第七章 髪には紅あざみを飾り (2)
「いつ見ても、この中庭の花々は見事だ。今は亡きイン・シァン妃も花をとても愛された方だった。見たまえ、彼女の郷愁を慰めるために陛下が東方より取り寄せられた異国の花の数々を……特に私はこの『ハス』という花が好きだ。めずらかな葉、優雅な茎、控えめなガク、そしてあえかな花弁、実に神秘的で可憐だ」
中庭を散策しながら、ラバウル公は目を細めて、池の中から頭をのばす薄紅色の蕾を愛でる。その隣で、シルヴィア皇女はぼんやりと父帝が母のために作った庭園に目をやった。
白磁宮にも泉はある。
そしてそれは例の泉よりも広く、いつも四季折々の花々に満ちあふれている。
なぜ、とシルヴィアは思う。なぜ母はこの泉ではなく、あんな人知れぬ場所にある小暗く淀んだ水の中で死ななければならなかったのだろう?
「陛下の母君に対する愛が、この美しい庭園に凝縮されているとは思わないかい?」
「母は、あまりこの庭を好んではいないようでした」
「そうかい? でも私にはこの庭に咲く故郷の花々の事をよく語ってくれたよ。実をいえば私が花を愛でるのもイン・シァン妃にならっての事なのだよ」
初耳だった。
「生前、母と親しくしされていたのですか?」
「親しいという程ではないけれどね。いつの折だったか、宮廷で東方の話を披露した際に、非常に興味を示されていたので、その後も幾度か同じような話や東の品々をお届けに上がったくらいかな」
「それは……まるで存じ上げませんでした」
母親の口からは、ただの一度としてラバウル公の存在を聞かされた事はなかったのだ。シルヴィアは改めてラバウル公の顔を見上げた。この男は自分の知らない母を知っている。
ラバウル公はシルヴィアの注意を引いたことに気を良くしたのか、表情を明るくした。
「無理もないよ。こちらの宮を訪れたのも、ほんの一二度の事だったし。それに私の披露した
東の国々の話にしたところで結局は全て伝聞だからね、献上する話の種も直ぐにつきてしまった」
考えるよりも先にシルヴィアは聞いていた。
「母は、母はその時どのような様子でしたか?」
「とても注意深く聞いていらしたよ。微にいり細にいり、本当に細かい所まで質問されたりしてね、こっちはもう冷や汗ものだった。なにせ人の口から口に伝えられている内に、歪曲されたり誇張されたりして、その国の人が聞いたら随分とおかしな物になってしまっていただろうから……でもきっと妃はそんな話の中からでも、すこしでも多く本物の故郷の欠片を掬い取ろうとしてらっしゃったのだろう」
「……そう、ですか」
軽い落胆が胸をふさぐ。それではシルヴィアの知っている母親と変わらない。
いつも過去にばかり目を向けて、今を見ていなかった。
ラバウル公は重ねて言う。
「イン・シァン妃はすばらしい方だった。陛下には内緒だけど、私とてあの方に憧れていたのだよ。はじめて……そして残念にも最後となってしまったけれど、彼女がこの宮廷で披露した演舞、あれはまさに珠玉の一品だった。
知ってるかい? 彼女が踊っていた四半刻の間、楽の音いがいの全ての音が鳴りを潜めて、彼女の衣擦れの音一つ聞き逃すまいと宴の間はしんと波打っていた。誰も彼もが彼女の姿に見惚れていたよ……あの間だけは、きっと宴の間の全ての男が彼女に恋をしていた。当時十六歳だった私も例外ではない」
とうとうと語るラバウル公の言葉を、シルヴィアはどこか皮肉な思いで聞いていた。
ではこの男が自分を望んだのは母の代わりに、という事か。
「では異国の踊り子の媚態に、心を奪われたのは陛下ばかりではなかったという話ですね」
「ひょっとして……」
いま気付いたとでも言う風に眉を潜めて、ラバウル公はシルヴィアを覗きこんだ。
「貴女はイン・シァン妃のことがあまり好きではないのかい?」
「好きかと聞かれたならば、そうではないと答えるほかありません」
「ではきっと貴女はあの方の事を何か誤解しているのだ。宮廷には色々と口さがない事をいう人達もいるからね」
“人達もいる”どころの話ではなかったが、シルヴィアは水をささずにおとなしく聞いていた。
ラバウル公が今から話そうとする事は恐らく、いままで聞いてきたどんな美辞麗句よりも、はるかにシルヴィアの聞きたい言葉に近い。
「彼女の立ち居振る舞いはたおやかで優雅で、そこいらの姫などよりもよほど品も格もあった。身分は低かったかもしれない。だが彼女には気品があった。彼女は大陸でも並ぶ者のない、一級の舞い手だった」
手放しの賞賛。かつて、これほどまでの賛辞と好意を母に捧げた者をシルヴィアは知らない。たとえその母への憧憬こそが、彼がシルヴィアを望む理由であったとしても。
シルヴィアは唇を噛んだ。
「一級でも踊り子は踊り子。客の前で芸を披露するという点では路上の大道芸人と変わりはしないし、後見人をもてなすためには酌婦の真似事もいたします。望まれれば裸同然の踊り子衣装を脱ぐことさえ厭いはしない」
言ってみれば高級娼婦だ。客層が違うだけで、やっていることは場末の娼婦と変わりはしない。少なくとも、それが後宮に入ったイン・シァン妃をむかえた宮廷人の視線であったはずだ。母を自ら望んだ皇帝でさえ、多かれ少なかれ例外ではなかったというのに。
なのに、何故いまさらこの男は違うことを言う?
「本当にそう思っているのかい? 母君が娼婦だったなどと?」
なぜいまさら――シルヴィアは眉を寄せて婚約者を振り仰いだ。
「違うとでもいうのですか?」
「違うよ、それは違う」
限りない断言でラバウル公は微笑んだ。
――目眩がした。
「彼女の技は、彼女の女性としての魅力と相容れぬものではなかったけれど、それよりも遥かに素晴らしかった。それに彼女の容貌は確かに皇帝が一目で心奪われるほどのものだったが、それは媚態というよりは、むしろ侵しがたい少女のような美しさでね。扇情的な衣装も、彼女の体にあってみれば妖精の羽衣のように優美で、どこかしら気高くさえあった」
語るほどに高ぶりを増していく語調。最初はシルヴィアの気持ちを解くためであった言葉も、過去の追憶に呑まれて、次第に臨場感を帯び、熱に染められていく。
「繊細な少女のような美貌。だというのに、一度その手足が滑り出すと、淡い花のようだった肢体は、色と艶を増していくんだ。
彼女がその腕で弧を描き、その指を宙に這わせる。そのつややかな黒髪が流れ、跳ね、舞う。彼女の手が、足が虚空に差し出されるたび、私達は息を潜める。鳥肌がたったよ。
たしか舞の名は『花びらき』といったか。正にその名の通りの舞だった。そう……まだ硬い蕾のその奥が、人ならぬ者の指によって掻き分けられ、押し開かれていく様を目の当たりにするような。神秘的で不可侵で、神々しいのにひどく淫らな――」
「ラバウル公」
それ以上は聞いていられず、シルヴィアは遮った。
目の前の男の眼差しはシルヴィアの知らない若りし日の母を映していた。
賛美、陶酔、興奮が混然となったその目は、まぎれもなく男が女を見るものだ。熱情の気配を宿してシルヴィアを覗き込み、その中にある母の面影に陶然としている。その様子はいっそ淫猥と言ってもいいほどで――
目眩と、そして吐き気がある。頭がくらくらしした。
こんなのは侮辱なのだと理解していた。だが自分自身ですらずっと否定してきたものを肯定してくれる人間がここにいる。たった一人。
心動かさずにはいられなかった。
だが、と同時にそれに縋りついてしまう事は、救いようもなく愚かしく惨めな行為であるとも分かっていた。
「ああ、すまない。少しばかり脱線してしまったようだ」
シルヴィアは声を落とす。
「いえ。随分と母に入れ込んでおられたのですね」
「なに、ただの少年の日の憧れだよ。それに後宮に入れられてしまってからは、彼女の踊る姿は見られなくなってしまった。嫉妬深い貴女の父君のお陰で。私に言わせれば、彼女の心が弱っていった原因はそこにもある」
ラバウル公はそういって笑うと、改めてシルヴィアに向き直った。
「そしてシルヴィア、君はあの頃の母君そのままだ。私が嫉妬に身を焦がして口うるさい事をいうのも、仕方がないのだと許しておくれ。だって君はこんなにも美しい」
肩に掴んだ手をシルヴィアは振りほどけなかった。肌が粟立つ。身がすくむ。なのに振りほどけない。
「見たまえ。このしなやかに伸びる若木のような肢体。どこかしら生硬で、なのに開花の予感を宿して艶っぽい……」
肩の開いたドレスは、男の手を拒まない。
ラバウル公の手が、露出された肌にかかり、そこから鎖骨をなぞり首に滑っていく。シルヴィアは拒否できない。
蛇に睨まれた蛙のように、心も体も痺れて動けなかった。
「この白魚のような肌に顔を埋め口付けられたならと、どれだけ私が願っていたか、きっと貴女には想像もつかないだろう」
指はシルヴィアの首に巻かれたチョーカーまでたどり着くと、しばらくそこを弄んだ。
「愛している、君を愛しているよ」
産まれて初めて耳元にささやかれる愛の言葉。甘く、欲情の香りすらする。だが、その一方で自己完結的でひどく酷薄な台詞。
「愛している」
――誰を?
この手はいったい誰に触れているのか。この指は誰を愛撫し、誰を欲しているのか。
シルヴィアではない。
だが、それと同時にシルヴィアに限りなく近い誰かだった。
ラバウル公は、動けないシルヴィアの黒髪に手を差し入れ、その一房に指にからめて乱した。
「君は私の花、私だけの花だ」
そうするうちに、紅あざみの一つを掬いとる。
「そう。たとえ君が私を嫌おうと、あざみの棘をまとって私を遠ざけようと……」
ラバウル公は、親指と人差し指で花を弄び、ひねり潰した。崩れた花を、シルヴィアの鼻先につきつけて散らす。
紅アザミの赤い針のような花弁が、折れてちりぢりに落ちていった。
「拒むことは許さない」
腰をさらわれ、強引に引き寄せられる。
「公―――っ」
制止の言葉は、ラバウル公の唇によって塞がれた。とっさに胸に手をついて体を引き離すも、またすぐに引き戻される。
今度は顎をしゃくられ顔を上向きにさせられると、舌が唇を押しわって入ってくる。何かの生き物のように口腔をはいずりまわり、絡みついてくる。シルヴィアが身を引くと、その分深く体をよせ、シルヴィアの中に入ってくる。
いや、シルヴィアではなかった。
口腔に男の舌を受け入れているのはシルヴィアなどではない。その腕に抱きしめられ、狂おしいまでに求められているのは……
吐き気がした。
「愛しているよ」
息継ぎの合間に囁かれる代わり映えのしない言葉。溺れるように、喘ぐようにかかる熱い吐息。
そしてその熱を注がれるほどに、彼の腕の中のイン・シァン妃は記憶のそこからよみがえり体温を取り戻していく。
そしてその傍らでシルヴィア自身は冷えて小さくなっていくのだ。遠のいていく。
冷や汗が流れる。胃の府の底をつたう、ぞわりとした感触に膝をついて体を丸めたい衝動。足から力が抜ける。
シルヴィアはその場に崩れ落ちるが、ラバウル公の腕の力によって引き摺りあげられた。二の腕を痛いほどに掴まれ、首筋に男の頭が埋まる。
舌が首筋をなぞり、耳たぶにからんだ。
「愛している、愛している愛している愛している」
吐き気が膨れあがる――
「シルヴィア殿下!」
突如、庭園に響きわたった大声にシルヴィアに身を押し被せていたラバウル公の動きが止まった。唇をシルヴィアの首から離し、二の腕を掴んでいた力を抜く。
ラバウル公はシルヴィアを解放し、乱れた頭髪を掻きあげると、ゆっくりと乱入者に向き直った。
「無粋もいいところだな。この宮の侍女は一体どういう教育を受けている?」
支えを失ってその場に崩れ落ちたシルヴィアも、追って顔を上げた。ラバウル公の背中ごしに見えるのは、白磁宮の侍女のお仕着せ。
茶髪碧眼の侍女は座り込んだままのシルヴィアをわずかに一瞥すると、冷えた緑の視線ををラバウル公に戻した。
「気付かぬこととはいえ突然の乱入をどうかお許しください、ラバウル公爵閣下」
「……君は?」
視線をラバウル公に固定したまま、亜麻色の頭がゆっくりと下がる。
「アシャンと申します、閣下」
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