序 全ての始まりの話から (2)
「母上っ、父上っ!」
血がにじむほどに拳を石の戸に打ちつけても、喉が枯れるほどに叫び続けても、残酷な現実が露ほども変わるわけではなかった。
目の前に重々しく閉ざされ、もう決して開かないだろう石の戸の向うにはカルハリアの玉座がある。
そして、そこに横たわっているだろう二つの死体を思い、アインは爪が食い込むほど強く拳を握り締めた。
――生きなさい。
それが母の最期の言葉だった。
―――お前さえ生きていれば、必ず公国の再建はなる。
それが父の遺言となった。
カルハリア公国の国主としての言葉ではなく、一人の父親としての言葉だと、アインには分かった。
なぜなら――
(公国の再建は成らない)
十三という年の割に早熟なアインには痛いほどに現実が見えていた。カルハリアはもう滅んだ。滅んだのだ。
豆粒ほどの国土の三分の一はすでに焦土と化した。
最初から国力に差のありすぎる戦いだった。
戦などとは呼べない、象が蟻を踏み潰すにも似た一方的な侵略。
こうまで早く決着がついたのは、確かに重臣の裏切りに寄ることが大きいが、戦争回避の外交努力が尽きた時点で遅かれ早かれこうなる運命だったのだ。
いまや城は落ち、カルハリアは名実と共に滅び去ろうとしている。
それを止める手立てがあるというならば誰でもいい。教えて欲しい。
この冷たい石壁の向うで流された、今も流され続けている血を、命を、購える方法があるというならば自分は悪魔に魂を売ったってかまわない。
――人の上に立つものは、たくさんの命をその背に負わねばなりません。いいえ、命だけではありません。民の期待も、願いも、不満も、絶望も、その全てを一身に受けて立つからこそ、私達は平民よりも多くの特権を与えられている。
いいですか? ゆめゆめその事を忘れてはいけませんよ。
(忘れてなどおりません。母上)
――だから強くおなりさい、アイン。皆の希望を怖じることなく、になえるように。
(でも母上)
アインは冷たい石戸に額をあてる。
(国は滅びようとしています。私達が負った責任を果たせなかった結果です)
はるか昔の設計者の手になり、アインが最初で最後の利用者であるだろう石の扉は、湿り気を帯びて、わすかにカビの臭いがした。
(希望は砕けてしまいました。命はこぼれてしまいました。彼等にはもう願うことも不満を言うことも絶望することも出来ません。そして私にはそれを取り返す力も、これから流れると知っている流血を止める力もありません)
豊かな土地も資源もない小国は徹底的に叩きつぶされ、帝国に逆らったものがどういう運命を辿るかの良い見せしめとなるだろう。
わずかに残ったカルハリアの国軍は解体され、当分の間はの駐屯部隊が臨時政権を立て、残留勢力の掃討の指揮をとる。
残党狩りに外国の軍隊の駐留。
カルハリアの民を襲う不幸はまだ始まったばかりなのだ。
カルハリアは無法地帯と化す。
その煽りを真っ先に、もっとも酷く受けるのは民衆だ。
被支配者として収奪され、身を守る法も国もない弱者として虐げられ、塗炭の苦しみにあえぎながら彼等は呪うだろう。
自分達をそんな目におとしいれた帝国の暴虐と、カルハリアの支配階級の無能を等しく憎むだろう。
仮にアインが残留勢力に合流し、公国の再建を旗印に戦ったところで、何が変わるというのか?
いや、彼等の苦しみをいたずらに引き伸ばすだけの結果にしかならないに違いない。
他国に助力を乞おうにも、亡んだ小国の一公子である自分が一体どんな見返りを提供できるというのか。
第一いまを相手どって戦えるだけの国力と政情を維持した国など、アインには思い浮かばない。
全てが吹きすぎたその後、カルハリアに待っているのは帝国が押し立てる傀儡政権か、あるいは正式な帝国への併呑か。
だとしたら自分一人ここで生き延びて何になるのか。
生を受けて十三年間、公子として生きてきた自分が国を失い、それを取り戻すことも適わぬままどうやって生きていくというのだ。何のために?
「…一体、何のために」
アインは拳をもう一度、開かない石の戸に叩き付けた。
(ならば、せめて――)
一緒に死にたかった。
その時になってようやく何かがこみ上げてきて、アインは顔を両の掌でおおった。
ひきつれた慟哭が、涙が、それを恥じるようにおおった指の隙間からもれでてアインを公子ではなく十三歳の少年に戻した。
冷たい石畳を濡らす生あたたかい水滴は民や国などとは関係ない、両親をうしなった一人の少年としての涙だった。
アインの両親、カルハリアの国主夫妻は死んだ。
自決だった。
敵の手に落ちて辱めを受けるよりは、貴族としての矜持を保つために、守りきれなった民へのせめてもの贖罪としてカルハリアの国主夫妻はみずから命を絶った。
自分一人を、この地下通路に押し込めて。
生きろ、と。
残酷きわまる言葉を残して。
「アイン様っ」
その声が誰もいないと思っていた隠し通路に反響し、アインは涙に濡れた顔を上げた。
|