第八章 虚と実と (3)
フィオラに宣言したとおり『婚約者』は庭園の中でも茂みの深く人目につきにくい場所でアシャンを待っていた。
「久しぶりだな、女装の」
男――彼が白磁宮で名乗った名前を借りれば、ヘザルは真紅のバラを突き出してにやりと笑った。
憮然とした表情のアシャンに花束をむりやり押し付けると、ヘザルは空いたほうの手で侍女姿のアシャンをぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
「相変わらず可愛らしいナリをしているじゃないか。とても男とは思えない。これなら女としても十分通用するだろう……ふむ、こうして見ると変体貴族共の趣味もまんざら分からんではないな」
頬に向かって伸びてくるヘザルを指をアシャンは叩き落とす。
「こんな方法で渡りをつけるなんて聞いてなかった」
答えを要求する視線に、ヘザルは両手を宙に上げておどけた口調を作ってみせた。
「定期連絡をおこたったお前が悪い。卿はお前の正体が露見したのではないかと、ひどく心配なされていた。こうして俺を様子見に派遣されるほどにな」
「無駄な心配だ。もし露見していれば、あんたをここに送りつけてくる前に、伯爵は領地を押さえられ身柄を更迭されている。そしてそうでない現状、こんな風に接触することこそ露見の可能性を増しているだけでしかない」
ヘザルがその論理に感銘を受けた様子はなかった。
鳶色の瞳は、アシャンにひたりと据えられて動かない。
「連絡が途絶えた理由は?」
「“遅れた”だけだ。途絶えたわけじゃない。もともと俺は諜報目的でここにいる訳じゃない。定期的に細部の状況報告するなど本来なら自殺行為に等しいとあんたにだって分かるだろう」
そうでなくとも潜入先で無闇に動くのは、無駄に危険を増すだけの行為だ。
目的が諜報ではない以上、百害あって一理なしの愚行であったが、それはランク卿がアシャンを白磁宮に送り込むあたって、どうしても譲らなかった交換条件の一つだった。
「そもそも無事の確認だけなら、検閲済みの手紙でも――」
「俺は理由を聞いているんだ、女装の。言い訳じゃない」
ぴしゃりとアシャンの言葉をなかばで切り捨て、ヘザルは顎をしゃくる。
答えろ、と命令する視線で。
「……皇女の側付きになった。それで色々と事情が変わって身動きがとれなかった」
「本当にそれだけか?」
アシャンはうなずく。
「それだけだ」
「誰にも正体を感づかれてはいないだろうな?」
「ああ」
皇女の事は報告しない、と決めていた。
ここでシルヴィア皇女の件を口にすることは、ただでさえ及び腰な後見人をさらに怖気づかせるだけの結果にしかならないだろう。
こちらのどんな表情の変化も見逃すまいと注視してくるヘザルに、アシャンは言ってのける。
「そんなヘマはしない」
「……なら、いいがな」
それで納得したのかしていないのか、いずれにせよそれ以上は追求することなく、ヘザルは口調を変えた。
尋問から、揶揄へと。
「それにしても、入ったそうそう皇女の側付きとは、よほど気に入られたようだな。一体どんな手をつかった?」
にぃと下世話な笑みを濃くする相手にアシャンは冷めた視線を返す。
「別に何も」
「まぁお前のことだ。無害な顔をして人の懐にもぐりこむのは朝飯前だろうな。
どうだ? ちまたで噂の『黒髪の皇女』殿下は? やはり男心を蕩かすような妖艶な美女か?」
市井のシルヴィア皇女の風評は、この宮廷でのものと大差ない。
いわんや皇帝をその筋の女ならではの手管で篭絡した踊り子の、娘。
しかし――
「男心をとろかす?」
失笑した。
「どうだかな。当人がそう振舞おうと努力している節はあるが……」
たとえばあの泉の夜の口付け。
いかにも慣れた風情で押し入ってきた舌の動きは、アシャンが攻勢に転じた途端にたじろぎ、萎縮した。
ラバウル公との一件をあわせても、おそらくは、装っているほどには場慣れしていなかったのだろう。
「五年後ならともかく今は……どちらかというと年の割には言動が幼稚なほうだ」
「まぁ皇宮で純粋培養された箱入りのお姫様だ。蝶よ花よともてはやされて、甘やかされて育てられてきたのだろう。退屈しのぎに侍女をいびるという話も良く聞く。鼻持ちならん高慢ちきのお姫様ってとこか」
「……」
ヘザルは肩をそびやかして、なおも続けた。
「皇宮の女など多かれ少なかれそうしたものだ。
帝都という政の中心部の膝元に暮らしていながら、いかに最先端の流行を着こなすか、社交界の潮流に乗り遅れないようにするかくらいしか念頭にない」
嘲笑の下にうごめく、笑い飛ばせない種類の感情。
「自分達が誰のお陰で捨てるほどに食い、浴びるほどに飲んでいられるのか、その身に飾られた布切れ一枚、宝石ひとかけらが、誰の血と涙の上に成り立っているのか。
何一つ知らず、知ろうともせず、気まぐれに下々の生活をのぞいてみては『なぜこのようなひどい暮らしがあるのでしょう』と金貨をばらまき、カルハリアという滅ぼされた国があると聞けば『まぁかわいそう。私は戦が嫌いです』とか平然と抜かしやがる」
自身の経験に基づくものなのだろうか。
吐き捨てるような口調がヘザルの表情をゆがませた。
「すくがたい無知。しょせん奴等は観賞用の女。低脳で軽薄で、使い道といえばせいぜい寝所の中くらいしかない。駆逐されるべき国家の寄生虫」
実のところ、旧カルハリア人であるヘザルが嫌っているのは、『帝国の女』などではなく彼と彼の主人が仕える『帝国』そのものであったかもしれない。
ヘザルもまたアシャン同様、彼自身の事情で帝国には一方ならぬ感情を抱いている。
論理よりも感情が先行したその言葉を、しかしアシャンは冷めた気持ちで聞いていた。
内容の妥当性はともかく、反論を一切認めない、認める気もない一くくりの言葉は非難というよりは私怨に近く響いた。
強く強く、こり固まってしまった蔑視。
その目の先にいるものをもはや同種の人間とは見なしていない。
それは侵略直後、帝国兵がカルハリア人に向けた視線と少しだけ似ている気がした。
そしてその感情はヘザルのものであるのと同様、アシャンのものでもある。
だからこそ鏡に移った自分の似姿を見るように、自嘲めいた気分だった。
自分もまた、こう、なのかと。
「お前も大変だな。何も知らずにカルハリアの侍女を重用しているような頭の弱い小娘を、仮にとはいえ主人と仰ぎ、おべっかを使わなければならないとは」
「シルヴィア皇女は知っていた」
「なに?」
「皇女は知っていた。カルハリア戦役の事。アトキアという地名。ランク卿のこと。公子存命説についても」
アシャンは「ある意味だからこそカルハリア出身の自分に興味をいだいたようだ」と付け加えた。
「姿勢の良し悪しはともかく、政にまるで無関心という訳でもないし、カルハリア人の目に自分がどう映るかにも自覚的だ。皇女は世間知らずだが、決して馬鹿ではない」
そう、無恥であったとしても無知ではない。
だからこそ悪びれもしない態度を見ると余計に我慢がならないわけだが……
それでもカルハリアという国も二年前の戦のこともろくに知りもしないで、アシャンに同情の目を向けてくる人間たちよりは、まだマシともいえた。
アシャンは自分自身の心境の変化をおかしく思う。
正直な話、アシャンが想像していた皇女像にしたところで、実物に会うまではヘザルのそれと大差なかったのだから。
顔を上げれば、ヘザルの顔から笑いが消えていた。
「ずいぶんと肩を持つな。まさかお前、たかだか一月や二月仕えるうちに情が移ったのではないだろうな」
アシャンは最初、何を言われたのか分からないというようにヘザルを見返した。
その反応の鈍さに苛立ったようにヘザルが重ねた。
「シルヴィア皇女に情が移ったか? と聞いたんだ」
去り際の皇女の顔が残像のように眼裏をかすめた。
すがりつくように見上げてきた黒眼。
アシャンの裾を握り締める指はわずかに震えていただろうか。
――『情が移ったか?』
アシャンは顔を伏せる。
胸の下から、腹の底からこみ上げてくる感覚。
腸がねじれるような。
くっとアシャンは唇をゆがめる。
引き攣れた笑いがこらえきれずに口の端からこぼれて、小刻みに肩を揺らした。
「何がおかしい?」
「あんたには分からないさ。あの時あの場所にいなかったあんたには」
そうさ。
おかしくておかしくて、ならない。
この男、言うにこと欠いて『情が移ったか』だと?
笑いを収めても、唇が歪むのがとめられなかった。
そのままの表情で、アシャンは顔を上げ、吐き捨てる。
記憶の中、まだ青ざめたままのシルヴィアに。
「あの首都陥落の夜の生き残りが帝国の人間に情を移すなんて、そんなこと、ありえないんだよ」
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