第八章 虚と実と (1)
「そろそろ身支度をしないとまずいんじゃないのか?」
シルヴィアはその問いを無視して、くるりと背後のアシャンを振り返る。
「ねぇアシャン、お前、乗馬は出来るの?」
「なぜそんな事を聞く?」
「ずっと憧れていたのよ。馬に乗っての遠駆け。二本の足で駆ける以上の速度で、風を切って走るってどんなかしらって。でも私、乗馬はあまり得意ではないのよ。だからこの際、女装の侍女の膝の上でも我慢できるわ」
「……毎度毎度、ご苦労様だな。ここで乗馬のたしなみがあるとでもいえば、俺は貴族の出自という事になるわけか? あなたの誘導尋問では」
「毎度毎度、ひねくれたものの考え方ね。そんな風に悲観的に物事をとらえてばかりいたら生きていて面白くないでしょうに」
アシャンは肩をすくめた。
「あなたは面白そうだな。生きているのが」
「どうせ限られた時間なら、眉間に皺を寄せているよりも笑っていた方が特よ。でもね、泣いているよりはお前みたいに怒っている方がまだいいわ。知ってる? 泣いているとね、逃げていくのよ。自信とか幸運とか、立ち上がるための気力とか……そういったものがね。全部、逃げていってしまうの」
「……話に一貫性がないな。よくまぁ、そこまであっちからこっちへと話が飛べるものだ」
ラバウル公との一件いらい、必ずしもアシャンの態度が友好的になったわけではなかったが、何がしかの変化があったように見えるのはシルヴィアの気のせいばかりではないだろう。
たとえば、慇懃無礼だった口調。その下にあった棘のような敵意。そういったものが少しづつ刃先を丸め、鈍っているように見てとれる。
そういえば軽口にも何とはなしに応じてくれるようになった。
「それよりも謁見に間に合わなく−ーー」
相変わらず生真面目ではあるが。
「アシャン、お前ってずいぶん女装が板についているわよね。大体なんで女装なの? 性別を偽らなくとも他にも色々やりようがあったのではないの? ランク卿の後見があるならば尚のこと」
誘導尋問である事にも違いないが、純粋な興味もあった。
「だから、その手は食わないと言っているだろう」
「髪はそのために伸ばしていたの? だって地毛ですものね、それ。胸はどうしてるの? 詰め物?」
にじりよってくるシルヴィアに、アシャンは顔をひきつらせた。そんな姿を見ていると、とても目の前の侍女が恐れるべき刺客とは思えない。
「趣味?」
その時のアシャンの表情は圧巻だった。
「あなたは自分の立場をーーー」
「ちゃんと分かっているわよ」
シルヴィアは肩をすくめる。
「……変装でしょう、本当は。顔見知りに鉢合わせても大丈夫なように? カルハリアが滅びてからもう二年も立っているし女装なら分かるまい、とでも?」
もちろん答えるはずもない。そこで頷いたら、皇宮に顔見知りがいるカルハリア人という事に断定されてしまうのだから。
案の定、アシャンはシルヴィアを睨みつけている。あと少しつつけば、またフォークやナイフを振り回しはじめるかもしれなかった。
シルヴィアは笑いをかみ殺す。過去や素性の一端なりとも明かすまいとする姿勢は、刺客や間諜の類としてなら立派な心構えなのかも知れなかったが、事ここに至るともはや喜劇に近かった。
和らぎすぎた場の空気に怒るのが馬鹿らしくなかったのか、単に趣味と断定されるのが耐えがたかったのか、女装の少年は、彼にしては最大級の譲歩を口にした。すなわち、シルヴィアの好奇心を満たしのだ。
「女の格好は……以前にもした事があって勝手が分かっていた事もあった。だから……」
この少年にしては珍しく歯切れが悪い。
「では、やはり趣味という事じゃない」
「違う。俺のじゃない」
「面白いわ。お前でもそんな風にムキになるのね」
「俺のじゃない。相手の趣味だ」
何か気の利いた冗談でも言おうとして言えなかったのは、いつの間にか相手の目に浮かぶ光が変わっていたからだ。軽口の名残りはもうそこにない。
敵意でも怒りでも、ましてや悲しみでもない、もっと風化して色褪せた感情に、薄緑の瞳がまたたいた。
「そういう性癖の持ち主だといえば分かるか?」
分からない……訳ではない、必ずしも。だがこういう時どう答えればいいのか、そちらのほうが分からなかった。
シルヴィアの表情を見て、アシャンは少し笑った。
「皇女殿下には、とんだお耳汚しかもしれないが……世の中には、通常のやりようでは欲望を満足させられない種種様々な人間が存在するということだ。そして、そういった変態どもの欲望を逆手にとって利用する人間も」
淡々とした口調に落ちた倦んだ翳りは、どこか退廃的な匂いがした。屈辱や嫌悪感を当の昔に通り過ぎ、そんな過去の残骸を皮肉っぽく振り返る眼差し。
同情だけはしまい。シルヴィアはそう決めていた。
この少年に“自分が”同情するのだけは間違っている。帝国がカルハリアになした事、この少年の目的、またシルヴィア自身、この少年を利用しようとしていることをを考えれば。
「……まるで自分から望んでそうしたみたいな事いうのね。それもこれも、みんな帝国のせいだって思っているくせに。全部、お前達のせいだって」
「もちろんだ。だけどあなた達に償ってもらうべきはそんな瑣末な問題じゃない」
「瑣末なの? その、望んでもいない相手に……」
「性の奉仕をさせられることが?」
言いよどんだシルヴィアの後を、アシャンが引き受けた。
「……別に選択肢がなかったわけじゃない。選択肢は、いつだってある。本当に嫌なら、相手を殺そうが自分が殺されようが拒否すればいい。そうしなかったというなら、それよりも大事なものがあったという事で、すべては己の選択の結果という事になる。だいたい」
アシャンはくぐもった笑い声を立てた。
「あなたが想像するほど悲劇的状況でもなかった。人間は順応する生き物だ。いっそ喜劇的なくらいに」
母も……イン・シァン妃もそうだったたのだろうか? 踊り子としての己の有り様を、選び受け入れ、順応したのだろうか? 皇帝の愛妾という運命にも?
「今となっては、そういった連中にも俺は感謝している。仕込んでもらった手練手管はせいぜい利用させてもらう。この姿だってそうだ。実際、役に立っている。違うか?」
違わないだろう? と確認を迫るその間だけアシャンの瞳に刹那の切迫がかすめていった。
過去を、いままでの何かを否定されるのが耐え難く、とても我慢がならないとでもいう風に。
「あなたの言葉を借りれば、現状に泣くよりも怒れ。そして、怒るよりも笑え。俺は笑ったつもりだ」
「その姿……」
長く伸びた薄茶の髪。女物の服。その下の大小無数の傷跡。それらは一体どのような経緯を経てアシャンの一部になったのだろう?
「その姿、似合っているわよ。とても」
限りなく滑稽な賛辞に、アシャンは表情を綻ばせた。
わずかに零れた泣き笑いのような表情からシルヴィアは目をそらす。その痛みに共感することは、自分にとって致命傷になるだろうと分かっていた。
「……では、そろそろ用意を始めるべきだ。でないと皇帝への謁見に間に合わなくなる」
シルヴィアは俯いた。
「用意は……するわ。でももう少し待って」
「何をそんなに脅えている? どうせ俺は謁見の間に入れない。あなたが心配するような事は起こらない。少なくとも今はそうだ……それとも何か? あの男の求婚を受け入れておいた今になって、結婚話が正式になるのが嫌だとでも?」
「……」
アシャンがもう一度、急かそうと口を開いたその時だった。
扉がノックされパニエラの声が響いてきた。
「申し訳ありません殿下。そちらにアシャンは?」
「ええ、いるわ。何用?」
「それが郷里からアシャンに面会人が来ておりまして、今を逃せば会う機会をとれないと申しますので……ご無礼を承知で、こうしてお伺いを立てにきた次第であります」
「面会人?」
「はい、それがその……アシャンの婚約者と名乗っております」
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