第五章 しんしんと音もなく (3)
知らず拳を白くなるまで握り締めていたシルヴィアは、小さく息をついた。意識を総動員して呼吸を整える。
―――落ち着け。いったい何をそんなに熱くなっている。
いま考えるべき事は、そんな事ではないはずだ。
カルハリアと帝国の何れに理があろうがなかろうが、あのカルハリア人の少年がこの帝国に恨みを抱こうが、そんな事は自分の知ったことではないはずだ。
そう、いま考えるべきは―――自分がこの先どう行動すべきか、その一点のみだ。
復讐の協力を申しでた。表明文も書かされた……シルヴィアは掌を広げて、親指についた切り傷に眼を落とす。
血印も押した。
シルヴィアは親指の腹に浮かぶ朱色の線を見つめた。こすれて滲んだ傷口からただよう金錆びた匂いには、ぎりぎりの所で切り抜けた死が、まだ生々しく香っていた。
考える。
後戻りする事は可能だろうか? いまから全てをなかった事にするのは可能だろうか? あの少年と交わした約束を反故にすることは?
シルヴィアは顔を上げ、ほの暗い月明かりの中に浮かび上がる扉を見る。固く閉じられた扉の向こうには衛兵がいる。
そう。もし望むなら―――
シルヴィアは考える。
今ここで、今夜の全てに終止符をつける事だって出来る。
■ ■ ■
だが―――
シルヴィアは自分を抱きしめる腕に力をこめた。
だが、それでいいのか?
命が惜しいといった言葉に偽りはない。
だが、たとえ己の命が最優先事項だとしても、いまここでアシャンの正体を暴露することが自分にとって最善の行動だとはかぎらない。
そう。
アシャンが自分を利用する気でいるのなら、こちらが逆にアシャンを利用することだって可能なのではないか?
情報を提供し、便宜を図るとシルヴィアはアシャンに約束したが、それは逆に言えば彼の行動を把握できるということでもある。上手くやりさえすれば、その心理や行動を誘導し、制御することも不可能ではない。
味方に見せかけて油断させ、あわよくば書かされた表明文を取り返すことだって可能なのではないか? もしそうなら彼を突き出すのはそれからでも遅くはない。
なにより今シルヴィアは自分の手足となって動いてくれる人間を一人でも多く欲している。現時点で心から信用が置ける人間といえば、乳母であるセシーラただ一人きりだ。
そこにアシャンをつけ加えることは出来ないだろうか?
もちろん信頼などおける筈もない相手だが、あの少年は目的意識と行動基準がはっきりしているぶん扱いやすいともいえる。応じ方をあやまたない限り、前触れもなく手を咬まれることはないだろう。
そう、利用できる余地は十分にある。あの少年はこの潜入先の敵地で、恐らくはシルヴィア以上に切実に味方を欲しているはずだから。
立場的には自分の方に分があるのだ。
ならばそう急いで結論を出すことはない。アシャンを切り捨てるのは様子を見てからでも遅くはない。おかしな動きを少しでも見せたなら、あるいは自分の手に余るようなら、迷わずに切り捨てればいいだけの話だ。
そうだろう?
命は大事だが、それを後生大事に抱えているだけでは、何も変わらないし手に入れられない。
死ぬのは怖い。とても怖い。
だが死ぬよりも怖いことは確かに存在する。
それは何も手に入れられず、何も為せず、ただ老いて朽ちていくことだ。母の死に対する疑惑を胸の底に沈め、自分の運命を呪いながら人のつけた轍の上を死ぬまで歩き続けることだ。
これはゲームだ。
シルヴィアはそう思うことにした。
一度はシルヴィアの話に乗った以上、アシャンとてしばらくは様子を見ようとするだろう。となると化かし合いだ。
どちらがより多く利用し、より多くのものを得て、先に相手を裏切るか。
命と目的を賭けてアシャンが復讐という大勝負に挑んでいるなら、シルヴィアとて相応の覚悟をもって、彼の待つ盤上に臨もう。
シルヴィアは涙を止め歯を食いしばり、顔を上げる。
格子窓の向こうに白みがかった夜明けの空に、夢の名残のような月がぼんやりとかかっていた。ちょうど生前の母のように頼りなく、消えかかった瀕死の月。
その月にシルヴィアは誓う。
「見ていてください」
私はあのカルハリア人の少年を懐柔してみせる。利用してみせる。
賭けをするからには勝ってみせる。
そして、
「あなたの死の真相も、きっと暴いてみせます」
淡雪のようにあえかな月は、音もなくしんしんとシルヴィアを照らしていた。 |