序 全ての始まりの話から (3)
「……サイエン? なぜ、ここに?」
泣き濡れた顔を袖でぬぐいながら、アインは自分の後に立つ少年を振り返った。
彼は左手に松明を、右手に剣を握りしめていた。
その唇は引き結ばれ、松明の照り返しに赤みがかった瞳は異様なほどに張りつめて険しい。
そんな表情をした彼は、アインが平素から知っている穏やかな気性の乳兄弟のものとは思われず、アインをとまどわせた。
ただ最初は服の模様と思った赤いまだら模様が血によるものだと気付いたとき、何かが分かった気がした。
彼もまた今夜という夜の犠牲者であり、自分達が守ることの出来なかった人間の一人なのだ。
「落城が近いと分かった時、母は私にこの地下通路の見取り図を暗記させました。もしもの時のために備えたのでしょう。城内の隠し戸は全部で十あり、いつ帝国軍がその一つを発見するかもしれません。私が先導しますから、お急ぎを」
淡々と感情を故意にそぎ落としたような声音に、アインは嫌な予感がした。
こんな風に大人びた物言いをする少年ではなかった。
それは確かに、乳兄弟といっても公子と乳母の息子では、対等な友人関係を結ぶのは土台無理な話だが、二人きりの時にはサイエンもアインの要望を入れて多少はくだけた態度で接してくれたものだ。
なによりあの、はにかんだような笑みを浮かべて笑う、少し気弱な幼馴染は一体どこへいってしまったのか。
「アイン様……いえ、殿下」
サイエンは右手に持った剣を裸のままベルトに突っ込むと、うずくまったまま動かないアインに手を差し伸べる。
「どうかお立ちください。一刻の猶予もなりません」
いたたまれずに、アインはサイエンから視線をそらした。
これから聞こうとする問いの答えは、彼は半ば予想していた。
「乳母は……?」
その先に続く言葉を口にするには勇気がいった。
ましてや自分がその質問を投げかけようとしている相手は、他ならぬその息子なのだ。
アインに向かって差し伸べられた手が、ぴくりと僅かに震える。しかし、それ以上に感情を示すことなくサイエンは静かに、本当に静かにアインの問いにならぬ問いに答えた。
「殿下がご無事に、この城から出られるように。それが母の最期の言葉でした」
止めどもなく歪んでいく表情をアインは押さえられなかった。
「……めん」
一度はぬぐったはずの涙がアインの頬をふたたび濡らす。
しゃっくりのような何かが語尾を震わせた。
「ごめん、ごめん……サイエン、本当にごめん」
「殿下が、お泣きになられる事はありません」
「お前は、お前たちは僕を恨んでもいい……だって、お前たちは今夜のような目に合うために、父や母や僕に仕えていたわけではないだろう? 僕達は果たすべき義務を果たせず、ささげられた献身と忠誠に何ら報いることが出来なかった。お前達には僕をうらむ権利がある」
サイエンは小さく息を吸って、自分と自分の母親のために涙を流す主人のかたわらに膝をついた。
「あるじ滅びるとき共に滅びるのは、家臣にとって恨むべきことでも悲しむべきことでもありません。もし心残りがあるとしたら、それは死地へとおもむく、あるじを救えなかったことでしょうが……
母と父に置きましては、敬愛する国主夫妻を冥府までお供できたのですから本望だと存じます」
「だがっ――!」
「そして私は」
とサイエンはアインの言葉を半ばで封じる。
おどろいて泣き濡れた顔を上げたアインは、そこに自分をのぞき込むサイエンの瞳にあった。
そしてその張りつめた眼差しの奥に、こごった何かを見る。
今夜という夜の内にアインの知っているサイエンを壊し、新たなサイエンの核となった何かを。
「私は殿下のお供をさせていただくために、ここにいます。むろん、この現世で」
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