拠となる」
平坦な声音は、しかしどこか深い所でずれて聞こえた。
言葉の内容以上に、その歪みがヘザルに言い様のない焦燥感をもたらす。
「そうならないようにするなら、俺がなんの問題も起こさないままこの宮から去っていくことだが、俺は絶対にそれをしない。たとえ正体がばれようともだ。裏で手でも回してみろ、それが俺の最後であると同時に、あんたの主人の命日になる」
「てめぇ最初からそのつもりで……」
怒りもそうだが、ヘザルはこの少年に薄気味悪いものを感じ始めていた。
目の前にいる女装の少年を彼は見くびっていたのだろうか?
いやそうではない、と彼は思い直す。
この女装野郎が死を覚悟して、ここにいるのは知っていた。だがそれは価値のある死に限定しての話だ。
『無駄死にしても構わない』とまで、イカれているとは思わなかった。
こいつには『もし目的を果たせずに無駄死にしてしまったら』なんて恐怖はない。『万が一、生き残ったら』や『その先のこと』なんて見えてやしない。
こいつは『生きたい』なんて毛の先ほども思っちゃいない。
いや、むしろ死にたいとすら願っているではないのだろうか? 道連れにできるだけのものを道連れにして。
へザルはまるで、自分が亡者に足を取られたような錯覚に陥った。
女装の少年は、そんなヘザルをせせら笑う。
「あんたらこそ、どんなつもりだったんだ。一度は死を覚悟しておいて、いまさら腰が引けたか。覚悟が足りなかったとでも言うのか? いい加減、理解しろ。ここまできたら、目的を果たして死ぬか、果たさずに死ぬかの二者択一しかない」
つきつめるような薄緑の瞳がぎらぎらと異様な光を増していく。
その目が言っている。
お前たちは、抜け出せない泥中に足を差し入れたのだ。足掻こうと叫ぼうと、ぬかるみは深くお前達を捉えて、もう決して放さない。
「てめぇ……」
「俺がそう仕向けた? 笑わせるな。俺はあんたの主人に贖罪の機会を与えてやっただけだ。意味のある死か、飼い殺しの生か。わずかばかりでも恥をすすいで名を救う機会か、汚名と屈辱にまみれた、ただ息をしているだけの余生か」
刺すような嘲笑で、女装の少年は笑った。
「かえって貴様の飼い主に伝えろ。いまさら怖気づいても、もう遅い。生き恥ならこの二年間、十分にさらしたはずだ。いいかげん覚悟を決めろとな」
ぎり、とヘザルは擦れるほどに奥歯をかんだ。
「何も……二年前の卿の葛藤も苦渋の決断も何一つ知りもしない青二才が……」
もう一度、拳を振り上げる。それが投下された時の威力を相手に知らしめるように。
「口の利き方に気をつけろ、淫売。二度とは言わない。これは忠告だ。いったい誰のおかげで、てめぇみたいな人間がこんな所でのん気に女装ごっこしていられるか、そいつをもう一度よく考えてみることだ」
主人を侮辱されてどす黒い怒りに塗りつぶされた鳶色の瞳を、振りかざされた拳を、アシャンは凍るような眼差しで見返した。
「知っている。かつてカルハリアの重臣でありながら帝国に通じ、その功もって帝国爵位を授けられ今はランク伯と呼ばれている、裏切り者のカルハリア人のおかげだ」
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